2012年11月30日金曜日

古川端島津屋敷の犬追物(いぬおうもの)




犬追物(Wikipediaより引用)

犬追物(Wikipediaより引用)






古川橋から天現寺方面の古川端辺の白金側は、明治初期にはまだ見渡す限りの田圃であったといい、川端から大久保彦左衛門の墓がある立行寺 までは、あぜ道を通って行ったといいます。

その頃、薬園坂の辺りに元薩摩藩の島津忠義本村町別邸があり、その屋敷で伝統的な「犬追物(いぬおうもの)」という催しが行われたそうです。
これは野良犬を入り口で販売し、買われた犬は一旦溜まりに繋がれる。そして一匹づつ引き出されて、円陣の真ん中に引き出され「犬を放ち申し候!」と叫び犬を放つと、犬が逃げ出そうと駆け回るところを矢先に補具を付け犬が死なない様にして何度も、射すくめるという遊びとのことです。(今から考えると非常に残酷な遊びですが、野犬対策、弓道の訓練ともしかしたら遠い昔の「生類哀れみの令」が解禁された時の恨みもあるのであろうか?いづれにせよ犬にとっては、いい迷惑ですね。)しかし射られた矢はめったに当たったのを見た事がないと この話の主は結んでいます。

また、古川端のあぜ道の近くに養豚をしていた農家がありましたが、辺りが市街地化すると共に、渋谷~目黒とだんだんと郊外に移転して行ったそうです。そして明治になると古川橋の辺には「木賃宿」が出来、夜鷹(街娼)なども現われます。そして、田中商会の犬小屋が出来、南座が開場になって田圃のなかに一軒また一軒と家が建ち始め、一気に都市化が進んで行ったそうで、やがて田圃は無くなり青田が黒田になったと近所の人々は軽口をたたいたといわれています。

1881(明治14)年5月9日岩倉具視、西郷隆盛、河村海軍卿を供奉として明治天皇がこの島津忠義本村町別邸(元パピリオ化粧品敷地)に臨幸し、犬追い物と相撲を天覧したとの記録が残されています。そして、これが最後の犬追い物の開催となったとwikipediaに記載があります。




1881年(明治14年)5月9日天皇陛下本村町の公爵、島津忠義邸に行幸。午前7時御出門。別邸にて古式の犬追物、相撲を天覧。本邸にてつつじ観覧後、射術を天覧。御供奉は岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿。








島津忠義本村町別邸があった
麻布本村町薬園坂西側



























 

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2012年11月29日木曜日

宮村町の川端康成


1926(大正15)年文芸時代1、2月号で伊豆の踊子を発表した27歳の川端康成は、同年3月31日に伊豆湯ヶ島から上京し、その足で麻布宮村町大橋鎮方に寄宿することとなりました。場所は新潮日本文学アルバムの裏表紙に掲載された手書き地図を見ると宮村町新道狐坂下界隈のようですが、おそらくかなりの年月を経た後に回想しながら書かれた地図のようで不明瞭な部分があり、確かな位置の断定は出来ません。 
宮村新道から宮村坂方面
しかし、その場所は長玄寺下あたりか狐坂から宮村坂(宮村坂は昭和2(1927)年に開通しているので、1926(大正15)年当時はまだなく行き止まりの路地であったと思われます。)方面に入ったあたりだと推測されます。

当時の部屋の様子を「伝記 川端康成」は、川端が「見もせずに2月から借りていた」部屋らしいとしながら、


白木屋で枕と寝間着を買ひ、バスケットと風呂敷包みと「古雑誌など詰めしサイダア箱」だけをタクシイに積んでの下宿入り
と記しており、また、川端はその日の日記に、




幽霊と地獄にでも平気で住み得ると思ふが、僕平常の覚悟なり。何時にても飛び去り得るといふか、僕の唯一の条件なり。

仮寓地図
などと書き、また「貸蒲団にもぐりこみ」というような無造作な下宿ぶりを記しています。

しかしこの文章で書かれた幽気でも感じたのか、複数の川端康成関連の年表を見ても、4月には市ヶ谷左内町26にある菅忠雄の家に移転し、管の留守を預かっていた松林秀子との生活を始めた事が記されています。よって川端の宮村町生活は残念ながら、数日から長くても数週間であったと思われます。








★20140709追記

この数日間という川端康成のわずかな麻布宮村町西端の仮寓ですが、この仮寓先と思わ
れる場所が作品に使われていました。
1940(昭和15)年婦人公論1月号に発表された「母の初恋」という短編小説では、


 主人公の佐山が銀座で偶然、昔の恋人民子と出会い、ぜひ娘・雪子を見てほしいと言う
民子に従い、母子二人暮らしの麻布十番の裏町の新居に寄った。この様子を小説は、

~麻布十番の裏町の家では、水兵服を着た雪子が、粗末な机で勉強していた。女学校に通っているのだろうか。

御挨拶しなさいと民子が呼ぶと、雪子は立って来て、少女らしいお辞儀をしたが、その後は、黙ってうつ向いていた。~

と、記しています。







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2012年11月28日水曜日

赤羽橋の迷子しるべ石



一石橋迷子しらせ石標
前回の几号水準点を「三角点の探訪」サイトで調べていて、また不思議な記述が目につきました。
それは赤羽橋一石橋の几号を彫り付けたものが「赤羽根橋際迷子知ルヘ石」・「一石橋迷子知ルヘ石」とありました。今回はその「迷子知ルヘ石」のおはなしです。

「迷子知ルヘ石」は「迷子しるべ(標)石」と読み、繁華街(江戸期の赤羽橋は有馬藩邸の水天宮があったので大変な賑わいでした)などで迷子が生じた場合に、はぐれた親子を会わせるための標識で「明治事物起源」によると、その起源は、

江戸時代天保13年(1842年)池田治兵衛という絵師が湯島天神開帳の混雑で迷子が多く出ることを憂いて、たづねる方・おしいる方と書かれた「奇縁求人石」という碑をつくり迷子救済の道標にしようとしたが、事情あって別当所喜見院の境内に埋めた。これを後年惜しんだ人が掘り起こし境内に建てる事になったが、その際一石橋と浅草寺にも池田治兵衛の志をついで「迷子のしるべ」と名を変えて同じ物を建てた。

ことが、始まりと言う。

さて赤羽根橋の「迷子しるべ石」ですが、「三角点の探訪」サイトの表は明治12年(1879年)の内務省地理局雜報をもとに作成されているのですが、明治7年(1874年)刊行の「やまと道しるべ」には湯島天神前、浅草観音仲見世前、一石橋南際の3箇所とともに「赤羽根橋北」とあります。そして、明治17年(1884年)刊行の「改正東京案内」ではこの4ヶ所の他に、芝大明神・両国橋北・神田万世橋際が追加されました。

一石橋迷子しらせ石標と
一石橋の親柱
とあるので、明治17年までの現存は確認できるが、残念ながらその後は不明です。

この項で紹介した画像は残念ながら赤羽橋ではなく一石橋のものですが、たぶんそう違わないであろう「迷子しるべ石」が、赤羽橋にもあったであろうことは今回確認できました。

余談ですが日本橋川にかかる一石橋は、両岸に後藤家があるので五斗と五斗であわせて「一石」という縁起もあるそうです。そして一石橋迷子しるべ石は、「東京都指定有形文化財」に指定されて現存されています。下記にその傍らに記された文をご紹介します。





一石橋迷子しらせ石標


一石橋迷子しらせ石標 解説板
江戸時代も後半に入る頃この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。
迷子がでたた場合、町内が責任を持って保護ることになっていたので、付近の有力者が世話人となり、安政四年(1857)にこれを建立したものである。
柱の正面には「満(ま)よい子の志るべ」、右側には、「志らする方」、右側には、
「たづぬる方」と彫り、上部に窪みあある。利用方法は左側の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙をはり、それを見る通行人の中で知っている場合は、その人の特徴を書いた紙を窪みに貼って迷子や尋ね人を知らせたという。いわば庶民の告知板として珍しい。このほか浅草寺境内と、湯島天神境内にもあったが、浅草寺のものは戦災で破壊された。












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2012年11月27日火曜日

麻布の几号水準点

ロシア大使館前几号
先日、何気なく麻布関連のサイトを検索していたら、「日本の測量史」というサイトで不思議な表が目に入りました。
麻布一本松氷川社石華表28.3348とあり、ページのトップを見ると「几号水準点」とあります。
なんだろうと思いつつ文章を読むと几号は「キゴウ」と読み、明治初期の内務省が地図つくりを試みていた当時の水準点に相当する標石と記されていました。
さらに読むと一本松の他にも麻布の地名が列記されており、芝、赤坂の麻布近隣をはじめ東京の各地にあった几号水準点の詳細が記されていました。その中で「三角点の探訪」のサイト製作者である上西勝也氏の了解を得て、麻布とその近辺の几号現存状況をお伝えします。








図1-麻布付近に設置された几号水準点

No. 現存 名 称 標 高 設 置 場 所 備 考 地図
1. × 西福寺 8.0838m 麻布四ノ橋近傍西福寺石手水鉢  現存せず。 地図
2. × 麻布氷川神社 28.3348m 麻布一本松氷川神社石華表 現存せず。現在の石華表は昭和期設置 地図
3. × 末広神社 8.9796m 石華表 設定地は現ハラストアー 地図
4. × 赤羽橋北詰 4.9566m 赤羽根橋際迷子知ルヘ石  現存せず。 地図
5. × 櫻田神社 30.8500m 石華表  現存せず。 地図
6. 飯倉狸穴坂上 26.3900m ロシア大使館前路傍、水平面刻印 PBbox脇、初期設置場所は不明ながらも麻布郵便局? 地図
7. × 六本木 光専寺 30.6609m 門前碑 現存せず。戦災により消失との事 地図
8. × 麻布長谷寺 31.0600m 入り口  現存せず。 地図
※ 麻布の現存率 12.5% (0%)
1. × 愛宕町 愛宕神社 6.1376m 石華表  現存せず。  
2. × 愛宕町 愛宕山上 25.4296m 三角測点石上面  現存せず。  
3. 愛宕町 愛宕山上 26.2361m 安永八年二月ト記シタル碑 「不」ではなく「T」字型 地図
4. × 新橋 (旧宇田川町) 3.1820m 路傍  現存せず。  
5. × 金杉町北詰(西) 4.4778m 芝金杉橋欄干石柱  現存せず。  
6. × 東新橋 会仙橋北詰東 2.2420m 岸壁  現存せず。  
7. × 新橋 蓬莱橋南詰(西) 3.8321m 蓬莱橋石欄干石柱  現存せず。  
8. 芝東照宮 4.0300m 石華表 右足下方正面 地図
9. 芝鹿島神社 3.9243m 狗石台石 赤字「若者中」下方 地図
10. 高輪大木戸 4.1871m 大木戸石垣 車道側側面 地図
11. 白金覚林寺(清正公) 12.7753m 門前碑 「清正公大神儀」碑左側面台座下部 地図
12. × 白金台町 妙延寺 28.9700m    現存せず。  
13. 白金三光町 西光寺 14.2100m 念仏碑 境内左手「南無阿弥陀仏」碑左面下部 地図
14. 西久保八幡町 八幡神社 22.2700m 石華表 鳥居の左足下方正面 地図
15. 三田 綱の手引坂上   路傍、水平面刻印 綱坂・綱の手引き坂合流点角・2010年撤去行方不明 地図
※ 芝の現存率 53.3% (50%)

1. × 赤坂葵町 塀の北門 14.7053m 測量課邸北ノ角石垣  現存せず。  
2. 赤坂氷川神社   華表   地図
3. × 赤坂 浄土寺 9.1210m    現存せず。  
4. 南青山7丁目路傍 27.7600m 路傍 郵便ポスト右手民家境界塀最下部道路面 地図
5. × 南青山 梅窓院 32.7387m 石手水鉢  現存せず。  
6. × 北青山 善光寺 34.3900m 石塔  現存せず。  
7. × 青山六道辻甲賀町壹番地 33.2702m 新設石柱  現存せず。  
8. × 元赤坂 赤坂離宮前門前 15.6700m 旧鮫河橋路傍  現存せず。  
9. × 元赤坂 紀伊国坂上 24.1000m 紀伊国坂上溝際石柱路傍  現存せず。  
10. × 赤坂元町 赤城神社 25.9700m 駿ケ台赤城神社石華表  現存せず。  
※ 赤坂の現存率 20.0%

1. 渋谷区東 宝泉寺 16.8800m 境内常磐薬師堂碑下部 移設 地図
2. × 広尾 広尾橋西詰 10.7900m    現存せず。  
3. × 渋谷区東 渋谷橋交叉点 13.4800m 路傍  現存せず。  













港区内の几号水準点現存立



上記図-1から、旧麻布区内における几号水準点の現存状況が、他の旧港区内地域に比べて著しく損なわれているのがおわかりいただけるかと思います(ロシア大使館の几号が水準点ではないと仮定すると現存ゼロになってしまいます)。
同じように関東大震災、戦災、60年代開発、バブル期再開発、そして今期の再々開発にあいながらなぜこのような違いが出てしまったのかは、再考する必要があると思われます。
なを、今回の記事を書くにあたり、まったく几号水準点の事を知らなかった私が参考にさせて頂き、またメールでのご教授もいただいた「三角点の探訪」サイト製作者である上西勝也氏に感謝いたします。と同時にこの記事をお読みいただいて、几号水準点に興味をお持ちの方は「三角点の探訪」サイトにご訪問されることを、強くお勧めいたします。



「日本の測量史(旧三角点の探訪)」はこちらからどうぞ!











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2012年11月26日月曜日

天井桟敷館

以前ご紹介した「幻の山水舎ラミネ瓶」のラムネ工場は1961(昭和36)年にラムネの生産を停止して、工場としての役割を終えたとお伝えしましたが、その後1976(昭和51)年にこの工場の外壁を黒く塗って劇団天井桟敷が使用をはじめました。


元麻布の天井桟敷館
20年以上前に私が友達と酒などを飲み、十番から宮村町に向かう薄暗い道を歩いていると、よく異様な集団がジョギングしているのに出会いました。黒い上下のスエットを着て、裸足。そして頭もピカピカに剃り込んでいます。夜道で見ると、目だけが異様にひかり、とても怖かったのを覚えています。
最初は何だかわかりませんでしたが、じきにその人達が天井桟敷の研究生であることが判りました。 昭和51年(1976年)、それまで7年間劇団のあった渋谷から元麻布3丁目の山水舎工場跡に移転してきました。
天井桟敷は寺山修司が、昭和42年に横尾忠則、東由多加、九条映子らと設立。「青森県のせむし男」「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」など次々に公演し話題になったアンダ-グランド劇団です。
麻布に移った天井桟敷は、アングラ(何て懐かしい響きでしょう!)劇団のチケットなどを扱う「アンダ-グランド・プレイガイド」、世界中の演劇雑誌や、国内の映画、演劇書だけを扱った「ブック・コ-ナ-」、小公演、朗読会もできる喫茶室などがあり、空いている時は稽古場としても使用されていたそうです。
当時、私は演劇などに全く興味が無かったので、この異様な人達に興味を引かれる事は無く、建物に入った事もありませんでした。ただその前を通る時、異様なほど真っ黒に塗られた建物と、異様な風体の人達に只ならぬものを感じるだけでした。
そして、寺山修司の死後は、天井桟敷も麻布から姿を消しました。あの前を通ると建物の前で「う×こ座り」でタバコをふかしていた寺山修司の記憶が、今でも時々脳裏をかすめることがあります。

それから数年が過ぎ、三田に飲み友達が多く出来て毎晩飲み歩いている頃、田町のとある飲み屋に入ると生憎店内は混み合っていてカウンタ-席しか空いていませんでした。待ち合わせた友人はまだ来ていなく、仕方無しにカウンタ―に座りあたりを見回すと、どうも見覚えのある顔が目に付きました。
しかし、そんなに親しい間柄ではなかったようで、いくら考えても思い出せなません。そして、やっと思い出したのは、最初のビ-ル瓶が空になる頃で、彼は天井桟敷の人でした。

待ち合わせの友人も未だに姿を見せず、また酔いも手伝って恐る恐る声をかけてみると、やはりそうでした。話してみると以外に普通で、年は私と一つ違い、天井桟敷館の後は、音楽関係の仕事をしているとの事でした。その後、彼は私達と毎日のように飲むようになり、親しくなっていきました。

在る夜、三田でしこたまに飲んだ夜の1時頃、突然彼が「海へいこう!」と言い出し、車を調達してそのまま直行。気が付くと4時には伊豆の田牛(とうじ)海岸に立っていました。海水パンツもないのに、トランクスになりそのままうみへドボン! 一気に酔いが覚め、水中から顔を出して空を見上げると、東の空の朝焼けと反対側には、まだ輝度を失っていない月が同時に見えた。今だにこの日の事を強く覚えているのは、この空をみたからです。
人力飛行機舎

今はこの彼との付き合いも途絶えましたが、たまたま私は、TVで目にした事があります。
その番組は..........子供番組「オ-・レンジャ-」の悪役でした。

この元麻布天井桟敷館は寺山修司の死後、劇団が解散すると建物も解体されてしまいました。
しかし、寺山修司関係の建物として、おもに映像関係を扱っていた三田寺町にある「人力飛行機舎」もあり、こちらの建物は現存しています。
















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2012年11月25日日曜日

麻布銀行の絵画



現在の十番商店街中央交差点脇あたりで、昭和の初期頃まであった「麻布銀行」の応接間には、洋画家長野華邦のが描いたアルプス山景の絵画が飾られていたそうです。

昭和初期の十番商店街
(十番わがふるさと)
信州で祖父が城主であった長野華邦はアメリカに渡り絵画学校を皿洗い、窓拭きなどもしながら苦学して卒業し、メキシコに10年住んだ後に帰国した。しかし本場ヨ-ロッパでなくアメリカの画風であったために当時は人気が無く絵もまったく売れないために、その生活は極貧を極めたといいます。
妻も大審院判事の娘でしたが、夫婦そろって「大酒飲み」で、たまに絵が売れても酒代と消えてしまったそうです。家は家賃が払えないために大家に大半の畳を持って行かれ、残ったのは大家がお情けで置いていった3畳だけ。たまに友人が遊びにくると新聞紙をひいて座らせたといいます。
そして性格は温和で、酒を飲まないと人と口も聞けないほど純粋な人物であったそうです。

しかし、その純粋さが災いして酒の席で良からぬ連中に騙され、手形詐欺の一味として手形偽造行使の罪名で裁判所に告訴されてしまいました。そして裁判となって法廷に立たされた華邦は気の弱さから一言もしゃべれず、そのあまりに気の弱い様子から裁判長の渡辺照之助は、華邦が一味ではないと見抜いきました。そして華邦の弁護人から、

「被告は気が弱く申し開きが出来ないので、被告の心中を絵画にして披見したい。」

という裁判史上前代未聞の申し出がなされると即座に許可しました。

次回の公判で華邦が提出した絵は何と!「達磨が切な糞を垂れている」油絵でした。これは華邦が逃げ場もないほどに反省していると言う心持を表したもので、これには裁判長も笑ってしまったといいます。

その後の判決には刑に執行猶予が付き、華邦は受牢を免れました。そしてこの一件は「油絵裁判」として永く裁判所でも評判になったといいます。

昭和初期の麻布銀行

そして、その後も華邦夫妻は懲りずに大酒のみで在りつづけ、また貧乏とも縁が切れなかったといわれています。


※ 仙華さんのご指摘によりこの建物は現在も静屋家具センターとして使用されていることが、
   わかりました。仙華さん、ありがとうございます(^_^)v





















現在の同所






























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2012年11月24日土曜日

森元三座


明治維新の後、森元町内に森本座・高砂座・開盛座のいわゆる「森元三座」と呼ばれた劇場が、現在の東麻布イースト商店街付近にできました。
東麻布イースト商店街
これらの劇場は、城南地域に芝居小屋が無かった事から、近隣の盛り場「飯倉四辻土器町」の人出を見込んで、開場したそうです。どん帳芝居と称して、引き幕廻り舞台をゆるされないにもかかわらず、当初は大繁盛であったといいます。
当時、歌舞伎の桟敷で一人84銭であるのに、この三座は8銭と格安であったため山の手以外に下町からも客が集まった。また内容も当初は茶番のような物であったそうですが、のちに有名な役者も名を変えて出演しました。しかし芝居の適地でなかったようで、明治35年(1902年)ころには三座とも跡形もなかったと言われます。


この森元三座について麻布区史は、

明治の中期、当町には森元座、曙座等の劇場があり、女優や旧劇の女形などが住んでいたとは、これも付近に居住した文士小山内薫氏の語るところである。

とあり、また岡本綺堂著「明治劇談-ランプの下にて」という書籍の中の鳥熊の芝居という項では、


三座の名残?萬盛館
いつの代にも観客は大芝居の客ばかりでない。ことに活動写真などというものの見られない時代であるから、それらの小芝居も下級の観客を迎えて、皆それぞれに繁昌していた。今これを語っている明治十八、九年頃に、小芝居として最も繁昌していたのは、牛込の赤城座、下谷の浄瑠璃座、森元の三座などで、森元の三座とは盛元座、高砂座、開盛座をいうのである。わたしは盛元座と高砂座へたびたび見物に行った。木戸銭は三銭ぐらいで、平土間ひらどまの大部分は俗に“追い込み”と称する大入り場であったから、腰弁当で出かければ木戸銭のほかに座蒲団代の一銭と茶代の一銭、あわせて五銭を費せば一日の芝居を見物することが出来たのである。盛元座の座頭ざがしらは市川団升、高砂座は坂東勝之助で、団升も勝之助も大芝居から落ちて来た俳優であった。

と記しています。








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2012年11月23日金曜日

ラグーサお玉

市谷山長玄寺
明治9年日本政府の依頼で来日したベンチェンッツオ・ラグ-サは、いわゆる「おやとい」として三田四国町の工部美術学校で教師を勤め、日本美術界に貢献しました。


その教師時代にモデルとして頼まれたのが19才の清原玉でした。実家は芝新堀で園芸を営み、芝増上寺の差配をしていたので多くの地所を所有していました。やがて2人に愛が芽生え両親の許しを得たのち明治15年、お玉22才の年にラグ-サの故郷イタリア、シシリ-島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ-サと改名しました。シシリ-での生活を始めた玉は、自らも筆を執り子供の頃から画才に恵まれていたため、やがて南欧と日本の美を融合した独自の画風で知られるようになったそうです。そして夫の高等美術学校の副校長としてラグ-サを助け、また彼も生涯玉を愛し続けました。
しかしお玉68才の時夫ラグ-サは玉の手を握りつつ永眠し、その6年後お玉は52年ぶりに日本へ帰国しました。昭和8年10月26日諏訪丸が横は横浜港に接岸すると、親族とともにパレルモで知り合って27年ぶりの再会になるマリヤデンチチ夫人も出迎えました。帰国後日本美術界に貢献したお玉も昭和14年4月6日午前2時17分、79才で永眠し麻布宮村町の長玄寺(港区元麻布3-5-16)に埋葬されました。


有栖川熾仁親王騎馬銅像
有栖川公園の南部坂上広場にある「有栖川熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張 のため有栖川公園広場に台座ごと移されました。
この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置されました。 この像を製作したのは、ラグ-サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ-サに師事し、ロ-マ美術学校を1888年に卒業し、 日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」などを作成した彫刻家の大熊氏広です。また大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち 有栖川親王邸の新築工事の設計に加わります。この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持ったといわれています。






☆長玄寺・ラグーサ・お玉碑文(十番未知案内サイトより転載)




ラグーサ玉女史

長玄寺境内のお玉碑
文久元年 江戸芝新堀の清原家に生まれ幼より画を好む偶々伊太利彫塑家ヴィンチェンツォ・ラグーサに洋画を学び 明治15年その郷里パレルモに伴わる後 同市新設の高等美術工芸学校副校長に任ぜられ ラグーサ校長を補佐す 明治22年結婚 エレオノラ・ラグーサと名乗る画名欧米に洽し昭和3年夫君逝く昭和8年半世紀余の滞伊生活に別離し居所昔ながらの清原家に還る女史非凡の画才は南欧の絢爛優婉なる色調と日本人特有の構図の妙と典雅の筆致を併せ東西融合の独自の境を開く 昭和14年4月5日突如昏睡 翌6日早晨79歳を以て逝く時に枕頭の水彩顔料未だ水を含みて残る 嗚呼女史は絵画の化身なりき    昭和14年11月建 玉光会 」 堀 通名 菊地鑄太郎 佐野 昭 金澤正次 松岡 壽 渡邊 直達 畑 正吉 岩崎雅通














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2012年11月22日木曜日

奉行所欺してホウビ

江戸の頃、麻布の裏長屋に、親孝行な浪人兄弟が住んでいました。
兄弟は力を合わせて手内職に精を出しましたが、暮しは貧しく、ときには自分達の食事を割いて、母親だけ食べさせる事もあったそうです。そして お金さえあったら、もっと母親に楽をさせてあげらるのにと兄弟は、ただお金のない事を嘆いていました。 
ある日、外から帰った兄は思い余って突然弟に、自分をキリシタンの信者だと訴えれば褒美のお金がもらえ、母親に楽をさせられると持ちかけました。
すると弟も、目上の兄を訴えては天罰が下る。自分を訴えてと兄に頼み、両者とも譲らなかったそうです。
しかし、一度言い出すと主張を曲げない性格の兄に「おいさき短い母親のためにこの命を捧げるのも、惜しくは無い。」と言われると、とうとう弟も根負けしてしまい、弟が兄を訴えることに決まりました。
当時キリシタンの信仰は禁制で、幕府は信者を取り締まりる為に、密告者には褒美を出す制度を設けていました。
数日後、弟は奉行所に「恐れながら、私の兄はキリシタンの信者です。」と兄を訴え、兄はすぐに捕まり牢獄に入れられました。
投獄されると、仲間の信者を言うようにと拷問をかけられ火責め、水責が毎日続きました。しかし兄はただ自分はキリシタン信者だと繰り返す ばかりで、いっそう激しい拷問にかけられたそうです。

弟の方も、兄が信者ならば弟も怪しいと疑いをかけられたそうですが、訴人ということで詮議を免れ、奉行より銀100枚を褒美にもらいました。 そのお金で念願だった母親に毎日御馳走を振るまい、母に心配をかけないように、兄は大きな仕事で他国に出稼ぎに行ったと偽ったそうです。 しかし母親は、弟の態度からどうもおかしいと不審を抱きはじめました。そんなある夜、褒美の大金を母親に見つかり、とうとう弟は一切を打ち明けました。すると母親は兄弟の孝行心に涙を流して感謝しました。しかし嘘をついてまでの孝行は、真の孝行では無いと弟を諭し、今からでも 奉行所に本当の事を打ち明け、素直に罪を償えと涙ながらに訴えました。

次の朝、弟は奉行所に行き、親孝行するためのお金欲しさに兄を信者に仕立て上げてしまったと、自首をしました。
役人はすぐに兄を牢から出して、弟に対面させました。弟が母親に打ち明けた事を知らない兄は、まだ自分は信者だと言い張り弟は頭がおかしいとまで言って、自分を犠牲にしようとしましたが、昨夜の母の言葉を弟から聞かされると、自分の孝行心の間違えを悟り、ついに弟の言い分を認めました。 
奉行所でもキリシタンのお唱えも知らない兄に疑問を持っていたところだったので、弟の言い分に納得してすぐに上役に報告し、この度の罪を改めて吟味する事になりました。

その結果、兄がキリシタンである確証は無いが、公儀を偽った罪は重く、死罪にも値する。しかし親孝行のため、はりつけの刑を覚悟の上で嘘をついたのは、まれに見る孝行心の厚さからだと罪を許され、かえって褒められました。牢を出された兄は、町役人の樽屋藤左衛門に預けられ、後に無罪放免となりました。このあと、改めて兄弟の孝行心に対し、宗門改奉行、井上筑前守からは、金子10両、町奉行、加賀仙民部少輔から金子1枚、籠奉行、石出帯刀から金3両、樽屋藤左衛門から3両の褒美を授かりました。そしてこの話はたちまち江戸中に広まり、会津若松藩主、保科肥後守正之は兄弟の孝行心に感激して家臣として召抱えたといいます。

この話を読んでから、麻布区史、新修港区史などで「町役人の樽屋藤左衛門」(おそらく町名主?)を探しましたが、見つけることはできませんでした。しかし「麻布区史」の第4節「孝義の表彰」には、享保五年(1720年)から孝義を褒賞する制度が将軍吉宗により定められ、麻布でも下記の方たちが褒賞されている事がわかりました。

○市兵衛町平七
寛政3年3月17日に家主の平七は、借地人伊勢屋惣右衛門への多年の親切に対して、御褒美として白銀五枚を下賜された。
○今井寺町藤助
寛政4年2月25日、家持孫八の召使藤助は主人に対しての忠義の厚さから、褒美として白銀五枚を賜った。
○飯倉新町ゑつ
文政6年5月21日、夫への貞節をもって、町奉行榊原主計より鳥目七貫文を褒賜された。
○桜田町寅吉
文化8年4月26日、九歳の少年寅吉は、両親への孝養により根岸肥前守より鳥目十貫文を下賜された。
○飯倉四丁目金之助
文政8年12月22日、喜八店印判職人馬之助の倅金之助15歳は、幼年の身を以って父並びに祖父母への孝養から筒井伊賀守から鳥目5貫文を賞賜された。
○服部眞蔵
天保15年12月26日、麻布狸穴町儒業者、服部南郭の倅で浪人の眞蔵は家業精励をもって、銀20枚を下賜された。

2012年11月21日水曜日

さよなら麻布の都電


昭和30年代中盤ころ、まだ乳児だった私はよく寝ぐずりをしたそうです。そんな時に私の親は宮村町にあった自宅から、わざわざ一の橋停留所附近まで都電を見せに行ったそうです。
都電6000形(安藤幸洋氏撮影)
不思議に都電を見ると、すやすやと眠ってしまう癖のついた私を、その度におんぶして一ノ橋まで連れて行ったといいます。しかし私にこの記憶はもちろんありません。そして私の記憶にはじめて登場する「都電」は、決して愉快なものではありませんでした。

私が幼稚園に通っていた昭和37~38年頃のある夏の日、近所のおじさんが自家用車で私と父を「はぜ釣り」に連れ出してくれました。目的地はその頃はぜ釣りの定番の場所であった東雲です。

車は宮村町を出発してしばらく走り、仙台坂を下って二ノ橋から一ノ橋に向かう大通りに出ました。そこで忘れ物をしたことに気がついた運転手の近所のおじさんは、来た道を戻るため大通りの都電軌道をまたいで反対車線にでようとしました(当時ももちろんUターン禁止だったと思いますが(^^;)。車が都電軌道にさしかかった瞬間、けたたましい警笛にはっとすると、目の前に都電が迫っていました。都電は急ブレーキで2メートルほど手前で停車し、事なきを得ましたが、
都電運転手の、

バカヤロー!あぶないじゃないか!こっちは乗客を預かってんだ!

っという怒声に、近所のおじさん運転手は、

バカヤロー!こっちには子供が乗ってるんだ!

っと切り返し、子供心にもいたたまれなくなった記憶が残っています。

当時、古川橋~一ノ橋間には、

  • 4系統(五反田駅前~銀座七丁目)一ノ橋経由
  • 5系統(目黒駅前~永代橋)一ノ橋経由
  • 8系統(中目黒~築地)一ノ橋経由
  • 34系統(渋谷駅前~金杉橋)一ノ橋経由







が走っていましたが、この一ノ橋通過系統の他にも麻布には、

34系統を走っていた物と同じ形の
都電6000形(愛称一球さん)
(安藤幸洋氏撮影)
  • 6系統(渋谷~新橋)龍土町・六本木経由
  • 7系統(品川駅前~四谷3丁目)天現寺・日赤病院下経由
  • 33系統(四谷3丁目―浜松町1丁目)六本木・飯倉経由





などが通っておりまた、乗り継ぎ停留所として、


●赤羽橋
  • 3系統(品川駅前~飯田橋)

●芝園橋
  • 2系統(三田~曙橋)
  • 37系統(三田~駒込千駄木町)



●金杉橋
  • 1系統(品川駅前~上野駅前)

などがありました。その中でも麻布十番商店街を擁し乗降客の多かった一ノ橋停留所は、一際長い停留所だったようで、一ノ橋停留所を筆頭に麻布近辺は、まさに「城南の都電王国」であったとする回顧談もあります。

そんな都電も、道路の渋滞緩和政策から、4・5・8系統は1969年(昭和44年)3月、最後まで残ったドル箱の34系統(渋谷駅前~金杉橋)も1969年(昭和44年)10月25日を最後にして姿を消しました。



☆古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 古川橋 - 麻布十番 - 赤羽橋 - 芝園橋 - 金杉橋

  • 一の橋周辺はセンターリザベーション化されていた
  • 1908(明治41)年11月18日:天現寺橋 - 四ノ橋間開業
  • 1908(明治41)年12月29日:四ノ橋 - 一ノ橋間開業
  • 1909(明治42)年6月22日:一ノ橋 - 赤羽橋間開業
  • 1911(明治44)年12月26日:赤羽橋 - 芝園橋間開業
  • 1914(大正3)年3月15日:芝園橋 - 金杉橋間開業
  • 1969(昭和44)年10月26日:廃止













☆天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷駅前 - 渋谷橋 - 天現寺橋 (玉川電気鉄道が敷設した路線)

  • 1921(大正10)年6月11日:渋谷 - 渋谷橋間開業
  • 1924(大正13)年5月21日:渋谷橋 - 天現寺橋間開業
  • 1937(昭和12)年:渋谷駅前停留所を東口へ移設(のちの東急玉川線と線路分断)
  • 1969(昭和44)年10月26日:廃止







☆目黒線 (4・5系統) 魚籃坂下 - 清正公前 - 上大崎 - 目黒駅前

  • 1913(大正2)年9月13日:(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
  • 1914(大正3)年2月6日:白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
  • 1967(昭和42)年12月10日:廃止





☆札の辻線 (3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻

  • 1912(明治45)年6月7日:開業
  • 1967(昭和42)年12月10日:廃止



☆恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 伊達跡 - 恵比寿長者丸

  • 元々は外濠線が免許を取得していた路線。池上方面への延伸計画があったが実現せず
  • 1913(大正2)年4月27日:天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
  • 1922(大正11)年7月31日:伊達跡 - 恵比寿長者丸間開業
  • 1944(昭和19)年5月4日:廃止







☆六本木線 (3・8・33系統) 浜松町一丁目 - 御成門 - 神谷町 - 飯倉一丁目 - 六本木 - 北青山一丁目

  • 1911(明治44)年8月1日:御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
  • 1912(明治45)年6月7日:青山一丁目 - 六本木間開業
  • 1915(大正4)年5月25日:宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業
  • 1969(昭和44)年10月26日:廃止







☆伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 魚籃坂下 - 泉岳寺

  • 1913(大正2)年9月13日:古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
  • 1919(大正8)年9月18日:白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
  • 1969(昭和44)年10月26日:廃止





☆五反田線 (4系統) 清正公前 - 白金猿町 - 五反田駅前

  • 1927(昭和2)年8月16日:清正公前 - 白金猿町間開業
  • 1933(昭和8)年11月6日:白金猿町 - 五反田駅前間開業
  • 1967(昭和42)年12月10日:廃止





☆霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木 - 西麻布 - 南青山五丁目

  • 1914年9月1日:(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
  • 1925年6月6日:溜池 - 六本木間開業
  • 1967年12月10日:廃止





☆広尾線 (7系統) 青山一丁目 - 西麻布 - 天現寺橋

    大半が専用軌道
  • 1906(明治39)年3月3日:開業
  • 1969(昭和44)年10月26日:廃止





★都電麻布通過系統・停留所一覧
系統 路線 総延長km 停留所 開業 廃止
4 五反田駅前~銀座七丁目 8.088 五反田駅前-白金猿町-ニ本榎-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋-大門-浜松町1丁目-新橋5丁目-新橋-銀座7丁目-銀座4丁目-銀座2丁目 S8.11 S42.12
5 目黒駅前~永代橋 10.243 目黒駅前-上大崎-白金台町-日吉坂上-清正公-魚籃坂下-古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-芝公園-御成門-田村町4丁目-田村町1丁目-内幸町-日比谷公園-馬場先門-都庁前-鍛冶橋-京橋-桜橋-八丁堀-越前堀-永代橋 S2.3 S42.12
6 渋谷駅前~新橋 6.124 渋谷駅前-青山車庫-青山6丁目-南町-高樹町-霞町-材木町-六本木-今井町-福吉町 -溜池-虎ノ門-南佐久間町-田村町1丁目-新橋 T14.6 S42.12
7 品川駅前~四谷3丁目 8.321 品川駅前-高輪北町-泉岳寺-伊皿子-魚籃坂下-古川橋-四ノ橋-光林寺-天現寺橋- 広尾橋-赤十字病院-霞町-墓地下-南町1丁目-青山1丁目-権田原-信濃町- 左門町-四谷3丁目 T8.9 S44.3
8 中目黒~築地 10.209 中目黒-下通5丁目-恵比寿駅前-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋- 古川橋-三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-飯倉4丁目-飯倉1丁目-神谷町 -巴町-虎ノ門-霞ヶ関-桜田門-日比谷公園-数寄屋橋-銀座4丁目-三原橋-築地 S2.3 S42.12
33 四谷3丁目~浜松町1丁目 5.753 四谷3丁目-左門町-信濃町-権田原-青山1丁目-新坂町-竜土町-六本木-三河台町 -飯倉片町-飯倉1丁目-神谷町-御成門-浜松町1丁目 T13.2 S44.3
34 渋谷駅前~金杉橋 6.372 渋谷駅前-並木橋-中通2丁目-渋谷橋-下通2丁目-天現寺橋-光林寺-四ノ橋-古川橋 -三ノ橋-ニノ橋-一ノ橋-麻布中ノ橋-赤羽橋-芝園橋-金杉橋 T13.5 S44.10



★都電運賃表(昭和37年10月現在)
種類 片道普通券 早朝割引 回数券 通勤定期 通学定期
都電 15円 25円 100円 660円 360円
無軌条 20円 30円 95円 710円 390円

※無軌条とはトロリーバスです。
※早朝割引は往復運賃です。
※回数券は都電7枚・無軌条5枚の料金です。
※定期は1ヶ月の金額です。(通学は中学生以上の料金です。)



<補筆>

天現寺~渋谷間の都電の線路は元は東急玉電が埋設したもので、 1924年(大正13年)5月21日渋谷橋~天現寺橋間に延長開業した玉電天現寺線は、1937年(昭和12年)上期に玉電ビル(現在の東急百貨店東横店西館)工事による渋谷駅高架化工事にともない渋谷橋~天現寺橋間は玉電から分断さた。そして1938年(昭和13年)11月1日天現寺・中目黒線の経営は東京市に委託され、更に1948年(昭和23年) 3月10日からは東京都へと譲渡され正式に都電となった。
また昭和40年代前半には桜田通り(まだTV朝日通りというんでしょうか?)にも東急バスが運行されていた記憶があったが曖昧だったので、櫻田町名主の忠兵衛さんに問い合わせると早速情報の提供があり、 桜新町・等々力~東京駅を結ぶ路線であったことがわかった。忠兵衛さん感謝!また、古い事なのでよくわからないとしながらも、


  • 昭和26年 5月10日 等々力~東京駅(狸穴町経由)運行開始
  • 昭和31年 3月16日 都営バスと相互乗り入れ
  • 昭和40年 3月 1日 経路変更(経路不明)
  • 昭和53年 4月 1日 六本木経由
  • 昭和28年 4月10日 駒沢から東京駅(天現寺経由)
  • 昭和31年10月 1日 桜新町から東京駅(えびす・材木町経由)
  • 昭和42年12月25日 桜新町から東京駅(首都高速3号線経由)
  • 昭和54年11月22日 廃止








「材木町(NETテレビ前)」停留所は昭和43年5月15日に「六本木六丁目」となりました。

という情報を即日提供していただいた「東急バス株式会社」さんにも謝辞を述べさせていただきます。
※(等々力~東京駅は経路を目黒に変えて東急・都営相互運用で現在も運行されています。)



そして昭和32(1957)年には十番通りを通っていた唯一の都営バス70系統(田町駅 - 赤羽橋 - 信濃町駅 - 新宿駅、目黒担当)が運行を開始する。


  • 田70甲
    田町駅東口(港区スポーツセンター) - 一ノ橋 -(←鳥居坂下/飯倉片町→)- 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
  • 田70乙
    田町駅東口(港区スポーツセンター) - 一ノ橋 - 飯倉片町 - 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
  • 田70丙
    田町駅東口(港区スポーツセンター) - 赤羽橋 -(←鳥居坂下/飯倉片町→)- 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口
  • 田70丁
    田町駅東口(港区スポーツセンター) - 赤羽橋 - 飯倉片町 - 六本木 - 青山一丁目駅 - 信濃町駅 - 四谷三丁目 - 新宿駅西口





新宿方面と田町方面で経由が異なっていた。芋洗坂が20時以降の車両通行が禁止されるようになってからは、両方向とも飯倉片町経由となった。 1957年の70系統(田町駅 - 赤羽橋 - 信濃町駅 - 新宿駅、目黒担当)が前身で、1年後には同区間の三ノ橋経由便を新設、赤羽橋経由を甲、三ノ橋経由を乙とする。1970年には両系統とも田町駅 - 田町操車所(現・港区スポーツセンター)を延長開業し、1972年に田70甲・乙と変更した。 1982年12月26日、新宿が加入して共管を開始。1992年の目黒撤退を経て2000年12月12日に廃止。その後、一部に「ちぃばす」が設定された。 PS用ゲームソフト「東京バス案内」で、中ノ橋 → 新宿駅が収録されている。




★都バス・田町駅~新宿駅西口沿革
系統 年月日 経路・事象 総延長
70系統開設 S32. 3. 1 田町駅~赤羽橋~信濃町駅~新宿駅西口 8.472km
70甲 S33. 4.15 田町駅東口発着に延長 9.422km
70乙 S33. 4.15 三ノ橋経由を開設、乙とする。 9.592km
70乙 S54. 7.25 田町操車所(現港区スポーツセンター)発着に延長 9.320/ 9.170km
田70 S54. 7.25 終点停留所を田町駅東口から港区スポーツセンターに変更
田70甲 S56.12.25 新宿駅西口行きが六本木通りをトンネル経由となる 9.810/ 9.170km
田70 H 5. 2. 1 新宿駅行きを飯倉片町経由とし、午後8時以降の芋洗坂交通規制のため
両方向とも飯倉片町経由となる系統を乙・丁とする。従来の乙は丙に
田70 H12.12.12 大江戸線開通に伴い路線を廃止
























2012年11月20日火曜日

相馬の金さん

青山長者ヶ丸に住む御広敷添番戸村福松(百表取り)は、
「相馬の金さん」と呼ばれていました。
これは、先祖が平将門(別名:相馬小次郎)であるため、そして金は幼名といわれるためだそうです。
金さんは、妻子がありながらその生活は滅茶苦茶だったそうで、裃もなく明番で下城する同僚をつかまえて渋るのをむりやりに借りて勤めに出たり、屋敷も荒れ放題で金目のものもほとんどないありさま。

ある日家財の中から最後に残った臼、汚れた刀箱を手にして麻布の質屋を訪れた金さんは、番頭を捕まえて、

「刀箱の中には先祖伝来の宝刀がある。しかしこの宝刀は父の遺言で一度しか見ることができない。そして家督を相続するときにその一度目を見てしまった。そこで中を見ないでこれを10両で預かってほしい」

といいました。すると番頭は、

   「中身もわからないものに10両は貸せない」

と言い、押し問答になったそうです。するとそこに主人が現れて先ほどからの話を聞いて、
やはり預かるわけにはいかないといいます。

 こんな答えは最初から想像していた金さんは少しもひるまずに、

   「家督を継いだもの以外がむりに中を開けると刀が蛇になってしまう。」

と切り返し、質屋に中身を確認させませんでした。
困った主人はそこまでいうなら中を確認しようじゃないかと刀箱を開けると、

   「あっ!」

と、箱を放り出すと、その刀箱の中から黒い蛇が這い出してきたのでした。

それを見た金さんは主人を張り倒し、

「家宝の刀を蛇にしやがって、この落とし前をどうしてくれる」

っと、いきまいて、10両の大金をまんまとせしめたそうです。

しかし悪いことはできないもので、この話が江戸中の評判となって公儀の耳に入り、金さんは隠居を命じられ、世をはばかって静かに暮らしたといいます。
そしてその後、汚名返上のため彰義隊に加わり勇戦しましたが、敗戦後行方不明となったそうです。







青山長者ヶ丸戸村宅



金さんが住んでいた「青山長者ヶ丸」の地名は、渋谷城落城後の渋谷氏が住んでいたともいわれ
長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などに名残を残しています。

 そして、この黄金長者(渋谷氏)の姫と白金長者(柳下氏)の息子「銀王丸」にまつわる「笄橋伝説」などの伝説が残されています。

★黄金白金長者伝説

鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいました。名の由来は幼名を金王丸といったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存します。
渋谷金王八幡神社に
伝わる笄橋伝説の笄

また白金長者は、柳下氏といい元は南朝禁中の雑式を勤めた家系で、南朝没落後の応永年間(1394年~1427年)頃から郷士となって今の白金自然教育園あたりに住み、江戸時代には元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存するそうです。
この二つの長者は、近隣であったため交流があったと思われ、その有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来です。

白金長者の息子「銀王丸」が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾いました。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、お互いに一目で恋に落ちます。そして、二人は度々逢瀬をかさねるようになります。

ある日二人が笄橋のたもとでいつものように逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ姫に襲い掛かりました。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、二人を救いました。

そして、その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだそうです。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となったということです。

  この笄は金王八幡神社の宝物館に現存しています。)


現在は、笄川こうがいがわ (龍川たつかわ)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまいましたが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいます。そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂が「姫下坂ひめおりざか」という名を残しています。 
江戸期の書籍「江戸砂子」の鉤匙橋の項には、 
~又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が娘と愛著の事あり。
童蒙の説也~ 
 とあり、また同書「長者が丸」の項では両長者を、 
百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさななを金王丸こんのうまる と云。
渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者と
もいふと也。応安(1368~1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかす
かなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。

 と記しています。

また、「故郷帰の江戸咄」という書籍では、

それより百人町かかり、長者丸を過て香貝橋に着たり。ここを長者丸云事、香貝橋のいわれを古老の云伝にはむかし此所に渋谷の長者とて長者有けるが、金(こがね)の長者也とて代々おさななを金王丸といへり。是正尊(※土佐坊正尊)が子孫成べし。然るに後光厳院の御代かとよ、其時の長者の子なきにより、氏神八幡宮に祈て女子をもうけたり。此姫十五の春の比、目黒不動に参詣しける所に、白銀村の長者の子をしろかねの長者也とて代々おさな名を銀王丸と申せしが、是も目黒に参詣して御賽前のきざ橋にてかうがひをひろい給う。見ればくりからぶどうのほり物也。是はひとへに明王より給りたる所なりとて秘蔵し、下向の道にて渋谷の長者の娘を見て、恋慕の闇にまよひ、帰りて中だちを頼、千束の文を送りて終に心うちとけければ、忍やかに行かよふ。あこぎが浦のならひあればはやはしはし人も知たるようになる程に、有夜姫をともなひて、館の内を忍出て此橋まで迄来たりぬ。もとは大河にて橋も広長成けるとぞ。渡らんとするとき橋の下より鬼形あらはれ出てさまたげんとす、其時太刀にさしたるかうがいぬけて、くりからぶどうと化、鬼神をのまんとかかる。鬼神も又是にまけじとあらそひけるが、終に鬼神いきほひおとりて、いづちともなくさりうけり。その時またもとのかふがひと成りてここにしづみける故にかうがいはしと云うと也。彼鬼形と見へしは日比渋谷の姫を恋て、色にも出さずして恋死たるものの霊魂なりとかや。彼長者の住ける跡を長者丸と云伝へけると也。かくて追手のもの共来り、二人ともつれ帰りて、渋谷の長者には幸男なければとてむこに取りて銀王を改金王丸とし、銀(しろがね)の長者には子供おほき故に次男を総領に立てけると也。其長者の末孫近き比迄かすかなる百姓にて有ぬるよし今もや有けん

と記して二人の恋の話しと笄橋伝説を伝えています。










江戸期の笄橋













★関連項目

   ・笄橋

   ・笄川

   ・金王八幡神社











2012年11月19日月曜日

呪いの狂歌

むかし、麻布のあるお稲荷さんの宮司さまが朝起きて境内の掃除をしていると、人の目を書き、その目に釘を打ち込んで人を呪った紙 が御神木に張りつけてあるのを見つけました。
神主は悪い考えの人もあるものだと思い、その呪いの紙に、

目を書いて呪いはゞ鼻の穴二つ  耳でなければ聴くこともなし

と書いて貼り付けました。すると翌朝、今度は耳を書き足した呪いの紙が打ち付けてあったそうです。そこでまた、

目を耳にかえすがえすも打つ釘は つんぼうほども なを きかぬなり

と筆太に書いて貼り付けておきました。すると二、三日後に今度はわら人形が五寸釘で御神木に打ち付けてありました。そこで神主は再び、

稲荷山きかぬ祈りに打つ釘は 糠にゆかりのわらの人形

と書いて貼り付けたので、呪いの紙を書いた者もさすがに根負けして、以降は何もなかったといいます。

 この話は麻布のある稲荷としていますが、もしかしたら「一本松」や末広稲荷のことかもしれません。
ちなみに、一本松も別名「呪いの松」とも呼ばれていて、江戸初期までは氷川神社のご神木
だったそうです。


◆201509追記

この話は「耳袋」に「狂歌滑稽のこと」として語られている話ですが、ここで「のあるお稲荷さんの宮司」としている人物は、「狂名もとの木阿彌と名乘て狂歌を詠る賤民」として「もとの木阿彌」という人物であることが記されています。
この、もとの木阿彌は通称:大野屋喜三郎(本名:渡辺正雄)という名を持ち、京橋で風呂屋を営んでいた人物で、同時期に活躍した四方赤良(よものあから)の狂名を持つ大田南畝(蜀山人)とも親交があり、天明年間(1772~1789年)の狂歌の大家でした。

江戸期麻布氷川神社の元地(暗闇坂と狸坂をはさむ全域)時代に境内にあったと思われる「一本松」の事とするのは、麻布氷川神社が現在の社地に移転した萬治二(1659)年より100年以上も後のことで、この話のご神木とするのは時代的に無理があると思われます。

そこで、当時麻布内の最も有名であった稲荷社を探してみると、十番稲荷神社の前身である「末広稲荷」が思い当たります。

社の由緒書には、

慶長年間(1596~1615年)に創建され、元禄四(1691)年には坂下東方雑式に鎮座していたが、同六年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、 坂下町41の社域に遷座さた。往古より境内に多数の柳があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂し、扇の形を成していたことから 「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠され末広稲荷と称された。その後、明治二十(1887)年4月に末広神社と改称された。

とあり、ご神木が柳の木ならば、この末広神社であった可能性もありそうです。

また、伊勢屋稲荷に犬の....といわれるほど江戸には多くの御稲荷さんがありましたが、麻布域においても多数の稲荷社が存在し、昭和初期から戦争前までは港七福神巡りの前身となる「麻布稲荷七福神巡り」が流行り、麻布稲荷七福神巡り専用の乗車券などが販売されていたそうです。







戦前の麻布稲荷七福神巡拝券(表)










戦前の麻布稲荷七福神巡拝券(裏)






















★関連項目
一本松 
麻布氷川神社 
十番稲荷神社 
耳袋
十番稲荷神社(末広稲荷神社)
港七福神(麻布稲荷七福神巡り )
 











より大きな地図で 初詣・港七福神・麻布稲荷七福神マップ を表示
















2012年11月18日日曜日

亥之吉の災難

明治の世になっても江戸の辺境であった麻布には、多くの不思議話が残されていますが、
今回は、1879(明治12)年4月25日付の東京曙新聞に掲載された麻布で起こった不思議な事件をご紹介します。

掲載される2~3日前の雨の夜遅く、麻布飯倉町30番地にある人力車の車夫を生業とする亥之吉の家の門を叩く者がありました。
その者は門をたたきながら狸穴まで大急ぎでお願いしたいと女性の声でいったそうです。
しかし亥之吉は雨が降っているし、夜も遅いのでもうお終いにしましたと伝えたが、

「車代は幾らでもお望み通り払うから、行って欲しい」

と、いわれ欲が出た亥之吉が雨戸を開けて客を確かめてみると17、8歳くらいの美人でした。
そこで亥之吉は、大急ぎで仕度を整えその女性を乗せ、これはきっと色恋沙汰で男の跡でも追いかけていくのだろうと考えながら狸穴坂の下まで行くと、

「この辺で結構です」

と言われたので車にかけてあった雨覆いを上げてみると、どうしたことか人力車は空っぽで、
びっくりした亥之吉は腰を抜かしてしまいました。

そしてしばらくすると狐狸の仕業と気がついて、仕方なしに家に戻ろうと車を引き始めましたが、不思議な事に同じ場所を何度も廻ってさまよってしまったそうです。そして夜が白々と明けてきてようやく薄明かりで家にたどり着いた亥之吉でしたが、その日は気が抜けたようになり商売に出る事が出来なかったといいます。

新聞は、

「全く物の怪に魅せられたのかまたは寝ぼけて惑乱したのか、怪しいことだが嘘ではない。」

と結んでいます。




飯倉町は江戸期から一~六の「丁目」と飯倉片町・飯倉狸穴町・飯倉永坂町・飯倉新町・飯倉的場屋敷・飯倉町続芝永井町代地・飯倉町続芝永井町上納地代地などを持つ大きな町名でしたが、この新聞にはその何丁目かの記載が欠落しています。よって、亥之吉の住居「飯倉町30番地」を特定することは難しいのですが、いづれにせよ飯倉町から狸穴坂下までの、ごく短い距離をこの「幽霊さん」は乗車したものと思われます。













麻布飯倉町明治・現在、今昔










飯倉町-東京35区地名辞典
「飯倉」は、麻布区中央部の広域地名。戦国期から見える古い地名である。
由来には諸説あり、伊勢神宮への貢米御厨を置いた跡に因むとする説、
文武天皇(在位697-707)の頃、貧民救済のための義倉(ぎそう)を置いた
とする説、飯倉山(芝丸山古墳)が飯を器に盛った形で、飯座(イイグラ)
といったことに因むとする説等、定かではない。中世の頃、この地は伊勢神宮の
神領に属し、御厨や義倉が置かれたことに疑いはなさそうだが、そのことと
地名発生とのつながりには確証がなく、穀倉の置かれる前から飯倉の地名が
あったともいわれる。芝の海沿いに街道が整備される以前、この地は往還(奥州道)
沿いの町並として発展し、飯倉町一~六丁目が成立した。















2012年11月17日土曜日

貧女の純真

江戸の頃、麻布久保町に貧しい大工が住んでいました。しかし下請け仕事すらありつけず、このところ収入が途絶えてしまったそうです。そしてついに米を買うお金もなくなり、亭主は仕方なく女房に大工の棟梁の所へ金策に行かせました。

さっそく女房が棟梁を訪ねると、棟梁も同様に最近仕事が廻ってこなかったので懐具合が悪いようです。しかし手下の大工の女房を素手で返すのも気が引けて、箪笥から縞ちりめんの着物を出して、「これを質屋に持って行って金を借りろ」と持たせましたた。

女房は感謝しながら帰宅し、亭主に相談してから質屋に持ち込みました。すると質屋は金3分(1両の3/4)を貸してくれたので、夫婦はその金で当座の生活をしのぐ事が出来たそうです。しかし、その頃から心労のためか女房が体調を崩して寝込んでしまい、薬代まで工面しなければならなくなり、貧しさが以前にも増してひどくなってしまいました。病床の女房は何度も、棟梁から借りた着物を気にかけて亭主にいいました。「お前さん、いつになったらあの着物が質屋から請け出せるかねえ」しかし、あても無い亭主は、
「心配するな。そのうちどうにかなるさ。それよりお前は養生しなけりゃいけないよ」、と言って女房を慰めるしかなかったそうです。しかし、そんな風にお互い労わり合って数日すると、女房は息を引き取ってしまいました。その後、亭主は形ばかりの葬式をすませると、悲しみに暮れていたそうです。

そしてある夜更け、

「着物を請け出しに来ました」

と質屋の戸をたたく者があったそうです。しかし奉公人も寝てしまい応対できないので、

「今夜はもう遅いから、明日に願います」

と返事すると、そのまま帰ってしまったそうです。しかし次の晩もやってきてまた同じ事が繰り返されました。そしてまた次の晩も.......。

その声から大工の女房だと気が着いた質屋の番頭は、たまりかねて裏長屋の大工を訪ね、

「あんたのおかみさんには悪いことをしたが、何であんな夜更けに来てくれるんですかね?」

と亭主の大工に言いました。すると亭主は、

「毎晩って、いつのことですか?」

とたずね、番頭が昨日で3日続きだと答えると、亭主はからかわれてると思って、

「じょうだんじゃネエ!女房はこういう姿になっちまったんだ」

と女房の位牌を番頭に見せました。すると番頭はあわてて帰り、店の主人に始終を報告した。すると主人は顔を曇らせて考え込み思案の結果、今度女房が着物を取りに着たら、返すよう番頭に命じました。

その晩、夜も更けて番頭が耳をそばだてていると、やがてあの女房の声で、

「もしもし、戸をお開け下さい。着物を請けだしに参りました。」

今までは知らなかったから平気で応対していた番頭でしたが、この世の者でないことがわかった今は、恐ろしくて仕方なかったそうです。しかし、主人の言い付けなので恐る恐る戸を少し開け、着物を差し出すと嬉しそうな声で、

「ありがとうございます。これはお代です」

と小さな包みを置いて立ち去りました。
そして、番頭は恐ろしさのあまり、寝所に戻ってそのまま布団をかぶって寝てしまいました。


翌朝主人と共にその包みを改めてみると中身は金ではなく、今坂餅という卵型の餅が五切れ入っていました。早速この事を大工に知らせると大工も今朝寺から使いのものが来て、女房の墓に着物がかけてあるというので、行ってみるとあの「縞ちりめん」だったと話しました。その後質屋はこの着物を諦める事にし、大工の棟梁は着物を掛番に仕立て直して寺に寄進して女房の霊を慰めたといいます。


桜田久保町寄進の狛犬
麻布櫻田神社
この話は九州平戸の大名、松浦静山が当時見聞した事を書いた「甲子夜話」の3編にあります。
しかしこの話、一歩間違えば「夫婦詐欺」みたいな気がするんですが............。


















   麻布久保町という町名は存在しませんが、現在も櫻田神社の氏子町会
    である芝桜田久保町(現在の港区西新橋1丁目あたり)のことであること
     から「麻布」となっているものと思われます。





JRAビルに展示された櫻田神社御輿(港区西新橋1丁目1-19)



 











◆関連項目-櫻田神社
       http://deepazabu.blogspot.jp/2013/04/blog-post_13.html


























2012年11月16日金曜日

小豆ばかり屋敷

延享の末(1747年ころ)九代将軍家重の頃、麻布に「小豆ばかり屋敷」と言われた屋敷があったといいます。

屋敷の主人は大番に勤める武士で二百俵であり、文武両道に優れ胆力の据わった人物だったそうです。
その屋敷では、静かな夜更けなどに天井でさらさらと小豆を撒くような音がして、それから色々と不思議な事があるので、何時とは無しに巷で評判になったといいます。
この評判を聞きつけた友人が主人に事実をただすと、

物音一つしないような静かな晩には、異変が起こるので一度試しに来ては?

というので、好奇心の旺盛な友人は、早速麻布の屋敷にきて化け物の出る部屋に主人と枕を並べて寝たそうです。

夏の事で、蚊帳を釣り縁側の雨戸も開け放ち、布団の中で息を殺していると真夜中を過ぎた頃天井がみしりみしりと鳴り出しました。友人はこの事かと起きあがろうとしたが、音がすると止めてしまうから布団に入っていろと主人に言われ、再び息を殺していました。
すると今度はたくさんの小豆(あずき)をばら撒くような大きな音がして、そのまま、また静寂が戻ったそうです。しばらくすると今度は庭の方からことん、ことんと下駄履きで、飛び石伝いに音が近づいて来ます。やがて、すぐそばまで音が来たが何も見えません。すると今度はジャ-ジャ-と手水鉢を使う音がして、夜目を凝らしてみて見ると誰もいないのに、ひとりでに水がこぼれています。
そしてしばらくすると、それも止んで、またもとの静寂が戻ったそうです。
主人はこれで終わりだといって笑っていましたが、友人はあまりの不思議さに布団の中で身震いが止まらなかったといいます。

この主人は妻を持たず、妾を外に囲って3人の子供があったそうですが、決して屋敷には住ませなかったといいます。また 小豆ばかり屋敷の主人が通り合わせると、麻布界隈の人々は後ろ指を指して、化け物の正体は狐狸の類であるとか、あの家の先祖の亡霊だとか噂をし合ったそうです。

しかし本当の事は、誰にもわからなかったといいます。

2012年11月15日木曜日

無縁をかこつ夫婦

文化の頃(1804~17年)、麻布のある寺で、幽霊が夜な夜な物語りをしている声が聞こえるといい評判になりました。

  胆のすわった一人の商人がそれを聞き、月のほの暗い晩に宵の内がら出かけて行って大きな墓所のかげに忍んでいたそうです。 夜もふけて九つ(午前12時頃)を過ぎると、虫の声も大きくなって、月も時々顔を覗かせてはまた雲間に隠れます。 そして、夜風も身にしみてきて、いくらか湿ってきたような気がしました。
すると、芝垣の方から人が立ち上がる気配がすると、 また一人が続いて現れて、大そう睦まじそうに語りあっているのがみえました。

商人が耳をすまして聞くと、どうやらしばらく逢えなかった のを慰め逢っているように聞こえます。
月が明るくなって来たのを幸いに、商人はのび上がって見ると、一人は24~25歳の痩せた男で、もう一人は60がらみの老女で、歳 の違いから考えると親子でしょうが、話の内容から察するとどうしても夫婦のようにみえました。不思議に思っている内に、風が強くなって きた為か、二人の姿は消えてしまいました。

あくる日寺へ行き、昨夜の様子を住職に話して昨夜二人がいたあたりに行ってみると、そこには二人の名を記した墓がありました。 住職に尋ねると、墓は無縁になっているようでした。
墓の主は、男が28歳でこの世を去り、女は女房で、こちらは生き延びて2~3年前に60歳で亡くなっていました。不釣合いに感じた歳の差 は、二人が現世にあった最後の歳のためであると判ったそうです。

そして夫婦は無縁では浮かぶことが出来ないので、それを訴えに幽霊となって 出てきたのであろうと、住職が語ったといわれます。

2012年11月14日水曜日

杉田屋敷のお稲荷さん

宮村町路地奥の
お稲荷さん
「伊勢屋、稲荷に犬の糞」などと言われるほど江戸の街にはお稲荷さんが多かった。これは赤いのぼりや鳥居が派手で、景気がよさそうだったので江戸っ子の気性にあったためともいわれていまする。そして、私が子供の頃の宮村町にも路地の奥にいくつものお稲荷さんがあったのを覚えています。(画像は宮村町本光寺脇路地にあったお稲荷さん。)


寛政の初め頃、麻布笄橋の杉田五郎三郎という大御番の屋敷にある稲荷が、霊験あらたかで願い事が良くかなうと言う事で江戸の評判になり、参詣者が絶えなかったそうです。
最初は近所の老婆がお参りをして願い事がかなった程度の事でしたが、寛政8年(1796年)の秋に大身の奥方が、供を6~7人連れて豪華な籠に乗り杉田家に来て、霊夢を見たので是非その老婆に祈祷をしてもらいたいと願い出ました。これを聞いた杉田家では老婆の祈祷などとんでもないと断りましたが、「霊夢ですから」と哀願されやむを得ず、稲荷を拝ませ老婆を呼んできて腹などをさすらせたそうです。その日はそれで終わりましたが、後日その奥方が再びやって来て、あの日から病が目に見えて良くなりついに全快したので、お礼参りがしたいとたくさんの奉納品を置いて拝んでいったそうです。この話しがいつのまにか江戸中の人々に伝わり、稲荷は一躍有名になっておびただしい参詣者が訪れるようになったといいます。

御小姓組与頭、河野鉄太郎の三男なども痔の病で永年苦しんでいましたが、この稲荷にお参りして全治したといい、ついにこの稲荷の世話人となりました。当初、参拝した後、望みの者に洗米を分ける程度だった稲荷も翌、寛政9年にはあまりの参詣者の多さに、番号順に老婆に祈祷させ洗米を渡すようになり、おかげで老婆は多忙を極め、ついには日を決めて祈祷の受け付けをする事とし、それでも老婆だけでは手が廻らないので、二百人の限定としました。
しかし遠方から来たものはなかなか順番が廻ってこないので、ある日これが元で大喧嘩が起きてしまったそうです。これによりお上からの後難と外聞をはばかった杉田家では、早速無縁の者の参拝を禁止してしまい、以降この稲荷に参拝する者もなくなり、やがて元の静かな稲荷に戻ったといいます。



江戸末期の笄橋辺
 
江戸時代、武家屋敷内の寺社(邸内社)には赤羽橋の水天宮、芝の金毘羅宮、宮村町のがま池のがま信仰などの様に、多分にお札、祈祷などの副収入を見込んだサイドビジネス的なニュアンスが漂うのが常であったのですが、この杉田家はきっぱりとそれを断ち切っているのがかえって清々しいですね。


















より大きな地図で 麻布近辺の源氏伝説 を表示









2012年11月13日火曜日

一夜の宝箱

今回は梅翁随筆という書物からのおはなしです。

江戸寛政の頃、麻布に遠藤内記という神道を修めて腕は確かだがちょっと欲の深い祈祷師がいました。
ある日祈祷を頼まれた内記がその家に行くとたいそう大きなお屋敷であったそうです。
欲の深い内記は家を一目見るとその大きさから、祈祷料もたくさん貰えそうだと胸中ほくそえみました。そして、その家に入ると狂乱した者がおり、その者を祈祷で快癒させる事を家人から命じられました。

早速腕に覚えのある内記が数日間奥の一間に籠って祈祷すると、その狂乱者を正気に戻すことが出来ました。この結果を大変に喜んだ家の主人は内記に、

「これはわずかでございますが」

と一つの箱を差し出しました。そして、

「小さいとはいえ、どうぞ大切にお扱いください。これさえあれば長寿も富貴もお望みしだいです。しかし、どんなことがあっても決して箱の蓋をあけてはいけません。」

といいました。内記は半信半疑ながらその箱を貰いうけて早々に帰宅してみると、大勢の人が寄り集まり、財宝が所せましと積み上げられていたそうです。

「これはいかが致した?」

と問う内記に、妻は、

「思いがけない方たちが謝礼として金銀、巻物などを山のように置いてゆきました。後からまだまだ届くようですが、何か心当たりがおありですか?」

と言い、内記はさては先ほどの箱のご利益と思い、

「これからは毎日がこうなるので、そのつもりで」

とニコニコしながら妻に言いました。その後もひっきりなしに財宝は届けられましたが、日も暮れてきたので、残りはまた明日と財宝を届けに来た使いの者たちを返しました。その夜、もらった宝物の山と同じ部屋で床についた内記は明日からのことを思いながら眠りに落ちました......。

翌日目がさめると、昨日のことを思い出して目の前に積んである財宝を見た内記は、わが目を疑いました。なんと部屋はガラクタの山でいっぱいでした。鉄くず、板切れ、古瓦、あげくに馬糞までうずたかく積み上げられ、夢も欲望も一夜限りとなってしまった内記は、ただ呆然とするだけであったといいます。そしておはなしは、「あの家の主人はいったい何者であったのだろうか、知る由もない。」と結んでいます。








2012年11月12日月曜日

だまって居よ屋敷

江戸天明期、10代将軍家治が世を治めていた頃の話で麻布に「だまって居よ屋敷」というものがあって評判になったといわれます。

四谷通りの小鳥屋で手広く商いをしていた喜右衛門という者が、通りががりの武家に「うずら」の注文を受けました。その武家は今生憎 持ち合わせが少ないから屋敷で払いたいというので、喜右衛門はうずらを届に麻布にあるという武家の屋敷まで付いて行く事になりました。

屋敷に着いてみるとひどく朽ち果てた屋敷で、中に通され八畳間で煙草を吸いながら待って部屋の様子を見まわしてみると敷居鴨居などは所々曲がり、畳は茶色く変色していてジメジメし、ふすま、唐紙なども穴だらけだったそうです。

屋敷の様子から相当に困窮している武家だなどと思いながら待っていると、やがて日も傾き部屋が薄暗くなってきました。そして、「カサカサ、カサカサ」と音がするのでふと気がつくと、何時の間に入ってきたのか十ばかりの身なりも卑しげな男の子がいました。

この子供が床の間にかけてあった掛軸を巻き上げては、途中でパラリと下に落とし、また巻き上げるということを繰り返していました。最初、喜右衛門もどうせ安物の掛軸だろうと放っておいたのですが、あまりしつこく繰り返すので「ぼうや、そんなことをしてはいけません!」と叱りつけたそうです

ところがその男の子は怯むどころか、「黙って居よ!」と大人のような声を出し、おもむろに顔をこちらに向けた。喜右衛門はその顔を見ると驚愕してしまいました。何と、青白い顔で目も鼻も口もない「のっぺらぼう」であったそうです。
その瞬間に喜右衛門は「わあっ!」と声を出したきり気絶してしまいました。

どのくらい時間が経ったものか、屋敷の者が気絶している喜右衛門を見つけ大騒ぎになり看病してその後駕籠で店まで送り届ける など親切を尽くしたそうだが、屋敷の者が言うには、この屋敷には一年に4~5回のっぺらぼうが現れるといいます。またある時は、この屋敷で殿様の奥方が一人で居ると、いつのまにか十ばかりの子供が部屋に置いてあった菓子を食べていました。奥方が「何者です!」と声をあげると例によって「黙って居よ!」と言いながら振り向き、何もついていないのっぺりした顔を見せ、そのまま姿を消したといいます。 そしてある時は、目が一つだけついている「一つ目小僧」であったといいます。

この屋敷は麻布とあるだけで場所がはっきりしませんが、80歳で死んだ元豊後藩士の太田逍遥翁が語った「実話」であるといいます。











2012年11月11日日曜日

消えてなくなった男

今回は「半日閑話」からの不思議な話をご紹介します。

北条坂下部の鉄砲坂
江戸時代、麻布の井上志摩守(幕府鉄砲方井上左太夫?)の家来に、長く仲間(ちゅうげん)奉公をしている男がありました。

いつもよく働く男なので主人も目をかけていましたが、その男が突然「暇を頂きたい」と申し出たので、主人はどこへ行くのかと訊ねると、男は「日本橋にいきます」と言ったのみで詳しいことを語りませんでした。

怪しんだ主人は男が奉公を終えた日、そっと他の仲間に後を尾行させました。そして、しばらくすると戻った仲間は、日本橋の橋の上まで尾行しましたが、男は橋の上で急にいなくなってしまったといいます。そして、それっきり男はどこにも姿を現さなかったそうです。主人は不思議なこともあるものだと思ったが、そのうちに忘れてしまいました.......。

それから三年目のある日、橋の上から掻き消えた男から主人宛に手紙が届いきました。
それによると、

「つつがなく暮らしているので安心してください。しかし帰ることは出来ません。」

、と書いてありました。

この話を聞いた人々、は男が天狗隠しにでもあったのだろうと噂しました。
---これは文化四、五年頃(1807、8年)にあった話だとあります。

この鉄砲方は鉄砲御用人、鉄砲御側衆ともいわれ鉄砲の研究、整備および修理を行った幕府の役職で、井上家は当所四家(※後二家)であったうちの一家で代々の世襲とされました。配下には鉄砲方与力、鉄砲方同心、鉄砲磨同心などがありました。
またこの井上家は三代将軍家光の頃、麻布でオランダ人による臼砲の試射があった際、家光の名代で前老中の堀田加賀守正盛、老中阿部對馬守重次・牧野内匠守信成、目付兼松彌五衛門正直、幕閣らとともに当時の井上家の当主・外記正継も観戦していました。

この井上家の屋敷、配下の与力同心屋敷、鉄砲の練習場があったためこの井上家北側に隣接する北条坂下部の坂は「鉄砲坂」と呼ばれる事となります。



 ※鉄砲坂

笄町と広尾町の境を西へ下る坂。北条坂の下方にあたり、北条坂の一部という見方もある。江戸時代、坂下南側は井上左太夫を組頭とする鉄砲組(御先手組)の屋敷があり、鉄砲の練習場などがあったことに因む坂名。(東京35区地名辞典)








井上家屋敷





現在




   ★関連項目

     麻布の石火矢試射

     Wikipedia-鉄砲方