2017年10月13日金曜日

麻布の小林多喜二 

小林多喜二
(wikipediaより引用)
「蟹工船」などを表しプロレタリア文学の代表的な作家として有名な小林多喜二は1933(昭和8)年2/20赤坂で特高警察に逮捕され築地警察署取調室での拷問によりに死亡しますが、その直前まで麻布周辺に潜伏していました。


死亡する前年の1932(昭和7)年4月、麻布区東町称名寺(現・港区南麻布1-6)の一角にあった家(現在の本堂の敷地)の一室を間借りして伊藤ふじ子と同棲し地下潜伏がスタートします。
その後、同7月麻布区新網町(現・港区東麻布3丁目)に潜伏、同9月麻布区桜田町(現・港区六本木6丁目)に潜伏しますが、警察に桜田町の潜伏先を探知され、1933(昭和8)年、渋谷区羽沢44(羽澤ガーデンあたり:現渋谷区広尾3-17)に潜伏先を変えます。その直前に同棲相手の伊藤ふじ子が勤め先において警察に逮捕され、その一月後には多喜二自身も赤坂において逮捕されることとなりますが、これは組織に潜入していた特高警察のスパイが仕掛けた罠により待ち伏せされ、20分間の逃走の後に溜池の電車通りで格闘の末に築地署特高課員に取り押さえられたそうです。

また麻布内に潜伏していた時期には多喜二は麻布十番商店街のヤマナカヤ果物店二階のパーラーをよく利用していたようで、同志との連絡場所、上京した母親との面会などもこの場所で行われていました。
この「ヤマナカヤ」は私が小学生の頃にはまだ十番商店街東側入り口角に残っており、さらに稲垣利吉氏が表した「十番わがふるわと」大正期と昭和期の地図を見ると場所は移動しながらも「ヤマナカヤ」が書き込まれています。多喜二が通ったパーラーは昭和期に描かれた場所である可能性が高いと思われます。

また時代は流れて元号が平成に変わってから、網代公園脇の麻布十番2-18-8に「白樺文学館 多喜二ライブラリー」が開館しますが、残念なことに私がこのネタを探し始めた頃の2008(平成20)年11/30には千葉県我孫子市に移転して「白樺文学館(〒270-1153 千葉県我孫子市緑2-11-8 Tel:04-7169-8468」として再スタートされたようです。


拷問により自らの命の最後を悟った多喜二は、母思いであった事から、

「母親にだけは知らせてくれ」

と嘆願したそうです。




wikipedia-小林多喜二
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9F%B9%E5%B7%A5%E8%88%B9

青空文庫-蟹工船
http://www.aozora.gr.jp/cards/000156/files/1465_16805.html

白樺文学館
http://www.shirakaba.ne.jp/

猫の足跡サイト-浄土真宗本願寺派・憶念山 称名寺
http://www.tesshow.jp/minato/temple_sazabu_shomyo.html













多喜二が潜伏した憶念山 称名寺①
       







多喜二が潜伏した憶念山 称名寺②













大震災前の麻布十番商店街
(稲垣利吉「十番わがふるさと」より引用)




麻布十番商店街(昭和初期~15年頃)
(稲垣利吉「十番わがふるさと」より引用)










現在の同所 



















※一部画像はwikipediaより引用




























2017年6月4日日曜日

青物横丁「天妙国寺」に葬られた麻布辺




顕本法華宗別格山寺院
鳳凰山 天妙国寺
先日朝さんぽの途中「今朝のお詣り」で立ち寄らせて頂いた、青物横丁の顕本法華宗別格山寺院「鳳凰山 天妙国寺(1972年までは妙国寺)」さんで出会った三つのお墓。


・お祭り佐七

・桃中軒雲右衛門

・音丸


☆その1-お祭り佐七(元久留米藩士~め組鳶火消し)

本堂にお詣りの後には久しぶりの墓域お詣り。随分久しぶりだったので「お祭り佐七」の墓域が移動していました。

落語「お祭り佐七」の筋立ては元久留米藩士・飯島佐七郎は天神真揚流柔術の免許皆伝で腕が立っての男前から女達が放っておかない。しかしそれがアダで浪人になり、め組の頭清五郎の家にころがりこんだ。 お祭り佐七が鳶になるまでの話。なぜ”お祭り”なのか小さんは、木遣りがうまく方々の祭りに招かれたからだと。

天妙国寺本堂
め組は芝大門、神明宮界隈の受け持ちで増上寺門前の火消しも務めていましたが、佐七の主家であった久留米藩有馬家の上屋敷は赤羽橋にあり、こちらも増上寺「火の御番」を拝命している家柄でした。このことから久留米藩有馬家上屋敷には江戸で一番高い火の見櫓の設置が許され、同じ邸内にあった水天宮と共に数多くの錦絵の題材となっています。

この火の見櫓は現在の東京タワーやスカイツリーのようにランドマークタワーの役割も果たしていたものと思われます。
そして少し横道にそれますが、久留米藩上屋敷にはもう一つの名物がありました。それは将軍綱吉から拝領した犬を登城などの行列の先頭に連れ歩き「有馬の曳き犬」として
有名になります。そして後年、上屋敷西側に両国久留米から分祀した「水天宮」を祀った際に、この曳き犬の故事から犬が安産の多産であることから
明治期に有馬家と共に水天宮が現在の日本橋蛎殻町に移転後も、現在まで「犬帯」の領布が行われています。

佐七の父親とめ組の頭領「清五郎」はこのような増上寺消火の関係からの知り合いで、その清五郎を頼って宅の二階に居候を決め込むという筋立ては、理にかなっていると思われます。
また噺には佐七とめ組の若い衆が品川遊郭に乗り出し、さんざん遊んだ末に佐七が居残りを決めるというくだりも含まれています。

その他佐七については人形浄瑠璃や歌舞伎などにもなっており、「絲桜本町育」「小糸・佐七情話」、「心謎解色糸」、「江戸育於祭佐七」などが演じられています。
そして落語も今回紹介した「お祭り佐七」の他に「雪とん」という噺もありますが両者の間に関連性はありません。



お祭り佐七墓標
俗名 熊木佐七






佐七の主家久留米藩有馬家
火の見櫓取り壊し
(明治初期)

久留米藩有馬家上屋敷「火の見櫓」
を模した麻布中ノ橋欄干



名所江戸百景 増上寺塔赤羽根
歌川広重






※歌川広重の「名所江戸百景 増上寺塔赤羽根」は①増上寺五重塔から見た構図ですが、中央下部に②赤羽橋、そして久留米藩有馬家上屋敷の③火の見櫓と④水天宮(赤い幟の場所)が描かれています。当時の錦絵は大名家名をタイトルにすることは幕府から堅く禁止されていましたので、上記のタイトルになっています。








東都名所芝赤羽橋之図
安藤広重




★BLog DEEP AZABU-有馬家化け猫騒動
http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9












☆その2-桃中軒雲右衛門(芝新網町)


さらに佐七の墓(供養墓でしょうか?)の北側近くに桃中軒雲右衛門の墓所があります。雲右衛門は浪曲中興の祖で「浪聖」とも謳われた明治期の浪曲の大看板で雲右衛門のひ孫・岡本和明著の「俺の喉は一声千両」によると雲右衛門の生まれた場所は江戸市中でも最も貧しい人たちが住まう地域であった芝新網町(現在のJR浜松町付近)であったそうです。

当初の浪曲師はこの芝新網町出身者が多ようで、当初落語、講釈などからも差別され定席での公演が出来ずに、地面にむしろを敷いただけの簡易的な小屋での営業しか出来なかったそうです。

この「桃中軒雲右衛門」という芸名ですが、本来は父から譲られた「吉川繁吉」を名乗って舞台に立っていましたが、人妻であった相方三味線弾きの「お浜」と駆け落ちをしたため「吉川繁吉」を名乗ることを禁じられてしまいます。そして数年後に再び東京へと戻る途中沼津で買った駅弁の包み紙に書いてあった屋号「桃中軒」をとっさに芸名として名乗ることに決めました。
名前の「雲右衛門」は、昔懇意にしていた相撲取り「天津風雲右衛門」をそのまま拝借したようです。

私の知り合いである麻布狸坂下のダイニングバー「あおいひみつきち」店主が4月に投稿した画像に現在は駅弁と駅蕎麦販売となった「桃中軒」の御殿場支店の屋号がそのまま写り込んでいましたので許可を頂き、引用させて頂きました。

★青いひみつきちオフィシャルサイト
 http://www.aoihimitsukichi.com/

★青いひみつきちfacebook
  https://www.facebook.com/aoihimitsukichi/

★桃中軒オフィシャルサイト
 http://www.tochuken.co.jp/


このように芸名を「桃中軒雲右衛門」として東京に戻った雲右衛門はやがて大看板の浪曲師となり、落語・講釈などからの差別も少なくなっていったようです。
そして、その人気にあやかって世に言う「桃中軒雲右衛門事件」という著作権を無視した模倣レコードが大量に販売された事件となります。
その後、桃中軒風右衛門を名乗る実弟を亡くすと、苦労をともにした相方であり妻の「お浜」も肺結核で失います。その際自邸の会ある芝公園から品川天妙国寺まで葬列を組み、多くの見物人が出たといいます。そして天妙国寺での葬儀の後、墓域に埋葬されます。
そして、さらにその後、本妻のお浜と共に自邸に住まわせていた妾のお玉もお浜の看病から結核に罹患し死去。
JR御殿場駅の駅蕎麦「桃中軒」
撮影:ダイニングバー
「青いひみつきち」小堀 裕一氏
その後も隆盛を極めた桃中軒雲右衛門自身も妻から結核がうされていたことにより同じ病を患い、思うように舞台に上がれなくなります。しかし、それまでの浪費癖は直らず、やがて結核の進行により1916(大正5)年11/7、東京府外高田村(現在の豊島区南部)の療養先において四四歳の若さで世を去ります。

その時には雲右衛門は財産のほとんどを失い、残されたものはわずかな現金と毛皮が数枚のみで、葬儀費用も無かったそうです。

桃中軒雲右衛門の孫弟子の一人には、あの....村田英雄がいるそうで、三波春夫も「桃中軒雲右衛門とその妻」を唄っています。


★wikipedia-桃中軒雲右衛門
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80

★桃中軒雲右衛門事件
https://www.jstage.jst.go.jp/article/johokanri/56/8/56_552/_html/-char/ja/

★youtube-桃中軒雲右衛門
  https://youtu.be/J2yZCBFLW9o

★俺の喉は一声千両: 天才浪曲師・桃中軒雲右衛門-岡本 和明(桃中軒雲右衛門のひ孫) 著
https://www.amazon.co.jp/%E4%BF%BA%E3%81%AE%E5%96%89%E3%81%AF%E4%B8%80%E5%A3%B0%E5%8D%83%E4%B8%A1-%E5%A4%A9%E6%89%8D%E6%B5%AA%E6%9B%B2%E5%B8%AB%E3%83%BB%E6%A1%83%E4%B8%AD%E8%BB%92%E9%9B%B2%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80-%E5%B2%A1%E6%9C%AC-%E5%92%8C%E6%98%8E/dp/4103245328









天妙国寺本堂脇に設置された桃中軒雲右衛門墓所解説板




桃中軒雲右衛門墓所への案内碑
「浪曲聖地」と刻まれています

桃中軒雲右衛門墓碑
桃中軒雲右衛門の妻「お浜」の墓碑

仲良く並ぶ桃中軒雲右衛門と妻「お浜」墓碑



浪曲協会建立の顕彰碑
















☆その3-音丸(麻布箪笥町生まれ、麻布十番下駄屋の内儀でアイドル歌手)


アイドル歌手音丸
こと永井 満津子
(wikipadiaより引用)
本名は永井 満津子。麻布箪笥町の生まれ。音丸の芸名は「音は丸いレコードから」から音丸とされます。ヒット曲は「船頭可愛や」など多数。
大正~昭和期の人妻アイドル歌手で、実家は箪笥町のちに麻布十番(現在の十番郵便局あたり)に移転して下駄屋を営んでいました。
夫はこの下駄屋の入り婿となり商いをし、妻はコロンビアレコードのアイドル歌手として活躍しましたが、まもなく離婚します。

当時、婚姻した女性が舞台で活躍することは少なく、客席から「よっ!下駄屋の姉御!」とかけ声がかかると、「よくご存じ!」っと少しもひるまなかったといわれています。

戦前から戦後にかけて音丸は実家の氏神であった「末広神社」へ度々寄進をしており、戦災から復興して竹長稲荷神社と合祀され現在地に遷座した「十番稲荷神社」
の現在も残る「狛犬」は音丸の寄進によるものです。この狛犬は下部に寄進者の名前として音丸の本名「永井 満津子」が刻まれています。
また終戦直後には再婚した夫で弁士の井口静波と共に人気歌手の座長として全国巡業を行いますが途中四国公演で前座を務めたのは美空ひばりでした。

その後人気は凋落し夫の死から約10年後の1976(昭和51)年、世田谷のマンションで急性心不全により死去し天妙国寺に葬られます。

音丸の墓域内には墓碑と共に「船頭可愛や」の歌碑が建立されています。
天妙国寺にレコードに関係する事件(桃中軒雲右衛門事件)を起こされた桃中軒雲右衛と、レコードの隆盛によりアイドル歌手となった音丸が眠っているのは偶然なのでしょうか?








1.昭和11(1936)年 末広神社本殿の音丸(前列中央)
画像提供:山本仁寿氏

2.昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏


3.昭和34(1959)4月十番稲荷神社境内
画像提供:山本仁寿氏



◆画像解説(一部私の解説ですが、主に山本氏ご自身の解説より)
  1. 昭和11(1936)年末広神社本殿の音丸さん。
    神社造営(狛犬建造費用?)に音丸さん1000円の寄付、小野さん畳表の寄付等が書かれています。末広神社は現在の港区麻布十番2丁目4−1にありましたが昭和20(1945)年の空襲で罹災し、戦後竹長稲荷神社と合祀されて永坂町に遷座、現在の十番稲荷神社となります。最前列中央に音丸さん、隣の高齢女性は音丸さんの実母。末広神社の鈴木宮司、 二列目中央音丸さんの左後ろには山本仁作氏、音丸さん実母左後ろには市川産業社主の市川要吉氏。この市川要吉氏は戦後、社名を市川産業からクラウンガスライターと変更し、昭和51(1976)年にはプロ野球球団の命名権を取得したことにより「クラウンライター・ライオンズ」が誕生し、現在の西武ライオンズへとつながります。また、この市川要吉氏は戦後十番稲荷神社の華表(鳥居)を親交のあった榎本健一(喜劇王エノケン)氏と共に寄進します。この鳥居は残念ながら残されていませんが、この鳥居寄進を記念して現在の十番稲荷神社石華表(鳥居)本殿側には市川要吉氏と榎本健一(喜劇王エノケン)氏の銅板プレートが埋め込まれています。
  2. 昭和27(1952)年2月 十番稲荷神社境内。上記音丸さん奉納の狛犬は戦災を免れ今の十番稲荷神社に移築されました落慶の記念写真は昭和27年2月と書かれています。狛犬だけが大きく 後ろの鳥居は木造 神社本殿も小さな木造です神社の後ろがうっそうとした森に見えます。
    狛犬台座が現在のものと違うように思えます。画像にははっきりと「奉納」と「歌謡曲 音丸」と刻まれています。
    中央に音丸さん、右側に鈴木宮司、その隣は山本仁作氏。音丸さんの左には実子のいなかった音丸さんの二人の養女、その後ろには前出の市川産業社主市川要吉氏。
    その他、白水堂、大阪屋、たまりやの各ご主人が写されているようです。
  3. 昭和34年4月 新しい石造の鳥居落慶。
    奉納は日本の喜劇王エノケンこと榎本健一さんとクラウンガスライターの前身市川産業社長市川要吉さん皇太子殿下の御成婚記念として造営されました後ろの本殿も立派に再建され、十番稲荷神社の社号標も建てられました鈴木宮司、石井宮司 お二人で催行されました。最前列中央扁額前の寄進者のお二人。エノケンさんの隣は鈴木宮司、その左隣は山本仁作氏、市川要吉さんの右隣は石井宮司。市川さんの左後ろには音丸さん。エノケンさん、音丸さん、市川さんが一緒に写された非常に珍しい画像です。



★Blog DEEP AZABU-音丸
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★wikipedia-天妙国寺
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%A6%99%E5%9B%BD%E5%AF%BA

★wikipedia-音丸
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E4%B8%B8

★youtube-音丸
 https://youtu.be/RIQP0Vgo4ys

★wikipedia-榎本健一
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%81%A5%E4%B8%80

★wikipedia-クラウンガスライター
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC



十番稲荷神社鳥居銅板
「榎本健一」
十番稲荷神社鳥居銅板
「市川要吉」


























ご紹介した1~3の画像は、麻布十番未知案内サイト管理者で、赤い靴の「きみちゃん像」管理者でもある山本仁寿(きみとし)氏の提供。元十番パティ前の洋品店ローリエヤマモト(現在はパレットプラザ麻布十番店となっている場所にありました)店主。お父上は元・麻布区議会議員の山本仁作氏。
今回山本氏からご提供頂いた画像は昨年終了した「私と町の物語」展に出品して
頂いたほかは 書籍等にはまったく未発表の貴重な画像です。

★山本氏のサイト「麻布十番未知案内」
赤い靴の女の子・岩崎きみちゃんについての逸話が満載です。

      http://jin3.jp/










④-1十番稲荷神社狛犬(右)

④-2十番稲荷神社狛犬(左)

④-3十番稲荷神社狛犬台座の寄進者名「永井 満津子(音丸)」


天妙国寺音丸墓所
墓域内には「船頭可愛いや」歌碑があります







その他にも天妙国寺には「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。


※画像は一部wikipediaより引用

















2017年5月28日日曜日

★第一次東禅寺襲撃事件...外伝


英国公使館が設置された
佛日山東禅寺
文久元(1861)年の今日五月二十八日夜、高輪東禅寺に設置されていた英国公使館が攘夷派浪士により襲撃され多数の死傷者を出しました。
これは安政五(1858)年六月にアメリカと通商条約を締結して以来諸外国とも条約を結んだ事により、攘夷思想を持つものたちから強い反発を招き、外国人への殺傷事件が頻発し始めた頃の事件であり、前年安政七(1860)年1月には漂流漁民からイギリスに帰化し、苦労のすえオールコックと来日した英国通訳官の「伝吉」が東禅寺門前で刺殺され、その二ヶ月後には桜田門外の変で井伊大老が暗殺、さらに東禅寺が襲撃される半年ほど前には麻布中ノ橋で米国公使館の書記兼通訳官、ヒュースケンが赤羽接遇所からアメリカ公使館への帰途に殺害されています。

襲撃事件の詳細は当サイトでご覧頂くとして、今回はあまり知られていない裏話を二つご紹介します。

◆シーボルトの治療

この事件の一週間ほど前の文久元年五月二十一日、二度目の来日で長崎に滞在していたシーボルト父子が江戸に到着し赤羽接遇所に入ります。そして事件当日(夜半過ぎなので現代では二十九日となりますが、江戸時代は日が変わるのは日の出時刻)、英国公使館襲撃を聞きつけ、自身の警護役人からの制止も聞かずに英国公使館に馬で赴き、負傷者の治療に当たっています。

シーボルトはこの時の様子を日記に書き残しています。

~6日(西暦では五月二九日は7/6)の朝3時半 ,わたしは早馬で来た日本の役人により次のような知らせを受けました。~略~ この知らせを受けて私は護衛の25名に対し、夜が明けるとわたしの共をして、ここから(赤羽接遇所)から約一里離れている公使の住居に行くように命じました。五時頃わたしと息子のアレキサンダーは十分に武装をし、二十五名の選り抜きの護衛と共にそこ(東禅寺英国公使館)にむかいました。~


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
wikipediaより引用
また事件後も、

5/30 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6/03 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
6/05 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6/15 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
6/17 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
6/20 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される

など事件解決に向けてシーボルトが関与していたと思われる事象が残されています。



◆「お花」と「お香乃」

この東禅寺が襲撃された際、二人の女性の死者があったことはあまり知られていません。
この女性たちは公使館で外国人の身の回りの世話をするために奉公していたいわゆる「ラシャメン」さんで、名を「お花」と「お香乃」と言いました。

東禅寺門前で襲撃事件の一年半前に刺殺された「伝吉」は、漂流から帰国までの過酷な生活のためか日本人を下等に見なすようになっており、帰国後(正確に言う伝吉は英国籍を取得していたので、生れ故郷である日本への公使館の通訳官としての赴任)は周辺の日本人からは蛇蝎のごとく嫌われる存在となっていたようです。

その伝吉は通訳官の他に、裏では外国人の身の回りの世話をする日本人女性「ラシャメン」を斡旋する口利きを行っていたようで、
三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の二人を見つけ出します。

二人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で英国公使館門前で殺害したともいわれています。

このようにしてラシャメンとなった「お花」と「お香乃」にも襲撃者の手が及び「夷狄に与する」卑しきものとして殺害されたことが想像されます。

最後に、漂流者から十年間も流浪を重ね、大変な苦労をして(一時期は奴隷として扱われたことも)英国籍と通訳官の地位を得た伝吉は、帰国後わずか七ヶ月で殺害されることになりますが、元々伝吉は摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」の船員(賄方)でした。この船が志摩国大王崎で嵐により遭難、鳥島沖へと流され、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭うことになります。その船員は伝吉を含めて17名で、同僚で「茶汲み」だった彦太郎はハワイからアメリカに渡り「ジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵:浜田彦蔵)」として帰国します。








◎Blog DEEP AZABU-東禅寺襲撃事件
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA

◎wikipedia-東禅寺事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

◎Blog DEEP AZABU-シーボルトの見た麻布
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

◎DEEP AZABU-イギリス公使館通弁、伝吉刺殺
 http://deepazabu.main.jp/m1/mukasi/ziken.html#6


※画像は一部
wikipediaより引用








































2017年5月26日金曜日

★山の手大空襲の麻布



1945(昭和20)年の今日5/25深夜から26日未明にかけて、山の手地域を対象に米軍B-29爆撃機により二時間半にわたって行われた大空襲。

これによりこの爆撃は「山の手大空襲」と呼ばれています。
この爆撃により3月15日の東京大空襲、4月15日(城南京浜大空襲)に続いて港区域も大被害となりました。
この二日前にも大規模な空襲がありましたが、東京に限るとB-29による大規模空襲は5/23、5/25両日が最後となりました。

◇5月23日の被害

 死者762人、被害家屋6万4千487戸

◇5月25日(山の手大空襲)の被害

 死者3651名。焼失16万6千戸※初めて皇居も爆撃目標となった。
 東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死

Wikipedia-東京大空襲にはこの山の手大空襲をB-29から撮影した画像が掲示されています。画像は恵比寿駅上空から霞町交差点・材木町、有栖川公園・広尾橋交差点あたりまで写されており、特に恵比寿駅あたりはほとんど火の海という状態であったことがわかります。

※右下黒線は国鉄線路、その脇で北に向かって延びる黒線は「渋谷川・古川」、中央下部は恵比寿駅。

◇wikipedia-山の手大空襲
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2#5.E6.9C.88


また麻布十番も4月の空襲で被災を免れた麻布山善福寺も焼失、山元町一帯、そして宮村町も大被害を出し、特にこの夜当直で南山小学校に泊まり込んでいた絵画教師の恩田孝徳(おんだたかのり)先生は燃えさかる宮村町や数日後の麻布十番、六本木交差点などを90点にのぼる絵画を描き残しています。

また南山小学校は屋上を突き破って焼夷弾が落下しましたが、当時校舎に駐屯していた麻布山地下壕に従事していた海軍陸戦隊により毛布などを掛けてすべて消火され、校舎は守られたそうです。

また稲垣利吉著「十番わがふるさと」には4月と5月の空襲により灰燼に帰した十番商店街の画像が掲載されています。


麻布区はこの2時間ほどの「山の手大空襲」だけで死者69名、重傷47名、全焼家屋8,878戸、罹災者31,576名を出してしまいます。



恩田は戦後まもなく第三回日展に出品したのを皮切りに連続して出品し、第十二回日展まで出品します。

しかし、昭和二十六(一九五一)年ごろから体調をくずし、昭和三十四(一九五九)年病気静養のため学校を退職して帰郷。翌年、五十九歳で逝去しました。

また当日の麻布を含む港区辺の様子を東京大空襲戦災史(全五巻)は下記のように記しています。


①麻布区北日ヶ窪町の住人が5/26午前二時頃、自宅に焼夷弾が複数発着弾したため避難開始。近所で軍が掘削中の地下壕に避難。
 翌日目覚めると壕の奥にいた人々が酸欠で死亡していた。この壕を証言者は、

 (引用はじめ)

 ~この防空壕は、間口が高さ、幅とも1m半くらい、奥行きが100mあまりもあって、鉄筋で両方の入り口は鉄の二重扉であった~

 (引用終わり)

この壕は独自調査によると陸軍が掘っていた地下壕で、現在の六本木ヒルズ欅坂下、くすりの福太郎店舗裏手擁壁をくり抜いたもので東洋英和女学院地下室につながっていました。しかし、この壕の掘削は麻布山地下壕の掘削を行った海軍工兵隊とほぼ同じ1945(昭和20)年に掘削がはじめられたと思われますので、東洋英和まで貫通していたとは思えません。そのために酸欠となって多くの死者が出たことが考えられます。


②麻布区東鳥居坂町仮寓住民。


  自宅に最初はエレクトロン焼夷弾が落下、後に油脂焼夷弾が落下し延焼。空を見上げるとガソリン状の液体が付着。
 坂下に逃げる途中、すでに4月の空襲で焼け野原となった東方面に増上寺五重塔が炎上しているのがみえた。


③麻布山善福寺塔頭子息。
 付近は防空壕を掘るとすぐに水打出てしまうため、盛り土をしてそこを壕として使用した。

 焼夷弾により自宅寺院は全焼。家族は高台に逃れた。翌日戻ると焼け跡となったわが家には17発の焼夷弾が敷地に落下しそのうち8発が家屋に命中しているのが確認できた。
 

④麻布区新堀町四番地住民。

空襲が始まり手ブラで逃げる途中、東京ガス麻布営業所が燃えていた。家族で予め「芝公園」を避難場所として決めてあった。三田小山町→専売病院→中ノ橋迄来て高射砲陣地が設置されていた芝公園方面も、反対の麻布十番も燃え上がっているのが確認できたので狸穴方面に避難先を変更。しかし狸穴方面も燃えだしたので、これまでと覚悟を決めて新一ノ橋手前新堀橋あたりの小さな防空壕に避難し、一夜を明かす。自宅は全焼しタオル一本持ち出せなかった。道にはコモを被された犠牲者の遺体がたくさん転がっていた。中には二三日の空襲で罹災し命からがら新堀町に避難してきた方の遺体もあった。


☆著名人・名所の罹災

①米内光政海軍大臣公定
 公邸がこの夜の空襲で焼失し、現在の仙台坂韓国大使館の敷地に移転し終戦まで
 使用されました。


◇wikipedia-米内光政
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF


②南山小学校

 南山小学校二階9教室に駐屯していた東洋英和地下壕掘削部隊(陸軍和気部隊)が屋上
 を貫通して落ちてくる焼夷弾を総て鎮火。5/25当日から空襲罹災者の避難所として解放。

 当日宿直だった絵画教師恩田孝徳先生が当日の様子を後に絵画として表す。5/26には
 和気部隊に変わって麻布山地下壕を掘削する海軍設営部隊が全校舎を使用して終戦
 まで駐屯。

◇Blog DEEP AZABU-南山小学校
  http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E5%8D%97%E5%B1%B1


③府立第三高女(現・都立駒場高校)

 府立第三高女(現・都立駒場高校)の敷地(港区立城南中学[現・六本木中学])に昭和天皇
 の后、香淳皇后が使用した学び舎で1933(昭和8)年に下賜されたお花御殿(仰光寮)
 が正門脇にあった。5/23、5/25空襲により校舎は全焼したが学校関係者の必至の
 消火活動によりこの「仰光寮(ぎょうこうりょう)」と体育館だけが焼失を免れた。府立第三高女
 は戦後まもなく都立駒場高校として駒場(目黒区大橋)に移転しますが仰光寮は1951
 (昭和26)年まで港区立城南中学校として開校した区立中学校(城南中学の開校は
 《昭和22(1947)年》の敷地に残されていましたが駒場高校有志による募金活動の結果、
 移転が行わわれた。

◇Blog DEEP AZABU-仰光寮
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%BB%B0%E5%85%89%E5%AF%AE



④麻布山善福寺

 5/25深夜、本堂、勅使門などを焼失。
 徳川家康が建立した東本願寺八尾別院本堂を譲り受け本堂として再建完成
 勅使門が再建されるのは1980(昭和55)年。

 また国指定天然記念物の「逆さいちょう」も焼夷弾により燃えたが、焼失は免れる。現在もその痛々しい焼け焦げが目視できる。

◇Blog DEEP AZABU-麻布山善福寺
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E9%BA%BB%E5%B8%83%E5%B1%B1%E5%96%84%E7%A6%8F%E5%AF%BA


⑤久保田万太郎の三田小山町邸

 作家・久保田万太郎の三田小山町邸が焼失。
 万太郎は麻布について、

 ・春麻布 永坂布屋 太兵衛かな

 ・時雨るゝや 麻布二の橋 三の橋



・短日や 麻布二の橋 三の橋

 などの句を残しています。

◇Blog DEEP AZABU-久保田万太郎
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E4%B8%87%E5%A4%AA%E9%83%8E



⑤麻布区永坂町、石橋正二郎邸

 石橋正二郎はブリジストン創業者、プリンス自動車(後に日産自動車と合併)の出資者
 で長女の安子は鳩山一郎元首相の長男威一郎に嫁す。

 鳩山威一郎・安子夫妻の長男は鳩山由紀夫(第93代内閣総理大臣)、次男は
 故・鳩山邦夫(政治家)。

 ちなみに町名変更反対運動があり、永坂町に住む松山善三・高峰秀子夫妻や
 ブリヂストンの石橋正二郎、狸穴町の木内信胤らが中心となり変更を拒んだ。

  これにより港区では区内の住居表示変更を完遂することが出来ず、現在もその
 達成率は97.4%となっている。この地域は、現在も住居表示が
 「麻布狸穴町」「麻布永坂町」と麻布を冠しており、江戸期から続く由緒ある町名が
 守られている貴重な地域。

 余談ですが、麻布十番の元鮮魚店で現在は鮮魚料理店となっている「魚可津」さん
 にはこの石橋正二郎揮毫による掛け軸が残されています。

  5/23
  飯倉片町が空襲により焼失。避難民を自邸敷地に受け入れる。

  5/25
 空襲により隣接する三井家(永坂町三井家屋敷)に直撃弾により焼失。
 その日がさらに西村家に飛び火延焼。

 増上寺五重塔が大火炎を発して崩落するのを目撃。

◇Blog DEEP AZABU-狸穴町
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E7%8B%B8%E7%A9%B4%E7%94%BA

◇wikipedia-石橋正二郎
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%AD%A3%E4%BA%8C%E9%83%8E


⑥麻布区材木町、音楽家團伊玖磨邸

 團伊玖磨を見舞うが家屋は全焼し、ただ温室のみが残されていた。
 この屋敷はヴォーリス設計建築による屋敷で建築主は広岡恵三。
  広岡恵三はNHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公モデル広岡浅子の娘婿で
 妹の一柳満喜子はヴォーリズと結婚する際にこの屋敷で三日三晩の大披露宴を
 開催します。
 その結婚式の半年ほど前に広岡浅子はこの屋敷で生涯を終えます。その後広岡家
 の興した大同グループの斜陽から屋敷を手放しますが、三井の重鎮であった團琢磨の孫。
 実家が小石川三井家の広岡浅子との関係からかこの時期には團伊玖磨邸となっていました。

◇Blog DEEP AZABU-広岡浅子
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E5%BA%83%E5%B2%A1%E6%B5%85%E5%AD%90

◇wikipedia-團伊玖磨
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%98%E4%BC%8A%E7%8E%96%E7%A3%A8


⑥慶応義塾塾長・小泉信三邸(三田綱町九番地)
 
 焼夷弾が屋敷に命中。失神の後鴎外に待避すると家族と遭遇。家族は腫れ上がった顔と
 燃えくすぶる衣服を見て驚嘆。歩いて現在の慶応義塾中等部内防空壕に避難。その頃より
 顔の火傷により目が見えなくなる。

 翌日慶応病院に入院するも顔に重度の火傷を負っていたため、生死の境をさまよい、
 同年12月にやっと退院。そして二年後の1947(昭和22)年慶応の塾長を退任。


◇wikipedia-小泉信三
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E4%BF%A1%E4%B8%89

⑦青山脳病院 斉藤茂太邸(赤坂区青山南町五丁目)

 斎藤茂吉の長男で青山脳病院医院の斉藤茂太邸が罹災。病院・自宅共に焼失。 
 弟はどくとるマンボウ・北杜夫。北の自伝小説「楡家の人々」はここを舞台として
 描かれている。

※青山脳病院は1923(大正12)年失火により焼失し再建は松澤村松原(世田谷区松原)
 で行い、こちらが青山脳病院本院(松原本院)となり青山に再建された脳病院は青山分院
 と呼ばれた。
 その後昭和20(1945)年、松原本院は東京都に売却され同年5/18
 「東京都立松沢病院 梅ヶ丘分院」となる。

 そして松原本院を売却した斎藤茂吉はは4月から郷里の山形県上ノ山町に
 疎開中で罹災を免れた。

◇wikipedia-青山脳病院
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E8%84%B3%E7%97%85%E9%99%A2

◇wikipedia-斉藤茂太
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E8%8C%82%E5%A4%AA











麻布中央部における
空襲による焼失地図









☆作戦に参加したアメリカ爆撃隊

①作戦任務第181号

 ・目標:東京市街地

 ・参加部隊:第58・73・313・314航空団

 ・出撃機数:B-29 558機

 ・目標滞在時間帯: 5/24 1:39~3:38

 ・損失:17機

 ・その他:49機のB-29が硫黄島に着陸



②作戦任務第182号(通称:山の手大空襲)

 ・目標:東京市街地

 ・参加部隊:第58・73・313・314航空団

 ・出撃機数:B-29 498機

 ・目標滞在時間帯: 5/25 22:38~5/26 1:13

 ・損失:26機



◎参加部隊詳細

 ☆組織系統

 ・第20航空軍 指揮官:カーティス・ルメイ少将

        ↓

  ・第21爆撃集団(日本本土爆撃の主力部隊) 
    指揮官:カーティス・ルメイ少将兼任
        司令部:サイパン島→グアム島

      ↓

   ・第58爆撃団 
     指令:ドワイト・O・モンテス大佐

     ↓

        ・第 40爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第444爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第462爆撃群→(四爆撃隊から編成)
        ・第468爆撃群→(四爆撃隊から編成)

   
   ・第73爆撃団 サイパン島イスリイ飛行場
     指令:エメット・オドンネル准将

     ↓

    ・第497爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第498爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第499爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第500爆撃群→(三爆撃隊から編成)

   ・第313爆撃団 テニアン島北部飛行場
     指令:ジョン・R・デーヴィス准将

     ↓

    ・第  6爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第  9爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第504爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第505爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第509爆撃群→(三爆撃隊から編成)


   ・第314爆撃団 グァム島
     指令:トーマス・S・パワー准将

     ↓

    ・第 19爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第 29爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第 39爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第330爆撃群→(三爆撃隊から編成)


   ・第315爆撃団
     指令:フランク・アームストロング准将

     ↓

    ・第 16爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第331爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第501爆撃群→(三爆撃隊から編成)
    ・第502爆撃群→(三爆撃隊から編成)



 ☆編成

 ・爆撃団192機(4or5爆撃群、実働180機と予備12機)
 ・爆撃群45機 (3or4飛行隊、実働35機と予備10機)
 ・爆撃隊1O機












2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。


麻布十番の七面坂と本善寺があったあたり
吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。


とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺