2012年11月23日金曜日

ラグーサお玉

市谷山長玄寺
明治9年日本政府の依頼で来日したベンチェンッツオ・ラグ-サは、いわゆる「おやとい」として三田四国町の工部美術学校で教師を勤め、日本美術界に貢献しました。


その教師時代にモデルとして頼まれたのが19才の清原玉でした。実家は芝新堀で園芸を営み、芝増上寺の差配をしていたので多くの地所を所有していました。やがて2人に愛が芽生え両親の許しを得たのち明治15年、お玉22才の年にラグ-サの故郷イタリア、シシリ-島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ-サと改名しました。シシリ-での生活を始めた玉は、自らも筆を執り子供の頃から画才に恵まれていたため、やがて南欧と日本の美を融合した独自の画風で知られるようになったそうです。そして夫の高等美術学校の副校長としてラグ-サを助け、また彼も生涯玉を愛し続けました。
しかしお玉68才の時夫ラグ-サは玉の手を握りつつ永眠し、その6年後お玉は52年ぶりに日本へ帰国しました。昭和8年10月26日諏訪丸が横は横浜港に接岸すると、親族とともにパレルモで知り合って27年ぶりの再会になるマリヤデンチチ夫人も出迎えました。帰国後日本美術界に貢献したお玉も昭和14年4月6日午前2時17分、79才で永眠し麻布宮村町の長玄寺(港区元麻布3-5-16)に埋葬されました。


有栖川熾仁親王騎馬銅像
有栖川公園の南部坂上広場にある「有栖川熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張 のため有栖川公園広場に台座ごと移されました。
この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置されました。 この像を製作したのは、ラグ-サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ-サに師事し、ロ-マ美術学校を1888年に卒業し、 日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」などを作成した彫刻家の大熊氏広です。また大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち 有栖川親王邸の新築工事の設計に加わります。この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持ったといわれています。






☆長玄寺・ラグーサ・お玉碑文(十番未知案内サイトより転載)




ラグーサ玉女史

長玄寺境内のお玉碑
文久元年 江戸芝新堀の清原家に生まれ幼より画を好む偶々伊太利彫塑家ヴィンチェンツォ・ラグーサに洋画を学び 明治15年その郷里パレルモに伴わる後 同市新設の高等美術工芸学校副校長に任ぜられ ラグーサ校長を補佐す 明治22年結婚 エレオノラ・ラグーサと名乗る画名欧米に洽し昭和3年夫君逝く昭和8年半世紀余の滞伊生活に別離し居所昔ながらの清原家に還る女史非凡の画才は南欧の絢爛優婉なる色調と日本人特有の構図の妙と典雅の筆致を併せ東西融合の独自の境を開く 昭和14年4月5日突如昏睡 翌6日早晨79歳を以て逝く時に枕頭の水彩顔料未だ水を含みて残る 嗚呼女史は絵画の化身なりき    昭和14年11月建 玉光会 」 堀 通名 菊地鑄太郎 佐野 昭 金澤正次 松岡 壽 渡邊 直達 畑 正吉 岩崎雅通














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