2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。


麻布十番の七面坂と本善寺があったあたり
吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。


とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2016年4月4日月曜日

東洋英和ラ-ジ殺人事件


 


      
事件当時の東洋英和女学校
校舎(創立地)
麻布区東鳥居坂町14番地
(提供:東洋英和女学院)

事件当時の東洋英和女学校校舎(創立地)











      
創立地校舎敷地図面
(鳥居坂町14番地)
(提供:東洋英和女学院)

創立地校舎敷地図面(鳥居坂町14番地)















      
現在の東洋英和女学院創立地
(港区六本木5丁目12-11)

現在の創立地











      
T.Aラージ氏墓碑(青山墓地外人墓地)

T.Aラージ氏墓碑(青山墓地)























































   
殺害されたThomas A. Large
(提供:東洋英和女学院)

殺害されたThomas A. Large









   
Eliza Spencer. Large
東洋英和女学校・第二代校長
(提供:東洋英和女学院)

Eliza Spencer. Large東洋英和女学第二代校長












      
東洋英和の敷地変遷とその周辺

東洋英和の敷地変遷とその周辺















1890(明治23)年4月4日夜11時ころ、麻布区東鳥居坂町13番地(港区六本木5丁目12-11)の東洋英和女学校に賊が侵入し、日本刀のような物で、校長でカナダ籍のスペンサ-・ラ-ジ(当時30歳)が切りつけられ重症を負い、夫であるT.A・ラ-ジが斬殺されました。 
賊は学校台所脇の物置から侵入し、小使の瀬川喜兵衛を脅して金のありかを詰問しましたが、瀬川は知らなかったので縛り上げて、2階の校長居室に侵入します。物音に気付いて「だれだ!」と声をかけたT.Aラージ氏に「用事がある」と近寄った賊は、氏を14ヶ所も切りつけて即死させてしまいます。 
その際に夫を助けようとした妻のスペンサ-も顔を切られ、指を切り落とされるなど重傷を負いますが、騒動に気づいた寄宿生が騒ぎ出し賊は何も取らずに逃走しました。

賊は逃げ出す時に、洋銀製の煙管(キセル)が入った印伝(インデン)の煙草入れを落として行ったので、警察の調査で賊は「知識階級」の者であると推測されました。また瀬川は賊が股引足袋装束であったと陳述し重症を負ったスペンサ-の口からも賊は身にしっくりした衣装で白い帯をし、うわっぱりも巡査が用いる物に違いなく、賊は警察官であったと固執し、この原因はキリスト教の迫害が目的であろうと陳述したので、時の政府はたいそう狼狽しました。

麻布鳥居坂警察署誌によると、


「~本署は之より犯人は強盗と見込みを付けたが当時の下谷警察署に於ても大捜査を開始した。此犯行は非常に巧妙で何等の痕跡なく犯人は検挙せられず迷宮事件の一つになって終わった。当時未だ治外法権も撤廃されず外国人は内地人より優越的な待遇を受けていた時代なので、外国人等より批判多く相当興論を沸騰せしめた事件であつた。」 
とあり、世間でも大騒ぎした様子がうかがえます。


事件後、警察も犯人の手がかりはまったくつかめずにいましたが、犯行から11日目の山梨日々新聞に突如「練絲痕」という小説の連載が開始されます。内容は日本人青年大森安雄と金髪令嬢レニスとのよくある恋愛小説だったが、2回目の連載「無惨」の内容はレニス嬢の父親が殺害される場面がラ-ジ殺人事件と酷似しており3回目の「疑惑」ではその犯人の追及を行うというリアルな内容であったため、警察も事件の内部事情に詳しい者が執筆している可能性があると調査を開始しました。

著者は靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三という学生で、早速取り調べたが事件の新聞記事を基に小説を執筆していた事が分り、犯人ではないことがわかりました。しかし、この小説の連載は警察の取り調べ後、9回をもって打ち切りとなります。
犯人の割り出しに躍起になった警察は、田中光顕警視総監の下で鬼と呼ばれた武藤警部を導入し嫌疑者を多数取り調べますが、十分な証拠も無く、すべての嫌疑者が釈放されてしまいます。

当初、小使の瀬川喜兵衛も事件当時の行動に不信をいだかれ、厳しい取り調べを受けます。また事件当時の学校は前年の校舎新築工事の代金未払いで下請業者と係争中でもありその線も調べられました。しかし結果はすべて”白”で捜査は振り出しに戻り、困り果てた警察も田中警視総監の名で300円の懸賞金をかけますが、結局有力な情報はもたらされず、事件は迷宮入りしてしまいます。


事件が解決されたのは事件現場であり東洋英和女学校が創立地でもある鳥居坂町14番地から現在の地に移転した2年後の、1902(明治35)年12月で、その間武藤警部と配下の兼子刑事は何と12年に渡って執拗に事件を追い続けていました。

犯人は明治25年強盗犯として新宿署に逮捕され服役していた馬場恒八、士族の小笠原重季の両名で、その事件の手口がラ-ジ殺人事件の犯痕と共通するものが多くある事を付きとめ、小笠原重季を幾度となく取り調べた結果、遂に自供に至り事件は12年ぶりに全面解決します。 
しかしこの時、馬場恒八は網走監獄ですでに獄死しており、また小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中でしたがラ-ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたため、小笠原重季はラ-ジ殺人事件が解決した直後の1902(明治35)年12月17日に満期出獄します。


(余談その1)


「幕末明治女百話」という本のなかで、事件当夜に寄宿生徒であった女性の回顧談が「78.英和女学校のラ-ジ殺し」として掲載されていて、事件の際に壁一枚隔てただけの寄宿舎で見聞した事件の真相を克明に描写しています。


(余談その2)


山梨日々新聞に「練絲痕」を執筆した靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三(1873~1957年)という人騒がせな学生は、その後有力者の紹介で三井銀行に採用されたが、小説家への夢が捨てきれず1月からの出社を4月まで延ばし、その間には伊豆で女性と恋に落ちた。しかし温泉で別の女性の入浴を覗き見したことが発覚しその女性に振られて、一人寂しく帰京した。その後、銀行からの矢のような出社の催促と友人からの意見により小説家をあきらめ、4月4日からやむなく出勤を始めます。 
時は流れて明治40年。彼は箕面電車を設立し、宝塚少女歌劇団、タ-ミナル・デパ-トを創始。そして昭和8年(1933年)東京に進出して東宝映画を設立。その後政界入りして商工大臣、国務相などを歴任した。しかし戦後政界を追放され東宝社長、宝塚音楽学校長をつとめました。


















同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立
1889年明治22年2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
1893年明治26年山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
Mrs.ラージがカナダに帰国。
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1899年明治32年4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
1904年明治37年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
1911年明治44年岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。


麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。








   
カナダ婦人宣教師物語
「ミセス・ラージ:娘ケイトと」
(提供:東洋英和女学院)

ミセス・ラージ:娘ケイトと







★20140404追記




先日東洋英和女学校史料室を訪問した際に購入した書籍
「カナダ婦人宣教師物語」
にはMrs.ラージの写真が数点掲載されている。その中でも「ミセス・ラージ:娘ケイトと」と題された写真に目がとまりました。
実はその写真は、以前にもこの事件を調べる際に「目で見る東洋英和女学院の110年」という周年誌で目にしていたのですが、改めて見たときに何か違和感を感じて目にとまってしまいました。
その訳はよく見ると不自然に右手を後ろに回し、左手で幼い娘さんを支えているように見えます。この写真に対して東洋英和史料室から悲しい逸話をお話し頂きました。その逸話とは、

この写真は殺人事件のあった頃に写された写真で、事件により指を2本失っていたMrs.ラージは、右手を娘との大切な写真に写したくなかったので、意図的に後ろに隠している。

というもので、指を失った姿で写るのを拒否しているMrs.ラージの写真であるそうです。

  •  1890(明治23)年 東洋英和女学校で強盗殺人事件発生。

  • 1903(明治36)年 十歳の安中はな(後の村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学。

  • 1908(明治41)年永坂孤女院が鳥居坂教会日曜学校と併設で設立され童謡「赤い靴」のモデルとなる「岩崎きみ」ちゃんがこの孤児院で養育される。





★関連項目



永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん

「花子とアン」の麻布


























2016年2月28日日曜日

宮村Valley-宮村新道




宮村Valley

宮村Valley




①新道~狐坂(大隅坂) 1862(文久2)年

宮村①新道~狐坂(大隅坂)<BR>1862(文久2)年




②新道~狐坂(大隅坂) 1887(明治20)年

②新道~狐坂(大隅坂)1887(明治20)年





③新道~狐坂(大隅坂) 1933(昭和8)年

③新道~狐坂(大隅坂)1933(昭和8)年



④新道~狐坂(大隅坂)-現在

④新道~狐坂(大隅坂)-現在




夕暮れの狐坂

夕暮れの狐坂



宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といいました。この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた谷間の道で、まさに「宮村Valley」であるともいえます。



「文政町方書上」は、


町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所に
お役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。
その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。



また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。
と記しています。



近代沿革図集には江戸期~1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側にさらにもう一つの坂がみえます。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅しています。
もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」であった可能性も否定できません。



・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町だが、他町会との接点が

・狸坂に面した南側坂下までは一本松町

・狐坂登り口付近から上は三軒家町
にあり、

①宮村町

②一本松町

③三軒家町


の三町が入り組んでいます。

また、

①内田山

②大隅山

③麻布山

の三山に囲まれ
た谷地(Valley)でもあります。そしてその三山には、


①大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流

②麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流

③それらが合流する宮村水流の三水流



狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流とがま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここで一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通りを流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込みます。

この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、


石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺
町内西の方新道境に横切り下水の上にこれあり

と書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されています。



谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明ですが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思えます。


お伝えしてきた狐坂ですが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、私の気に入った場所でもあります。そして、私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えていました。しかし、最近は東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきてしまいました。そんな折、数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなりました。

余談ですが、少年期には、そこここの坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来ましたが、こちらはほとんど絶望的な状況となっています。



































2016年1月20日水曜日

胸の記章の鳩さん....がおなじ訳

今から14年ほど前のある日、DEEP AZABUサイトを立ち上げた
ばかりの私の元に、1通のメールが届きました。

昭和18年麻布幼稚園卒業アルバム
メールの送り主は全く面識のない方で、当時私が使用していた
プロバイダー「246net(現イッツコム)」の役員の方でした。

メールの内容は、自分の所属する会社のHPスペースを使用して
生まれ育った麻布についてのサイトが出来たことが嬉しく、
もし良ければ、一度社に遊びに来ないかというものでした。

数日後、早速お言葉に甘えて待ち合わせた駅に着くと、自らお出迎え下さったO氏がニコニコしながら立っていらしたのを、昨日のことのように思い出します。そして社内をご案内頂き、当時出来たばかりのADSL回線を、ニコニコしながらも「どや顔?」でご説明頂き、その後昔の麻布の様子などをお聞かせ頂きました。そして帰り際に大きな封筒を手渡され、
「これをサイトに掲載してほしい」といわれました。それは、1943(昭和18)年度のO氏が通っていた麻布幼稚園の卒園アルバムでした。
実は戦前の麻布周辺の小学校や幼稚園は上流階級の子女が通学することも多かったといわれており、校舎入り口の付近には、通学する子供に付き添う雇人が待機する部屋(召使い部屋)もあったといわれています。


帰宅後にスキャナーで読み込んで早速記事を掲載させて頂きましたが、その卒園アルバムの表紙を眼にしたときにやけに懐かしいような気分になりました。といっても、南山幼稚園出身の私と麻布幼稚園は何の関係もなく、気のせいかとも思ったのですが、しばらく眺めているとあることに気がつきました。
それは、表紙に描かれている向き合った2羽の鳩のマークは、背景の色の違いがあるにせよ、南山幼稚園の記章と全く同じデザインでした。
南山幼稚園

そこで調べてみると、両園の意外な関係が解ってきました。

両園の母体は大正2年4月に設立された東京市麻布幼稚園で、その設置場所は現在解体工事を待っている旧麻布保育園の敷地(元麻布3丁目・麻布いきいきプラザ辺)にあったことがわかりました。
そして昭和9年4月には麻布麻中、南山幼稚園に分割され、それぞれ現在の位置へと別れました。
しかしその際に創立時に同じ幼稚園であったことを記憶に留めるため、バックグランドの配色は青とエンジにして変化させたものの、デザインはそれまでのものを継続して使用する事に決めたのだと思われます。

南山幼稚園ではこの鳩が現在も園歌として歌われており、その創業時の思いを今に伝えています。




♪ 南山幼稚園 園歌 ♪

胸の記章の鳩さんは、お手々つないで通います。
わたくしたちも、元気よくみんな仲良く遊びましょう
楽しい南山幼稚園

胸の記章の鳩さんは、お口そろえて歌います。
わたくしたちも、声高く、みんな仲良く歌いましょ
楽しい南山幼稚園


※南山幼稚園園歌.mp3(唄入り) → こちらをクリックして下さい。

※南山幼稚園園歌.mid(伴奏のみ) → こちらをクリックして下さい。
     (演奏:小野さん)

★DEEP AZABU関連記事

  ◆むかし、むかし2-30 麻布幼稚園

      http://deepazabu.main.jp/m1/mukasi/mukasi2.html#30










2015年12月17日木曜日

続・徳川さんのクリスマス~徳川義親の麻布

麻布本村町生まれの荒潤三氏の著書「麻布本村町」の一項目である「徳川さんのクリスマス」を以前ご紹介しましたが、今回はその続編になります。

荒潤三氏は著書のなかで徳川義親邸(現フランス大使館)でのクリスマスパーティに呼ばれたのは1931(昭和6)年としています。もしこの年のパーティに出席していたのが事実ならば、徳川邸は翌年1932(昭和7)年の11月、目白に移転していますので、この潤三少年が参加した徳川邸のパーティは麻布屋敷での最後のパーティであったと思われます。

徳川義親は尾張徳川家第19代当主で、実父は越前松平家の松平春嶽の五男から尾張家に養子となりました。この殿様はトラ退治などで有名ですが、1931(昭和6)年に尾張徳川家の宝物を管理する団体「徳川黎明会(のちの徳川美術館)」を開設したため、戦後GHQの指令により財閥解体が行われた際にも尾張徳川家の宝物は散逸を免れたといわれています。

この義親公が麻布氷川神社の入り口石華表(鳥居)脇にある社名と社格が書かれた円柱(社号標といいます)を揮毫していることを知る人は少ないと思われます。残念ながらこの社号標に書かれた社格(郷社)はコンクリートで埋められてしまっていますが、これは全国的なもので1946(昭和21)年GHQにより社格制度が廃止されたため、麻布氷川神社と同様に社格の文字部分をセメントで埋めたり、さらにその部分だけ切断したものもあるそうです。






この社号標は表面に、

   郷社 氷川神社

裏面には、

麻布氷川神社
社号標(表)
侯爵 徳川義親 謹書

   昭和四年 七月

   奉建造 麻布区本村町会

とあります。




この社号標は偶然荒潤三少年がクリスマスパーティに参加する三年ほど前に建立ということになります。またこの社号標には不思議な部分もあり、実は徳川義親邸は本村町ではなく現在は麻布富士見町の町域です。これについて麻布氷川神社社家に問い合わせてみましたが、

「もしかしたら当時の富士見町・本村町の町域は現在とは違っていた可能性もあるのかもしれません。」

というお見解を頂きました。

この徳川義親公には「トラ退治の殿様」という風評意外にも事実として、昭和期にはどこの家にもあった北海道土産の「鮭をくわえた熊の木彫り人形」の原型をヨーロッパで購入し、北海道アイヌ人たちの収入源として販売を始めた先駆者でもあるといわれています。

麻布氷川神社
社号標(裏)
また義親公自身は音楽への造詣が深く、同じ徳川御三家である紀州徳川家屋敷(飯倉片町)の当主である徳川頼貞公が学習院中等科時代に友人たちと管弦楽団を編成した際に、自身はバイオリンを担当し、徳川義親公はコルネットを担当したと徳川宗秀が著書「徳川某重大事件」で語っています。徳川頼貞公は後にヴォーリズに設計を依頼した南葵楽堂とその地下に南葵文庫などを邸内敷地に設置することとなります。

また徳川義親公の麻布邸(現フランス大使館)のすぐ傍の旧トーマス・グラバー邸は徳川義親公の実の兄で松平春嶽の三男である松平慶民の所有となっており、兄弟が行き来したものと想像されます。

このように麻布での生活を楽しんだ徳川義親公ですが、当時屋敷の周辺にだんだんと宅地や工場が建ち並ぶようになり、その煙突の増えた景観を嫌った米子婦人の要望により1932(昭和7)年11月、それまで子爵の戸田康保が所有していた敷地を買い取り、目白への移転が完了します。
その際、麻布で使用していた屋敷も目白に移設され「日本館」として使用されることになります。
この日本館(麻布邸を移築日本家屋)の他に、徳川義親公の学友であり、上野東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)、日比谷第一生命館、銀座和光なども設計した建築家渡辺仁の設計によりイギリス中世のチューダー様式の本邸(西洋館)が建築されます。


その後、徳川義親公の居館として年月を重ねた西洋館ですが、1968(昭和43)年八ヶ岳高原に移築されることとなります。そして、八ヶ岳高原ヒュッテ(現八ヶ岳高原ロッジ)という名前の高原ホテルとして使用されその後、田宮二郎主演のテレビドラマ「高原へいらっしゃい」の舞台として使用されることになります。ちなみに2度目のドラマ化でもやはりこの建物が使用されていました。



目白で徳川義親が所有した敷地は現在も徳川ビレッジとして活用されており、そのサイトには多くの徳川義親邸の画像が紹介されており、わずかですが日本館かもしれないと想像される麻布邸移築家屋の画像も写り込んでいます。








八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
正面
八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
裏側


































今年の10月読売新聞中部版2015.10/24付けの記事にあの徳川家康が武田信玄と戦った「三方原の戦い」敗戦後に自身の困惑した顔を描かせたとして有名な「しかみ像」は御三家筆頭の尾張家が所持しており、当主の徳川義親公が徳川美術館を設立した際にこの絵について述べたことが定説となり、現在も伝承されています。ところが事実は家康が書かせたものではないという学芸員の見解が述べられており「家康自身が戒めのために書かせた」という通説は徳川義親公のリップサービスであった可能性が高い...と報じています。



読売新聞-家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>


エキサイトニュース-徳川家康のあの有名な肖像画にハッタリ疑惑






徳川義親公が揮毫した社号標のある麻布氷川神社の隣に住んでいた田宮二郎が義親公の屋敷を使ってドラマ撮影に望んでいたのはまったくの偶然の一致ですが、何か不思議な縁を感じてしまいます。























1922(大正11)年の徳川義親麻布邸















2015年11月8日日曜日

麻布の三井家~広岡浅子の麻布

NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさ(実名:広岡浅子)の実家は京都の今井家となっていますが、実際は後に財閥となる三井家で、江戸期には「出水三井家」と呼ばれていました。そしてこの出水三井家は、明治になると京都から東京小石川に移ったことから小石川三井家と呼ばれるようになります。

この小石川三井家は「三井十一家」と呼ばれる中でも「本家」と呼ばれる六家のひとつで他に、「連家」とよばれる家系もありました。



・-明治以降の三井家-・

麻布今井町三井邸

★北家(惣領家:高利の長男高平の子孫。高平は初代八郎右衛門。以降代々八郎右衛門を襲名し当代は十二代永乗)


◆本家(高利の男系子孫)

・伊皿子家
・新町家
・室町家
・南家
・小石川家



◇連家

・松坂家(長女みねとその夫孝賢の子孫)
・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)
・五丁目家(北家8代目高福次男高尚の子孫)
・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)
・本村町家(小石川家7代目高喜次男高明の子孫)








伊皿子三井家跡地
 







本村町三井家跡地
 







一本松と一本松三井家跡(左手正面マンション)





永坂三井家跡地(フィリピン大使館)







三田綱町三井倶楽部
(元北家(惣領家)十代八郎右衛門・高棟の別邸)











麻布周辺の三井関連邸
家 格名 称所有者家 系所在地(地番)坪 数備    考
北 家
(惣領家)
今井町邸三井 高棟十代当主。十五代八郎右衛門。三井高福の八男。麻布区今井町42約13,500十代八郎右衛門本邸。庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」などを完備。1906(明治39)年完成。昭和20年空襲により焼失。
笄町邸三井 高公十一代当主。十六代八郎右衛門。高棟の次男麻布区笄町146,147・牛坂辺の港区西麻布4-13あたり。1952(昭和27)年建築。1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存。
宗 家
伊皿子家三井 元之助高利(※1)の次男高富の子孫芝区伊皿子町48~512,214.31三田台公園辺
連 家
本村町家三井 養之助小石川家7代目高喜次男高明の子孫麻布区本村町163~1712,281.22薬園坂辺
一本松家三井 高信伊皿子家6代目高生次男高信の子孫麻布一本松町17~19元麻布1-1-15辺(栄久山大法寺隣接地)
永坂町家三井 守之助高利の5男・安長の長女みちとその夫、高古の家系東鳥居坂町6,7-1945.34現フィリピン大使館敷地
その他
三田綱町別邸三井 高棟十代八郎右衛門高棟の別邸港区三田2-3-79,916.46高棟の別邸。ジョサイア・コンドル設計。現三井倶楽部。
材木町広岡邸広岡 恵三広岡(旧姓:一柳)恵三は広岡信五郎・浅子夫妻の長女「亀」の婿養子。ヴォーリズの妻となる一柳満喜子の実兄。麻布区材木町63広岡浅子終焉の地。享年71歳。1916(大正5)年ヴォーリズ設計。


※屋敷の所有者は創設時のものです。

※1三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。(wikipediaより)





北家(惣領家)十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。
この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
そして戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂に麻布笄町邸を建設します。
この邸宅は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。

また広岡浅子の実家である小石川家七代当主となる養子の三井高喜は広岡浅子からみると26歳という歳の離れた義兄で、浅子に商売を伝授したといわれています。この高喜の次男である三井高明が三井の連家となる「本村町三井家」を興します。余談ですがこの広岡浅子の血筋に繋がる小石川三井家の末裔として日本テレビのプロデューサー井原高忠(ザ・ピーナッツ、とんねるずの名付け親で11PMのプロデューサー)がいます。

また、麻布周辺にあった三井家関連のお屋敷は本村町三井家の他に、北家(惣領家)、十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、この広大屋敷地を持つ屋敷では諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。

この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
また、戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂(現在の若葉会幼稚園辺)に麻布笄町邸を建設し、後に現在の麻布税務署裏手に屋敷を移転ます。
この笄町邸は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。
また本村町三井家と同じ「連家」として、

・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)

・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)

 そして伊皿子にも本家筋となる、

・伊皿子三井家

などが存在しました。







広岡浅子の実家三井家と麻布のつながりを紹介してきましたが、浅子の夫(ドラマの設定:白岡新次郎:主人の本名は広岡信五郎)婚家である加島屋(ドラマでは加野屋)は後に大同生命を創業し、浅子も創業者の一人となります。

そして1919(大正8)年1/14、腎臓炎のため臨終の浅子は麻布材木町の広岡邸で息を引き取りますが、この屋敷は現在の六本木西公園の裏手にあたり、明治期までは、三井家が所有していた敷地にありました。(麻布区材木町三五番地:港区六本木 7辺)

上記取消線部分は、調べ始めた当所浅子臨終の屋敷が「麻布材木町」とだけしかわからず、これを明治45(1912)年の地籍台帳で探すと三井合名会社所有の土地が材木町35番地にあったため、この土地で浅子が亡くなったものと勘違いしていました。しかし、さらに調べてみると浅子終焉の地は同じ材木町に中で63番地であったことがわかりました。これによりこのサイト記述も材木町63番地が広岡浅子終焉の地と書き直しましたが、一部分の文章が訂正されていませんでした。謹んでお詫び致します。
ちなみに明治45(1912)年当時の麻布材木町63番地の所有者は政治家・外交官であった鈴木充美ですが、広岡家との関係は不明です。

あまり女性が表に出ることの少なかった時代に経営者として銀行、生命保険などの起業に関係し、さらに女子大を作ったことでも知られている活発な女性の代名詞となりました。
浅子は「普段云っていることがすべて遺言」と遺言を残さなかったそうですが、東京・大阪の二度の葬儀に加え、創立に関与した日本女子大では1919(大正8)年6/28に盛大な追悼会が開催されたようです。

最後に、晩年まで女子教育に関係していた浅子は避暑のために建設した静岡県御殿場二岡の別荘に若い女性を集めて勉強会を開催しますが、その参加者の中には後の国会議員・市川房枝などと共に「花子とアン」の主人公、村岡花子も参加しており、この勉強会への参加が後の自分を決めたといっていたそうです。


◇余話として
麻布界隈でも東洋英和学院西町インターナショナルスクール明治学院大学チャペルなどを設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子は、広岡浅子の女婿・広岡恵三の妹にあたります。華族の子女である満喜子と外国人であるヴォーリズとの結婚に際しては、華族と外国人の結婚に反対されますが、浅子は強力に二人の結婚の後押しをしたとされています。 
この二人が結婚したのは1919(大正8)年6月3日ですが、その半年前の1月14日麻布材木町六十三番地にあった夫となるヴォーリズが設計した広岡恵三別邸で、広岡浅子は息を引き取っています。おそらく二人の将来を安心した上での臨終だったと思われます。 



◆追記:浅子終焉屋敷の謎。

広岡浅子終焉の屋敷はヴォーリズ設計であったようです。そしてヴォーリズの建築作品リストによると、「K.廣岡邸」を依頼者とする設計が、二つあります。

  1. 1916(大正5)年 東京 K.廣岡邸
  2. 1929(昭和4)年 東京 K.廣岡邸

上記二つの屋敷の設計がありますが、浅子の臨終は1919(大正8)年1/14でしたので①の屋敷で亡くなったものと想像されます。

しかし、リストに掲載されている依頼主の「K.廣岡」とは誰なのでしょうか?

もしかしたら子供かと思い調べると、
広岡信五郎・浅子の間には、「亀子(カメ)」と名付けられた女の子がいました。
しかし.....実はこの他にも広岡信五郎と妾の間には四人の子供がいました。
この妾は女の子一人しか産めなかった浅子も願って迎えた妾のようでドラマ上では、浅子の姉はつのおつき女中で後に加島屋の女中となる「ふゆ」だとおもわれます。
実際の名前はムメ(小藤)と、ドラマ上の浅子のおつき女中ウメに近いのですが、事実は上記の通りだったようです。


◎広岡信五郎と妾ムメ(小藤)の子供

  • 長女:蔦子(ツタ)
  • 次女:極子(キワ)
  • 三女:秋子(アキ)
  • 長男:松三郎(まつざぶろう)
 
これら四人の中で「K」がつくのは浅子と信五郎の娘「亀子(カメ)」です。
しかし、もう少し調べると.....、
広岡信五郎は加島屋本家の次男で、分家の身分となります。
そこで浅子と結婚し、本家を補佐して行くことになるのですが、本家の兄が若死にしてしまい、信五郎の弟の正秋が加島屋本家を相続することとなり、信五郎と浅子はその正秋をもり立てて家業を補佐してゆくことになります。これ以降正秋は「九代目・加島屋(広岡)久右衛門・正秋」を名乗ります。
これらから、想像の域を超えませんが、おそらくヴォーリズが設計したこの材木町屋敷の持ち主は広岡信五郎の弟で本家を相続した「広岡久右衛門正秋」かとおもわれます。


◆追記2:浅子終焉屋敷の謎訂正

twitterで@ka9_asa_10さんという方から情報を頂きました。
@ka9_asa_10さんのプロフィールを拝見すると、

加久と広岡浅子
加久(かきゅう)とは大坂の豪商・加島屋久右衛門家。10年くらい前から興味を持ってちょこちょこ調べていたのが、加島屋や広岡浅子でした。 「あさが来た」を観ながら何かと呟きますが、研究者でもなければ物書きでもないので、大目にみてやってください ※個人アカウントです

とあり広岡久右衛門と広岡浅子について専門にお調べになっている方のようです。

この方からの情報をそのまま掲載させて頂きます。

 


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前

@DEEPAZABU ブログ大変興味深く拝見しました。後記の「K.廣岡」ですが「廣岡恵三(けいぞう)」、つまり浅子の娘婿で一柳満喜子の兄にあたる人です。大正当時は浅子の事業を引き継いで加島銀行頭取、大同生命社長に就いていました。
21:35 - 2015年11月9日 · 詳細


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前
加久と広岡浅子さんがリツイートしました deepazabu
それと余話にさらりと触れている西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。


と、私には知り得なかった貴重な情報をツイートして頂きました。これでおぼろげであった広岡浅子と終焉屋敷の持ち主「K.廣岡」の謎と一柳満喜子の関係が氷解しました。


よって下記のように訂正させて頂きます。

広岡浅子終焉屋敷の所有者「K.廣岡」が私の推測「広岡久右衛門正秋」ではなく、広岡信五郎・浅子夫妻の唯一の子供である長女「亀」の夫である「廣岡恵三」であり、さらにこの廣岡恵三は婿養子として広岡家に入っているようで養父は当然ですが広岡信五郎でした。

また廣岡恵三の養子入前の名は「一柳恵三」であり、子爵一柳末徳の次男でした。この一柳恵三の実妹が「余話として」でお伝えしたウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子でした。
そしてヴォーリズは日本に帰化し、日本名は「一柳米来留(イチヤナギ・メレル)」とします。
後年ヴォーリズが設計した西町インターナショナルスクールの副教頭となるのが広岡浅子のお孫さんであるという流れが歴史と現在をぐっと引きつけてくれたような気がします。

@ka9_asa_10 さん、貴重な情報を誠にありがとうございました。








◆追記3(2016.01.14):西町インターナショナルスクールの副教頭と浅子の関係

前回@ka9_asa_10 さんから教えて頂いた、

西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。

との情報が気になり、調べてみましたが情報がなかなか見つかりませんでした。そこで再び@ka9_asa_10 さんにご教授をお願いするとまもなくお返事を頂きました。
そして、これにより謎が一気に氷解しました。

西町インターナショナルスクールの広岡八重子さん(以下敬称略)は、1年生の教師、副教頭を25年間西町勤めていました。そしてスクールに「広岡八重子 基金」を創設し、これは現在も教師の研修制度の拡充をはかるために利用されています。
この広岡八重子は広岡浅子と広岡信五郎の唯一の娘「亀子」の二女で、浅子直系の孫になります。

これを家系図にまとめてみました。すると亀子と婿養子の広岡恵三夫婦は1902(明治35)年に長女を出産すると次々と年子を生むこととなり、その二番目の女の子が八重子となります。

また逸話として一柳恵三を婿養子に迎えた後、恵三の妹で後にヴォーリズ婦人となる一柳満喜子が実家を飛び出してしまった時にも、長い間兄恵三邸に滞在していたといわれています。

この亀子の義理の兄弟で母の浅子に等しく育てられた子供たちの一人に、ムメと信五郎の長男「広岡松三郎」がいます。
この松三郎の妻・貞子の弟の妻は、後年エリザベスサンダースホームを創立することとなる三菱財閥・岩崎弥太郎の長女・岩崎(澤田)美喜です。








文字が見にくいのでダウンロードしてご覧下さい。













また、正確な時代は不明ですが明治期と思われる広岡家が集合した写真(タイトル:家族写真)が残されており、乳児と幼児の女の子が写されています。女女の手を取っているのは広岡亀子、その前で乳児を膝に乗せているのは広岡恵三です。これらのうちどちらかが八重子である可能性(おそらく乳児)があり、興味をそそらせる写真となっています。

※この写真に写されたムメの子供・松三郎(後列右端)が中学生ほどの年齢に見えます。松三郎は1888(明治21)年生まれで、亀子の長女・多恵子が1902(明治35)年生まれで松三郎とは十四歳違い、二女の八重子(後の西町インターナショナルスクール副教頭)は多恵子の一歳下となり写真に写された乳児は二女の八重子の可能性が非常に高いと思われます。この写真の年齢は上記から推測すると、多恵子二歳ほど、八重子一歳未満、松三郎は十六歳位となります。これらから、この写真が撮られたのは1903(明治36)年or1904(明治37)年頃だと想像されます。

この写真が撮られたのが明治36年だと仮定すると、浅子は54歳で、二年前に開校した日本女子大学へ広岡信五郎名義で金五千五百円を寄付します。
そして翌年の明治37年、日清洗戦争が勃発する年に、8歳年上の夫・信五郎が64歳で亡くなります。そして浅子も経済界から引退し、後を実子亀子の婿養子である恵三に任せることになります。
もしかしたらこの写真は広岡信五郎・亀子ファミリーがそろって写された最後の写真となったのかもしれません。




家族写真






前列右から 亀子の婿養子・恵三と乳児(八重子?)、
広岡信五郎、浅子、信五郎とムメの娘で三女の極子(キワ)。
 
後列右から、信五郎とムメの長男・松三郎、
信五郎と浅子の娘で長女の亀子と幼女(多恵子?)、
信五郎とムメの娘で四女の秋子(アキ)、信五郎とムメの娘で
二女の蔦子(ツタ)、浅子の三井家からの腰元(お付き女中)で
後に信五郎の妾となったムメ(別名:小藤、信五郎との間に一男三女)。








上記画像から広岡恵三・亀子家族拡大。
















★20160125追記-広岡浅子の「死亡広告」


大正8(1919)年1/17付けの新聞に掲載された広岡浅子の「死亡広告」。








母浅子儀当地麻布区材木町別邸に於いて病気療養中の所養生相叶わず去十四日午後八時永眠致候間乍(ながら)略儀紙上を以て辱知の御方に御知せ申上候追て来る二十一日午後四時神田美土代(みとしろ)町青年会館に於て告別式を行ひ同夜東京駅発二十三日午後?時大阪市土佐堀青年会館に於て葬儀執行仕候猶(なお)御供花供物等は御辞退申上候

男 広岡 恵三

 広岡浅子と主人広岡信五郎の間に出来た
 唯一の実子「亀子」の婿養子。
 実家は男爵の一柳家。実の妹・満喜子は、
 西町インターナショナルスクール、
 飯倉片町・南葵楽堂、
 東洋英和女学院、伊皿子フレンズセンター、
 明治学院大学チャペル、広岡浅子が逝去した
 広岡家麻布材木町別邸などを設計した建築家
 ウィリアム・メレル・ボーリズの妻。

親戚総代

広岡久右衛門
 十代・加島屋久右衛門(正直?)。九代久右衛門正秋の
 実子郁子の婿養子。
 実父は旧鳥取藩士・三澤立身。正直は立身の六男。
      
三井高修
 浅子の実家、小石川三井家九代目当主。
 浅子の義兄三井高喜の孫。高喜は三井南家からの養子
であるため、浅子との血縁はやや薄い。

三井養之助
 浅子の実家、小石川三井家七代目
 高喜の次男で本村町三井家初代当主。

男爵 三井八郎右衛門(高公?)
 三井十一家の総帥。三井北家(総領家)十一代。
 戦前は麻布今井町、戦後は麻布笄町~麻布桜田町
 の邸宅に住んだ。明治以降終戦まで男爵。

子爵 一柳末徳
 広岡(一柳)恵三の実父。元・播磨小野藩十一代藩主。
 明治以降は子爵。芝区会議長、帝国博物館員、貴族院議員などを歴任。