2012年12月8日土曜日

ドゥリットル隊の南山上空通過

Blog化にあたって、本日が太平洋戦争の開戦日となることからこの項を選びました。

先日、長い間捜し求めていた本を通りすがりの本屋で発見することが出来ました。本のタイトルは「六男二組の太平洋戦争」です。 
著者は危機管理問題などでよくテレビで拝見する佐々淳行氏です。本の内容は氏が南山国民学校(南山小学校)に通っていた昭和10年代の南山小学校やその周囲の様子と、氏が敬愛している担任教師伊藤信雄先生などが詳細に描かれています。 
その本を読んでゆく中で気になったのが、「東京初空襲」の記述です。要約すると、氏が6年生になったばかりの昭和17年(1942年)4月18日の昼頃、「机の下に退避!」という先生の号令で防空頭巾をかぶって生徒たちは机の下にもぐりこみました。生徒達にとっても初めての空襲でしたが、緊張していたのは最初の数分だけで、あとは机の下で子供らしい無邪気な興奮を味わっていた様でした。 
その中で鶴岡という少年は、 
B25は学校の真上を飛んでいったぞ。おれはこの目で見たぞ」 
という記述があり何と、東京を初空襲したドゥリットル隊は南山小学校の上空を通過していたということが書かれていました。

開戦から4ヵ月後の昭和17年(1942年)4月18日午前7時20分、東京から1,200キロの海上にいる最新鋭の空母ホ-ネットから発進したドゥリットル陸軍中佐の率いるB-25(ミッチェル)10機が東京、2機が横浜、1機が横須賀、2機が名古屋、1機が神戸を攻撃し日本本土を初空襲しました。

この作戦は、開戦以来、破竹の進撃を続ける日本への報復作戦を軍首脳に強く唱えていたル-ズベルト大統領の意向を受けたアメリカ海軍キング作戦部長により立案されました。これは、日頃から大統領の意向を聞いていたキング作戦部長の幕僚フランシス・S・ロ-大佐が、新鋭空母「ホ-ネット」を視察した帰りの飛行機の窓から見た陸軍爆撃機の空母攻撃訓練がヒントとなり、航続距離の長い陸軍双発爆撃機を空母に積んで日本本土を空襲するという大胆な発想の作戦をひらめかせた結果でした。 
そして承認を受けた作戦は早速準備が進められ、爆撃隊の指揮官にはア-ノルド陸軍大将と懇意であり予備役から最近現役少佐に復帰し、過去にさまざまな航空賞の受賞経験もあり航空工学者でもある空のスタントマン ジェ-ムス・H・ドゥリットルが決定されました。(ドゥリットルはア-ノルドの幕僚として作戦に参加しましたが、本人の強い希望で攻撃隊にも参加することとなりました。) 
即座に訓練は開始され、また使用するB-25もできるだけ燃料を多く積めるように改装されました。 1942年4月2日サンフランシスコを16ノットの速度で出航した18任務部隊「新造空母ホーネット(CV-8 艦長:マーク・A・ミッチャ-大佐)・軽巡洋艦ナッシュビル・重巡洋艦ヴィンセンス・駆逐艦グイン、グレイソン、メレデス、モンセン・給油艦シマロン」は、出航まで機密事項として作戦目標が日本であることを知らされていませんでしたが、出航直後に全乗員にその目的が通達されました。この時に艦内各所では大きな歓声が上がり、士気は最高潮となったそうです。

4月14日ミッドウウェ-と西アリュ-シャン諸島の中間(北緯38度、東経180度)でハワイから出撃した16任務部隊「旗艦・空母エンタープライズ(CV-6 16任務部隊指揮官ウィリアム・F・ハルゼー乗艦)・重巡洋艦ノーザンプトン、ソルトレイクシティ・駆逐艦ヴァルチ、ベンヘン、ファニング、エレット・給油艦サビン」と合流しました。二隻の空母のうちホーネットにはドゥリットル隊のB-25十六機全機が積み込まれ、Big"E"ことエンタープライズには援護の戦闘機と攻撃機が積み込まれていました。 
合流した二つの任務部隊は、さらに東に進み東京から1,200キロとなった4月18日早朝、日本の哨戒艇に発見され、さらに機動部隊発見を無線で通報されたことが確認されてしまいます。このためただちに爆撃隊に発進の命令が下ることとなりました。 
本来爆撃隊は、犬吠埼から 741キロの地点で発艦し夜間空襲の予定でしたが、これで昼間空襲に作戦変更せざるを得なくなります。しかし、あらかじめ想定されていた事態の一つであったので、乗員たちに動揺は起きず、全機発艦に成功した(本物の空母からの発艦は全員が初めてでしたが。)。しかし、複数の哨戒艇による無線によりアメリカ機動部隊の本土接近を知った日本海軍側は、その距離から空襲は翌日の19日と思い込み、迎撃のチャンスを自ら潰してしまいました。 そして房総半島から日本本土へと進入した爆撃隊はそれぞれの目標へと向かう事になります。

東京爆撃隊は、午後0時10分爆撃を開始し、日本本土初空襲が決行されました。しかし、東京では早朝から大規模な防空訓練が行われていたため現実の空襲だと気づかない人が多かったそうです。また、空襲警報が出されたのも0時25分となり日本側の混乱がうかがえます。そして爆撃隊の各機は迎撃機、高射砲などによる迎撃を受けましたが、損害は皆無であったそうです。この爆撃隊を目撃した者は南山の鶴岡少年以外にも数多くいたと思われ、 作家の吉村昭氏は、 
「オレンジ色のマフラーをした繰縦士の顔がはっきり見えた。」 
とその著書で言い、また「高射砲を撃つが、落ちてくるのは砲弾の殻だけ」、「陸軍の固定脚の九七式戦闘機が機関銃を撃ちながら追いかけていくが、撃墜できなかった。」などの証言もあります。 
そして昭和17年4月19日付け読売新聞には東京上空を低空で飛行するB-25が掲載されています。その写真を見ると、なるほどかなり低空を飛んでおり、吉村氏の証言もうなずけます(爆撃隊はレ-ダ-を避けるために70~300mで飛行していたそうです)。 
また爆撃隊は東京に侵入する手前(千葉・茨城県境付近)で東条英機が乗った日本の軍用機(MC-20)とすれちがっていました。これは、1番機のドゥリットル中佐機であった可能性があり、ドゥリットルは回想で、 
「我が戦隊の方にやってくる双発の陸上機に出会った。」 
とあります。 
その後、東京に侵入した爆撃隊は荒川区、北区、新宿区を空襲して 死傷者者50人、家屋損害262戸(他説もあり)などの被害をだした後、中国に向けて離脱しました。しかし発艦地点が予定より大幅に遠かったため予定された中国玉山へ着陸した機は1機もなく、B-25は燃料切れ、不時着などですべて破壊されてしまいました。そして16機の搭乗員80名のうち、落下傘降下中死亡1名、海上不時着後溺死2名、重症3名、日本軍捕虜8名となり、当時の航空作戦の「許容損害1割」を超えています。 
しかし爆撃成功の報を受けたル-ズベルト大統領は大喜びしたと言い、記者発表時に爆撃機の発進地を記者から聞かれた大統領は、 
シャングリラ」 
と答えています。 
爆撃後のドゥリットルは中国に落下傘降下し中国軍の力を借りて重慶に到着しました。そして4月26日付けで大佐を飛び越えて准将に昇進、昆明で旧友のシェンノ-トと再会、共に准将に昇進した事を祝いました。そしてホ-ネットを発進して1ヶ月の1942年5月18日、ワシントンに凱旋した後に、ヨ-ロッパ戦線で指令として活躍することとなります。

今回は南山上空を飛んだのが、どの機体だったのかを確定する資料は残念ながら見つかりませんでしたが、少なくとも麻布の爆撃は免れた事が確認できました。そして、麻布が本格的な空襲に襲われるのは約2年半後の昭和19年(1944年)11月となります。







●2010.07.25 追記-幻のドーリットル隊麻布通過

   
米軍作成#40-2283機 の飛行経路図
米軍作成の#40-2283飛行経路図

上記文章を書いたのは今からちょうど10年前の平成12(2000)年3/14でした。しかし、その後新たな資料が出版され、上記文章を覆す新しい事実が判明したので訂正・追記とさせて頂きます。

2003/10に出版された 「ドーリットル 空襲秘録」 (柴田 武彦、原 勝洋 共著) にはこの奇襲作戦(実際には日本側の哨戒艇に発見され強襲であったが)における日米両軍の資料や証言が記載されており、米軍資料として爆撃機ごとの全乗員の写真、発艦の様子と共に全爆撃機の飛行経路、爆撃目標が記載され、また日本側資料としては、哨戒艇の位置関係、実際の爆撃地点、直後の被害状況写真などが掲載されており非常に貴重な資料となっています。 
この爆撃機の飛行経路を参照すると、不思議なことに麻布を通過した機体は見あたりません。前回記述した際にこの麻布通過を記した資料が複数存在(済生会中央病院で芝浦方面から西への通過の目撃談は東京大空襲・戦災誌編集委員会「東京大空襲・戦災誌」に、南山小学校上空通過は佐々淳行著「六男二組の太平洋戦争」に記載されていますが)したのでそれを事実として掲載したのですが、どうやら誤認であった可能性が高いようです。 
これについて「ドーリットル 空襲秘録」は、
~なお、9番機(#40-2303)が大井を爆撃したのとほぼ同時刻である午後一時頃に、芝浦上空から渋谷方面へ飛来した一機の敵機が記録されている。この敵機に対して近衛歩兵三連隊補充隊 (隊長:永澤正美大佐)では六本木警察署の屋上に設けた対空機関銃陣地(口径7.7ミリの九二式重機関銃に高射用の照準器と架台を付けただけのもの)の射程距離内に入ったことから、六二発を発射しているが効果は無く終わっている。しかしながら、この飛行経路と一致する米軍機は無いことから、これは味方機に対する誤射であったと思われる。

      
#40-2283機の予想飛行経路

と記述しており、六本木警察署屋上で迎撃射撃された(経路から芝浦ふ頭、済生会中央病院、南山小学校で目撃されたものと同一と思われる)敵機は友軍機の誤認であった可能性が高いとしています。 しかし、「六男二組の太平洋戦争」文中の証言も小学生とはいえ「軍用機オタク」であったことからその信憑性も信じるにたるものと思われ、また、ネット上の書き込みにも芝浦ふ頭から超低空で内陸に向かう爆撃機の 目撃談が記されており(後日この筆者に確認が取れ、その方の実父の体験した実話であるとの証言を得ることが出来ました。)、また、「ドーリットル 空襲秘録」文中では麻布通過を否定して友軍機の見誤り?としていますが、巻頭に掲載されている爆撃直後、帰還した搭乗員の証言を元に米陸軍省が作成した飛行経路図には5番機・ジョ-ンズ中尉機(機体番号:#40-2283)が目撃証言と酷似した飛行経路で記載されています。  
また、一方では同書68ページには房総半島から東京湾を北上し川崎上空に至る筆者が想定したと思われる飛行経路が記載されていますが、巻頭の米陸軍省が帰還後の搭乗員からの証言を元に作成した飛行経路図には明らかに5番機が東京湾芝浦方面から西の渋谷方面に港区上空を飛行した経路が記載されているのに本文ではこちらを参照していません。 
この5番機の飛行経路の違いについての記述は同書には見あたらりませんが、実際に芝が爆撃されていないことから導き出された結果なのかも知れません。 
また別途米陸軍省作成経路図には港区西部か渋谷区東部と思われる区域を別の1機(7番機[#40-2261]と思われる機体)が通過していることが記されていますが、こちらも本文の飛行経路とは異なっています。そして、この7番機と思われる機体の飛行経路は麻布上空を飛んでいたとしても、北から南への経路となり複数の目撃情報とは合致しません。 
これらから DEEP AZABUが妄想に近い飛行経路を推測すると、
麻布上空を飛んだ機体は5番機であった。予定通り東京湾から芝浦ふ頭上空に侵入した5番機は第一目標であるターゲットNo.326日本電気、No.327三菱内燃機(三菱重工)、No.354芝浦製作所の確認に手間取り、内陸部へと入り込んでしまった。このため機長のジョ-ンズ中尉は機を反転させて東へ向い東京湾から再度爆撃コースに入ることを考えた。しかし一度目の通過で機の高度や速度が高射砲陣地に補足されている可能性が高かったため、機長は第一爆撃目標への攻撃を諦め、南へと進路を取りあらかじめ設定されていた第2爆撃目標である川崎へと機を進めた。
となるでしょうか。この爆撃目標を特定できなかった原因の一つには、この空襲で爆撃隊が使用していた地図が大正期のものであるといわれており建物の概要や所在が大きく変化していたため(目標No.327は地図上では三菱内燃機だったが実際には三菱重工となっていた)であると考えられます。

麻布上空を東の芝浦海上から西の渋谷方面へと通過した可能性がある機体を「ドーリットル 空襲秘録 第四章ドーリットル隊十六機、各機の行動と戦果のすべて」で推測すると、 1・2・3・5・6・7・9・10・12番機となる(激烈な対空砲火や迎撃機を避けながらの飛行は直進ではなかったと思われる)が、その中でも5番機、7番機は麻布をかすめるように飛行経路が描かれており、芝浦方面からの侵入という目撃談を重要視すると5番機であった可能性が一番高いと思われます。

しかし、一方ではB-25と同じく垂直尾翼を2枚持った日本陸軍機「九六式陸上攻撃機」への誤射もおきていることから、依然として真相は謎のままですが、もし5番機であったとすると麻布通過時には爆弾を満載した状態での飛行であったと思われます。また他機は飛行経路上を任意に機銃掃射しており、特に学校には防空班、防空監視塔などがあったために軍事施設と間違えられやすく、機銃掃射や爆撃を受ける恐れが十分にありました。



★5番機

アメリカ陸軍 B-25 B型 爆撃機(愛称:ミッチェル)
B-25 B型




日本陸軍 九六式陸上攻撃機
九六式陸上攻撃機

 
  • 機種:B-25 B型
    全長:16.13m
    全幅:20.60m
    全高:4.98m
    全備重量:15900kg
    エンジン:ライト R-2600-92「サイクロン」空冷星形9気筒 1,700馬力×2基
    最大速度:438km/h
    武装:12.7mm機銃×12
    爆装:最大2,700kg
  • 愛称:ミッチェル
    ウィリアム・ランドラム・ミッチェル(William Lendrum "Billy" Mitchell)にちなむ。ミッチェルはアメリカ航空戦力の草創期を築いた陸軍准将。上層部批判により除隊後、1936年死去。 B-25爆撃機はアメリカの軍用機で唯一個人名が愛称となった。
  • 機体番号:#40-2283
  • 所属:第95爆撃中隊
  • 搭乗員
    ●機長・パイロット:デヴィット・M・ジョーンズ中尉
    ○副操縦士ロドニー・R・ワイルダー中尉
    ○航空士:ユージン・F・マッケル中尉
    ○爆撃手:デンヴァー・V・トルーラヴゥ中尉
    ○航空機関士・機銃手:ジョセフ・W・マンスキュー曹長








  • 飛行経路:九十九里浜付近から本土へ侵入→房総半島中央部を南下→富津付近で東京湾に侵入→東京湾を北上→大森沖から進路を北西に取り芝浦から陸地に侵入→青山上空辺りで南西に進路変更→川崎へ向かう?(米陸軍作成飛行経路図より想像)
  • 爆撃目標: 東京芝(ターゲットNo.326日本電気・No.327三菱内燃機[三菱重工]・No.354芝浦製作所)
  • 爆撃結果:川崎日本鋼管川崎工場(扇町・大島地区)・横山工業所・昭和電工など













東京初空襲に使用されたドーリットル隊の爆撃機は前述したとおりB-25(ミッチェル)ですが、今回の作戦に使用されたB型は尾部銃座が廃止され代わりに胴体上下に12.7mm連装機銃を装備する電動銃座が設けられていました。また、B-25の最高速度は480km/hで、当時日本の本土防衛主力戦闘機であった九六戦・九七戦は最高速度が432km/h・462km/hであったため迎撃は難しかったようです。そして、
  • 燃料タンクの大幅増設による航続距離の増大
  • 6機に小型電動操作カメラ装備(最初の爆弾が投下されると自動的に1秒半間隔で60枚を撮影)
  • ノルデン照準器を取り外し簡易式の照準器に変更
  • 尾部銃座をモップの柄で偽装








    などの特別な改良が施された15機が予定されていたが、出航直後の発艦デモフライトを予定していた H.L.ミラー少尉機も作戦に参加することとなり、日本本土初空襲作戦参加機は併せて16機となりました。
このH.L.ミラー少尉は、陸軍爆撃機の空母からの発艦に不審を抱く搭乗員を指導するため、臨時の発艦指揮官としてホーネットに乗船していましたが、本来デモ発艦終了後に彼の乗機はアラメダ海軍航空基地(サンフランシスコ)に着陸する予定で、日本本土空襲作戦に参加する予定はありませんでした。

このようにして行われたアメリカ軍による日本本土初空襲(首都空襲)は日本の軍首脳部にショックを与え、山本五十六連合艦隊司令長官にミッドウェー作戦の実行を急がせることとなったとの説があります。 
しかし、ミッドウェー作戦は4月16日付の大本営海軍部指示にて裁可されているという説もあるので、これは俗説であり事実と異なるとする説が現在は有力のようです。
そして歴史の謎となってしまったドーリットル爆撃隊の「麻布上空通過」は新たな証言や書籍がないと確定は難しいと思われます。また、この日に小学校低学年の目撃者であったとしても今年75歳程度となることから、太平洋戦争史の聞き取り調査は時間との戦いであり急務であると思われます。
また、一般的な認識としてはこの初空襲による被害は大本営発表、各新聞記事などの影響により「軽微」とされその被害は秘匿されていたが、実際には500名以上(545名)の被害者が出ていたことは忘れてはいけないと思われます。



Doolittleの表記を、本編では「ドゥリットル」、追記では「ドーリットル」としましたが、これは参考書籍に記載された表記を引用したため。







日本初空襲作戦参加機
機番 機体番号 所属原隊 機 長 爆撃地域 爆撃被害
(死傷者)
迎 撃 対空砲火 到着地 備 考
01 #40-2344 第34爆撃中隊 ドゥリットル中佐 尾久、陸軍造兵廠東京工廠(後楽園)、早稲田など 21名 9機 激烈 中国・パラシュ-ト降下 爆撃隊長・早稲田中学生徒が焼夷弾の直撃により死亡
02 #40-2292 第37爆撃中隊 フ-バ-中尉 尾久辺 58名 なし なし 中国・胴体着陸 東京一番乗り・爆撃後池袋方面から南下
03 #40-2270 第95爆撃中隊 グレイ中尉 埼玉県川口市・金町・葛飾 113名 数機 かなり 中国・パラシュ-ト降下 小学校を機銃掃射。生徒1名死亡
04 #40-2282 第95爆撃中隊 ホルストロ-ム中尉 爆撃失敗 0名 多数 なし 中国・パラシュ-ト降下 機銃故障・江ノ島南西の相模湾海上に爆弾を洋上投下しそのまま離脱
05 #40-2283 第95爆撃中隊 ジョ-ンズ中尉 川崎 49名 なし 激烈 中国・パラシュ-ト降下 本来の爆撃目標は東京芝。港区内での機影目撃情報複数あるが当該機かは未確認
06 #40-2298 第95爆撃中隊 ホ-ルマ-ク中尉 川崎大師・横浜市 5名 なし 激烈 中国・海上に激突 機銃掃射により幼稚園児が犠牲となる。生存搭乗員3名が日本軍捕虜となり機長は軍法会議で死刑判決後処刑された
07 #40-2261 第95爆撃中隊 ロ-ソン中尉 川崎・鶴見 4名 なし かなり 海上に激突 皇紀2600年式典参加記念章を500ポンド爆弾に取り付けて投下
08 #40-2240 第95爆撃中隊 ヨ-ク大尉 栃木県西那須野町駅・新潟県中蒲原郡 0名 1機 なし ソビエト・ウラジオストックに不時着 エンジン不調により都心爆撃を諦め、ソビエト不時着を決断
09 #40-2303 第34爆撃中隊 ワトソン中尉 東京大森・大井町 43名 1機 激烈 中国・パラシュ-ト降下 本来の目標は大森東京瓦斯、日本特殊鋼。実際は大井町、大井埠頭付近
10 #40-2250 第84偵察中隊 ジョイス中尉 東京品川区 198名 16機 激しい 中国・パラシュ-ト降下 西品川、東品川周辺を爆撃
11 #40-2249 第34爆撃中隊 ロスグリーニング大尉 水戸~銚子市 0名 5機 激しい 中国・パラシュ-ト降下 本来の爆撃目標は横浜。試作機「キ-61(後の飛燕)」に迎撃され被弾するも振り切る。
12 #40-2278 第37爆撃中隊 ポワー中尉 川崎 0名 なし 激しい 中国・パラシュ-ト降下 日本油化工場・昭和電工川崎工場など
13 #40-2247 第37爆撃中隊 マックエロイ中尉 横須賀 12名 なし 激しい 中国・パラシュ-ト降下 海軍施設に投弾。改装中の空母「龍鳳」に命中大破。
14 #40-2297 第89偵察中隊 ヒルガー少佐 名古屋 0名 なし 激しい 中国・パラシュ-ト降下 爆弾が名古屋城付近の陸軍施設・病院に落下し大火となる
15 #40-2267 第89偵察中隊 スミス中尉 神戸 6名 2機 激しい 中国・海上に不時着 甲子園上空を通過後神戸市を爆撃
16 #40-2268 第34爆撃中隊 ファロウ中尉 名古屋・桑名・和歌山 36名 3機 激しい 中国・パラシュ-ト降下 名古屋市熱田、港区三菱重工航空機製作所などを爆撃。三重で漁師を銃撃。5名全員が降下後に日本軍捕虜となり機長が軍法会議で死刑判決後処刑され、他の4名は終身刑となる。
死傷者合計:545名








○参考書籍
・ドーリットル空襲秘録 日米全調査
・擾乱の海 3 ドゥリットル強襲
・大空の覇者ドゥリットル(上)東京奇襲1942
・東京大空襲・戦災誌-都民の空襲体験記録集
・東京初空襲-アメリカ特攻作戦の記録
・子どもに伝える太平洋戦争史-日本本土の初空襲
・六男二組の太平洋戦争
・港区史




 ※ 冒頭でご紹介した佐々淳行氏の著書「六男二組の太平洋戦争」はその後改訂されタイトルも「戦時少年」と改題して再出版されています。また氏は南山小学校卒業生として同窓会の名誉会長も勤められているそうです。