2013年1月31日木曜日

新島襄の鳥居坂訪問

以前、NHKドラマ「八重の桜」にちなんで麻布と保科家の関係をご紹介しましたが、今回は八重さんの夫、新島襄と麻布にまつわるお話です。

1883(明治16)年の麻布中ノ町
1888(明治21)年四月二十二日、新島襄は井上馨の鳥居坂邸を訪れます。これは新島が同志社大学の設立資金を集めるために上京したことによる訪問で、旧知の井上馨邸では渋沢栄一などに面会し、資金援助を依頼したといわれています。しかし面談の途中から体調を崩し、井上邸からも近い麻布中ノ町の粟津邸で静養しますが、この時に何度となく井上は新島を見舞ったといわれています。
この粟津邸とは後に霊南坂教会の元となる日本教会を自邸に設立した元海軍兵学校教頭で、明治時代のプロテスタントの教会指導者である粟津高明の屋敷だと思われます。この敷地にあった教会は、粟津が設立した日本教会と新島襄の最期を看取った小崎弘道が開設した新桜田教会が1882(明治15)年合併し、同所の旧日本教会を使用して東京第一基督教会となります。そして、1886(明治19)年、この教会が手狭になったため赤坂に移転して「霊南坂教会」となります。
新島が療養したのは、この教会が霊南坂に移転して2年後ということになります。

栗津邸で療養のため一月を過ごした新島は、6月中旬まで鎌倉の保養院で静養後、十四日に再び麻布中ノ町の栗津邸に戻ります。そして新島は同志社大学の通則草案を井上に見せて、意見を聞きます。また、7月19日には当時の外相大隈重信を官邸に訪ねて、渋沢栄一岩崎弥之助・その他の有志家を招いて大学創設資金の寄付を勧誘し、三万二千円の寄付を集めることに成功します。また一方井上は新島を東京日々新聞に紹介し、新聞を利用して一般からの募金を募ることを提案しています。
しかし、新島の体調は思わしくなく、7月24日から療養のため群馬県伊香保へと向かいます。その後やや回復したので短い東京での療養後京都に戻り、後に神戸での療養生活に入ります。そして病身を押して関西での資金調達を行い、井上とも度々意見を交換しています。しかし1890(明治23)年1月23日療養先である神奈川県大磯の旅館・百足屋で徳富蘇峰、小崎弘道らに看取られながら急性腹膜炎で死去します。享年四六歳。新島は死に臨んで妻八重子、徳富蘇峰、小崎弘道へ遺命として井上馨への書簡を依頼しました。その内容は、

謹テ告別申上候。是迄同志社大学の為メニハ不一方御高配被成下候儀奉感佩候。小生没後モ
行末長ク御心ニ懸ケ被成下度、乍此上懇請申上候

明治廿三年一月廿一日
新 島  襄

井 上 伯 爵 殿

と井上馨への告別と感謝が綴られていました。















より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示


2013年1月30日水曜日

内田山の井上馨邸

井上馨鳥居坂邸と内田山邸
昨日、鳥居坂の井上馨邸で1887(明治20)年4月26日に行われた天覧歌舞伎の様子をお伝えしましたが、この頃井上馨はすぐ近所の宮村町内田山にも屋敷を持っていました。内田山邸は1894(明治27)年新築されたもので、鳥居坂邸が建てられたのが1880(明治13)年3月ということですので、内田山邸建設はその14年後ということになります。

この内田山邸は現在の南山小学校、六本木高校の上部から旧桜田通り(広尾から有栖川公園脇の木下坂を通り中国大使館~霞町交差点へと抜ける尾根道は現在テレビ朝日通りなどと呼ばれますが、元々は櫻田神社への参拝道であったので地元民は桜田通りと呼んでいました。)までの広大な敷地で、その様子は以前「内田山由来★桜に包まれた街」でお伝えしました。

この内田山邸は設計時から井上が鬼集する様々な美術品などを配置することが決められており、美術品の襖にあわせて周文の間・光琳の間などの間取りや寸法を決め、また大食堂天井の金唐皮は銭屋五兵衛が海外から購入したもので、増上寺塔頭にあったものを井上公が買い求めました。これも新築の際、この金唐皮の大きさに応じて大食堂の広さを決めているそうです。
内田山邸光琳の間
また天井板や釘隠などは旧大名邸が解体されたときのものを買い求め、この内田山邸建設に使用されました。そしてこれらお気に入りの調度品が使用される際には井上公が直接工事の指揮を執ることのあり、用法が誤っている場合には大工を大叱責したとされています。

さらにこの内田山邸には、鳥居坂邸で天覧歌舞伎を催した際に建てられた茶室「八窓庵」も1909(明治42)年に移築され、庵では度々茶会が催されました。
これは井上馨の鳥居坂邸の庭に「八窓庵」を残したまま久邇宮邸となり、さらにその後赤星鉄馬邸となりますが、赤星が逝去の際、家族に井上馨への返還を遺言したため、これが実行された事に依ります。
この 「八窓庵」は付属の什器ごと鳥居坂に残されていましたが、内田山に移築された折に共に井上公に返還されました。

内田山邸大食堂天井金唐皮
このようにして完成した内田山邸には1887(明治20)年の鳥居坂邸天覧歌舞伎での天皇行幸に引き続き、1910(明治43)年5月1日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)が再びこの内田山邸に行啓します。そして翌日2日には李王世子の台臨、3日には各国大使など外交関係を招いての園遊会が盛大に行われました。

しかし、1913(大正2)年1月、井上馨は軽度の脳溢血で倒れ、 この内田山邸で療養していましたが、2月に入ると快方に向かいます。この病床の井上公を慰めるために茶人の高橋箒庵が井上公の収集する五幅(光琳の間の微宗皇帝の桃鳩・居間の一休和尚の丸木橋渡り・八窓庵の西行法師江口の歌・花月の間の沈南蘋筆朝日に鳳凰)から「内田山掛物揃ひ」を作詞します。そしてこの歌詞に五世清元延壽太夫が節を付けて3月に完成し、3月9日、内田山邸光琳の間において病床の井上公に披露されます。




八窓庵内部
皇太子嘉仁親王行啓(前列最右)








 



葬列
1915(大正4)年9月1日、井上馨は療養中の静岡市興津の別荘「長者荘」にて81年の生涯を閉じます。9月3日静岡から東京まで特別列車が組まれ、通過駅には多くの送迎者が井上公を送りました。東京駅からは黒塗りの馬車で馬場先門~日比谷~虎ノ門を経て内田山邸に到着します。
そして、葬儀は9月7日午前八時日比谷公園で行われました。その葬列は盛大で、




↑                     ↑
●前駆警部 特別儀仗近衛騎兵 歩兵 高張提灯●



○一般寄贈生花 各国大使寄贈花輪及び榊 親戚生造花○



○皇族方御榊 恩賜御榊 楽僧・役僧○



○副導師 導師 銘旗 香炉○



○位牌 生花 造花 高張  龍旗 龍灯 勲章○



○霊柩 近親 呉床 杖 沓 傘 雨皮 龍灯 龍旗 高張○



○喪主 遺族親戚 特別縁故者 時習舎同窓○



○遺族親戚 葬儀委員 会葬者 儀仗兵○



●会葬者 後部警部●



と続き、道筋は、


内田山井上馨邸


麻布桜田町


麻布材木町


麻布六本木


麻布谷町


赤坂福吉町


米国大使館前


虎ノ門


内幸町


日比谷公園正門


葬儀当日の内田山邸付近
とたどり、沿道は大混雑の見送りとなりますが、途中から驟雨となっても誰も去ろうとしなかったそうです。
ちなみにこの葬列の道程と、江戸期天璋院(篤姫)が薩摩藩渋谷邸から江戸城へと輿入れする際の行列が通過した道は桜田町から六本木までは、ほぼ重なります。


井上馨は晩年を宮村町内田山邸で過ごしますが、自邸の名称を文字ってその短気さは、「内田山の雷親父」と呼ばれました。
しかし、その雷もお気に入りの渋沢栄一が同席していると落ちなかったことから、渋沢は「避雷針」と呼ばれていたそうです。
 










より大きな地図で 皇族・貴族・大名・幕臣・文人居宅 を表示















2013年1月29日火曜日

井上馨邸の天覧歌舞伎


昨日お伝えした久邇宮家の屋敷は、鳥居坂の通りをへだてて両側にあり西側が洋館、東側が和風の屋敷で、もとは井上馨の邸宅でした。
元井上馨邸の国際文化会館

この屋敷の敷地は、江戸時代から幕末にかけては多度津藩(現香川県丸亀市)藩主京極壱岐守の江戸屋敷があり、明治になると井上馨邸~久邇宮家~赤星鉄馬邸~岩崎小彌太邸と変遷して戦後、国際文化会館となります。

この井上邸であった明治20年4月26日、邸内に茶室「八窓庵」を移築した折、明治天皇、皇后、皇太后、各国大使を迎えて九代目市川團十郎以下一流の役者による歌舞伎を初めて天覧に供しました。これは、当時井上馨が進めていた不平等条約改正を図る「鹿鳴館外交」といわれる外交政策の一環として行われ、諸外国への高度な日本芸術の紹介という目的がありました。

そのスケジュールは、
26日 天皇行幸 
27日 皇后行啓 
28日 各国公使・内外貴賓及びその婦人
29日 皇太后行啓
となっており、この期間の井上邸と周辺の様子を、
鳥居坂邸においては、緑門を設け国旗を交差し、玄関には緑飾し紫御紋付の幕を張り、本館より五六間距つた所に天覧所及び舞台を檜皮葺に新築し、陪観の桟敷を設け、新調の大形模様の緞子を引幕に張った。そして、劇場・本館各所及び庭中等に電灯を点じ、庭中各所に篝火を設けた。
又本館各室には公の秘蔵している和漢の書画を掛け、種々の盆栽を置き、装置万端遺漏なく整った。門外左右の塀には球灯を懸け、向屋敷の杉邸には門・塀及び庭等に数百の球灯掲げ、同邸内を参会の休所とし、隣の三條公の邸内を供奉溜並びに大臣以下来賓の馬車置場に充てた。
と伝えています。そして各日の内容は、

天覧歌舞伎錦絵

◎26日天皇の行幸
午後一時赤坂仮御所を出門。供奉は有栖川宮熾仁親王・伏見宮親王・北白川親王・有栖川宮威仁親王・三條内大臣・伊藤・松方・大山・森・山田・榎本等の各大臣など。

●演目
 □第一、勧進帳

武蔵坊弁慶     市川團十郎
富樫左衛門     市川左團次
九郎判官義経  中村福助
□第二、北條高時
  高時        市川團十郎
大佛陸奥守      尾上菊五郎
秋田城入道      市川左團次
長崎次郎         尾上松助
侍女衣笠         中村福助
        他に天狗・侍女各々若干名

□第三、操三番曳
三番曳     尾上菊五郎
翁       中村芝翫
千歳     板東家橘
後見     中村鶴藏

□漁父の戯
  漁父     市川團十郎
外に鯛・鰒・蛸・蟹

□元禄踊
                踊手多人数
観劇終了後、侍従に、
「これは近頃珍しきものを観た」「演劇は能に比すれば判りもよく、高時の場は取分け面白く覚えた。」
と感想を漏らし、さらに同邸での晩宴後さらなる歌舞伎の観劇を所望され、山姥、曾我の討入を観劇し大変満足のご様子で午後10時10分、同邸を退出しました。


さらに退出時天皇から、井上家に御紋附銅花瓶・金千円・紅白縮緬・家来衆には酒肴料五十円などの下賜品がありました。










鳥居坂井上邸
◎27日 皇后の行啓
午後二時出門。供奉は有栖川宮熾仁親王・伏見宮親王・有栖川宮威仁親王の御息所、三條・毛利・山県・伊藤・鍋島・松方・大山・寺島・吉井・戸田・
青木・陸奥・佐々木・吉川・杉・三島・林等の夫人など。


●演目
 □第一、伊勢物語
 
伊勢三郎義盛   市川團十郎
左馬九郎義経   中村福助
三郎老僕左六太 市川門蔵
三郎妻濱萩     澤村源之助
    外に野武士若干人・小女一人
□第二、寺子屋
武部源蔵         尾上菊五郎
松王丸           市川左團次
春藤玄蕃         中村芝翫
菅 秀才          尾上菊
松王丸悴小太郎 市川牡丹
涎くり奥太郎      中村鶴藏
御台園生前      市川升若
源蔵妻戸浪      板東秀調
松王丸妻千代    市川團十郎
    外に手習子・捕手・百姓各若干人。下男一人、陸尺二人


□第三、土蜘
土蜘の精    尾上菊五郎
平井保昌    市川左團次
源 頼光    板東家橘
侍女小蝶    中村福助
    外に四天王軍卒扈従胡蝶舞女各々若干人

□第四、花見の賑
  踊手多人数


伊勢三郎・寺子屋・土蜘・花見の振などを観劇。観劇終了後、井上の問いに対して皇后陛下は、
「誠に面白く覚えた。わけて寺小屋は思わず涙を催した。昔も今も尊きも賤しきも人の情には異なる所がない。能く写し得たものである。」との感想を漏らしました。
そして晩餐後花見の振・義経千本櫻・道中元禄踊を再び観劇して10時30分後同邸を退出しました。

さらに退出時皇后から井上家に、紫檀棚・洋服地などの下賜品がありました。







◎28日 各国公使・内外貴賓及びその婦人
 
伊勢三郎・寺子屋・花見の振・北條高時・元禄踊等を観覧
◎29日 皇太后の行啓
 午後二時青山御所出門。供奉は華頂宮御息所、久邇宮栄子女王、毛利。伊藤・杉等の夫人、近衛、中山、元田・杉、児玉等の顕官など。

●演目
 □第一、忠臣蔵三段目

高師直         市川團十郎
塩谷判官       尾上菊五郎
桃井若狭之助  市川左團次
早野勘平       板東家橘
鷺坂伴内       中村鶴藏
加古川本蔵     大谷門蔵
塩谷腰元おかる 澤村源之助
   外に大名大勢、茶道一人、師直家来

□第二、忠臣蔵四段目
大星由良之助    市川團十郎
塩谷判官         尾上菊五郎
斧九太夫        市川左團次
石堂右馬之丞    市川小團次
大星力彌        中村福助
山名次郎左衛門 市川團右衛門
原郷右衛門      市川壽美蔵
顔世御前        板東秀調
   外に塩谷家来大勢、同腰元

□第三、義経記 吉野山雪中の場
佐藤四郎忠信  市川左團次
横川覚範     中村芝翫
源九郎義経   中村福助
武蔵坊弁慶   尾上松助
亀井六郎     板東家橘
片岡八郎     市川小團次
伊勢三郎     大谷門蔵
駿河次郎     市川團八   
静            澤村源之助
   外に法師武者六人、忠信家来二人


□第四、六歌仙
文屋康秀    市川團十郎
喜撰法師    尾上菊五郎
僧正遍照    中村芝翫
小野小町    板東家橘
在原業平    市川小團次
茶汲女おかち  中村福助
   外に迎坊主六人、腰元六人


勧進帳・靭猿・忠臣蔵三段目、四段目を観劇。晩餐後に再び義経記吉野山雪中の場・六歌仙を観劇後午後十一時退出。
さらに退出時皇太后が井上家に、蒔絵小箪笥・銀湯沸・テーブル掛け・白縮緬と家扶以下には金五十円の酒肴料などの下賜品がありました。
またこれらとは別に宮内省より俳優一同に五百円の下賜があり、これにより非常な喜びであったとしています。そして天覧歌舞伎以降の歌舞伎界は芸術としての価値を持ち、この芸術への理解は一種のステータスとなっていきます。

そしてこの天覧歌舞伎を朝日新聞は、市川團十郎が勧進帳を演じるにあたり、衣装付属品を新調して臨んだこと、名人といわれる役者たちも緊張のあまり手が震えていたことなどを後日談として記事にしています。

それまで河原者と誹られてきた歌舞伎を日本古来の芸術と認めたのは、この天覧歌舞伎であったことは間違い有りません。

2007(平成19)年4月25日、この井上邸天覧歌舞伎から百二十年を記念して現在同所にある国際文化会館で天覧歌舞伎が開催され、天皇、皇后・皇族・外国大使などが招かれました。そしてその時の演目は120年前と同じ「勧進帳」であったそうです。











より大きな地図で 皇族・貴族・大名・幕臣・文人居宅 を表示





























2013年1月28日月曜日

皇族と麻布

1868年(明治元年)天皇が江戸に入り江戸が東京と改まると、明治政府は維新後還俗などにより急に増えた「宮家」を東京に移住させました。 
幕末までは有栖川宮・桂宮・閑院宮・伏見宮のいわゆる四親王家だけでしたが、明治期には、華頂宮・山階宮(明治元年)・北白川宮・東伏見宮・梨本宮(明治3年)・久邇宮(明治9年)・賀陽宮(明治25年)・朝香宮・竹田宮・東久邇宮(明治39年)などが新設されていきました。

東京での邸宅を構えることになった宮家は、皇族賜邸により3千坪を基準とした邸地を与えられましたが、その中で、麻布近辺に邸宅を構えたのは(明治~昭和初期にかけて)、有栖川宮(盛岡町現在の有栖川記念公園)、静寛院宮[皇女和宮](市兵衛町)、久邇宮(鳥居坂町)、東久邇宮(市兵衛町)、華頂宮(三田台町)、北白川宮(高輪南町)、朝香宮(高輪)、竹田宮(高輪南町)などがありました。 
これらの中で最も麻布近辺に縁が深いのは、鳥居坂町12番地の久邇宮家であると思われます。久邇宮家の屋敷は鳥居坂の通りをへだてて両側にあり、西側が洋館、東側が和風の屋敷で、もとは井上馨の邸宅でした。この井上邸であった明治20年4月26日、27日には明治天皇の訪問をうけています。また、明治天皇はその在位中に幾度も麻布を訪れています。


○1875(明治8)年1月31日---市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と行幸
 
午前11時頃、皇后陛下着。午後1時頃天皇陛下着。夕方6時頃まで滞在。


○1876(明治9)年5月5日---市兵衛町の静寛院宮邸に皇后陛下と再び行幸
 
正午18分頃より午後12時頃まで滞在。能楽天覧、饗宴。御供奉は岩倉右大臣など。


○1881(明治14)年5月9日---本村町の公爵、島津忠義邸に行幸
 
午前7時御出門。別邸にて古式の犬追い物、相撲を天覧。本邸にてつつじ観覧後、射術を天覧。御供奉は岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿。


○1887(明治20)年4月26日---鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に行幸
 
午後1時御出門。演劇を天覧。その後に親王、大臣らに陪食を申し付ける。


○1887(明治20)年4月27日---鳥居坂町の外務大臣、井上馨邸に皇后陛下と再び行幸
 
皇后陛下と再び演劇を天覧。御供奉は諸大臣。


○1889(明治22)年5月25日---麻布三連隊を閲兵
午前9時半に御出門。将校集合所にて御休息の後に兵士の体操、綱引きなど天覧の上、正午に還幸。


○1891(明治24)年2月28日---市兵衛町の内大臣、三条実美を見舞うために行幸
 
午前11時10分頃、インフルエンザがら肺炎になり危篤となった三条実美を慰問。還幸後、特旨で正一位を授けるが、同日7時15分に三条実美は永眠


○1891(明治24)年4月5日---狸穴町の伯爵、川村純義邸に行幸
 
午後1時半御出門。水雷技術、能楽を天覧。


○1901(明治34)年7/7~1904(明治37)年11/9まで、後に昭和天皇となる迪宮殿下が狸穴町に屋敷を持つ川村純義の沼津別邸で養育される。
1901(明治34)年4/29に明治天皇の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一男子として誕生し、同年5/5に称号を迪宮(みちのみや)名を裕仁(ひろひと)とされます。そして、生後3ヶ月で御養育掛となった枢密顧問官であり麻布狸穴町に屋敷を持つ川村純義(海軍中将伯爵)沼津別邸に預けられ、川村が逝去する1904(明治37)年まで養育されました。この 川村純義の本邸である麻布狸穴邸は1882(明治15)年に新築されたジョサイア・コンドル設計によるもので、戦後取り壊されて東京アメリカンクラブとなりました。

など、麻布においての訪暦・養育歴があります。また、 
1887(明治20)年に天覧歌舞伎を行った井上馨が麻布宮村町内田山に引っ越した後に、鳥居坂の井上馨邸跡は久邇宮邸となります。
1903年(明治36年)3月6日この久邇宮邸で一人の女の子が誕生しました。「良子」女王と名づけられたその姫は、後に昭和天皇の后(香淳皇后) となります。 
当時、久邇宮邸では男児を東側の和風の屋敷に当主と共に住まわせ、女児は洋館というしきたりがありましたが、明治30年頃の地震により損傷を受け、民有地として売却されます。 その後久邇宮邸跡は、赤星鉄馬邸、岩崎小弥太郎邸から現在の国際文化会館と続きますが、良子姫は東側の和風の屋敷で育ったとされています。

その後、久邇宮邸は、明治42年に麹町一番町に移転し、さらに大正8年には再び麻布近辺?の市外渋谷町宮代(現渋谷区広尾)に新邸を構え、良子姫は1924(大正13)年の御成婚までを過ごしました。現在、久邇宮邸の跡地は聖心女子大となっており当時の屋敷は本館の一部と常御殿が現存するといわれています。 
また、 良子姫は1917(大正6)年に昭和天皇への輿入れが決まりますが、その際に麹町一番町にある久邇宮邸に皇后となるための教育のため「お花御殿」と呼ばれた学問所が建てられます。 
このお花御殿はその後久邇宮邸の移転に伴い広尾へ移築されます。そして1933(昭和8)年には府立第三高女(現在の港区立六本木中学敷地)に下賜されることになり、学校では同年10月6日、「仰光寮」と名付けて移築落成式を行っています。 
その後、戦争中の空襲で焼失しそうになりますが、生徒・教員の必死の防火活動により焼け残った仰光寮は、昭和26年まで麻布キャンパスに取り残された形になっていました。そして、現在地の都立駒場高校敷地に移築し、再度の移築落成式は昭和26年11月11日に行われました。その仰光寮は、生徒達の茶道や華道、筝曲の稽古場などとして使用されてきましたが、建物の老朽化により現在は学園祭時のみの公開となっているようです。

また、ずっと時代は下って、昭和34年に今上天皇陛下と御成婚された美智子皇后陛下が学ばれたのは、この旧久邇宮邸であった聖心女子大学のキャンパスで、御常御殿(日常の居所)は久邇ハウスと呼ばれ現存している場所のようで、二代にわたる皇后陛下が学ばれる土地となりました。 
このように「良きことおきる土地」の存在を鈴木博之氏は東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」の中でほのめかしています。





より大きな地図で 皇族・貴族・大名・幕臣・文人居宅 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


2013年1月27日日曜日

徳川将軍家の麻布

麻布御殿」で五代将軍綱吉と麻布を紹介しましたが、今回も徳川将軍と麻布のつながりをいくつか御紹介します。

初代徳川家康は、麻布山善福寺に天正19年11月付けで朱印を授け、寺領の保護を誓約しました。また、この時の住職第14世堯海は家康と近しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じ、将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが慣わしとなりました。

その後2代秀忠、3代家光も善福寺をたびたび訪問しましたが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深かったそうです。


慶長10年(1605年)4月
家光2歳の時、生母で二代秀忠婦人お江与の方は、家光が安産で生まれた答礼に東福寺に本堂を建立し、家光の名で十二神将像を寄進しました。東福寺は東叡山の末寺で神田駿河台~上野広小路を経て天和3(1683)年から本村町薬園坂にありましたが、廃仏毀釈の影響から明治初年には廃寺となり、本堂は隣接する明称寺の本堂として売却され、十二神将像は目黒安養寺に移されました。東福寺薬師縁起によると十二神将像の後背には「慶長十年乙巳卯月(4月)吉日 源右大将若君御寄進」 とあり、源右大将とはこの像を寄進した同じ月の16日に伏見で将軍宣下を受けた父秀忠です。


寛永3年(1626年)10月18日
秀忠夫人お江与の方(崇源院殿)逝去。六本木にて荼毘に附し増上寺に埋葬。 



寛永16年(1639年)5月20日
家光、麻布でオランダ人による石火矢(大砲)の試射を堀田正盛、阿部重次、牧野信成らと観覧。  


寛永18年(1641年)8月
家光、麻布で鷹狩。  


寛永19年(1642年)11月
家光、麻布薬園にて馬を駆る。  


寛永21年(1644年)3月3日
家光、青山宿より麻布薬園にお成り。御膳所で御徒頭能勢市十郎を呼び、狸穴にある「麻布のむじなの穴」を調べさせました。  


正保4年(1647年)3月18日
家光、浅草を視察のため城を出たが、浅草観音の縁日である事を聞き、庶民の遊楽を妨げぬよう麻布に行き先を変更しました。  


正保4年(1647年)4月29日
家光、麻布で鷹狩。この時、麻布山善福寺に立ち寄り、麻布山に登り茶屋で弁当を食す。この茶屋は家康、秀忠も善福寺を訪問した際に使用されており将軍家用の茶屋でした。そして家光はこの茶屋を「栖仙亭」と命名しています。また家光は、善福寺訪問時に梅樹を植えたり、乗馬による騎射を楽しんだそうです。そして麻布山の山の形から亀子山と命名し、山号を麻布山善福寺から亀子山善福寺と改名させています。家光没後再び麻布山に戻りましたが、その時の片鱗が現在も善福寺内会館正面の額や手水舎などに見えます。  


元禄14年(1701年)9月3日
綱吉の実母本庄氏お玉(桂昌院殿)、宮村町増上寺隠居所を訪問。  


元禄15年(1702年)5月2日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。  


元禄16年(1703年)9月8日
桂昌院殿、宮村町増上寺隠居所を訪問。  


元禄16年(1703年)10月18日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。これ以外にも綱吉は度々増上寺隠居所を訪問しています。

麻布山善福寺オフィシャルサイトによると、家光は甲良豊後守に命じ当時の建築の粋を集めて本堂を建立し寄進したとあり、家光の善福寺に対する愛着が伺えます。 
甲良豊後守は、徳川家康以降将軍家に仕え、伏見城内の普請や吉田神社(左京区)造営の棟梁として活躍し、その功績により、豊後守の称号を賜りました。のち江戸に赴き、増上寺三門・台徳院霊廟・江戸城天守閣、日光東照宮などを手掛けた幕府作事方大棟梁との事です。また余談ですが、江戸城の虎ノ門は当時の善福寺の山門であり、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で麻布山善福寺の寺領であったとの事です。

文中の麻布の鷹狩は後に麻布御殿となる麻布薬園(南御薬園)にある将軍家鷹場が使用され、この他にも北御薬園(高田)、大炊台、隅田川、品川、小菅、ほうろく島、王子、中野、葛西にも将軍家鷹場御殿があったそうです。 
家光はこれらの鷹場を頻繁に使用しましたが、家康、秀忠の数日を費やす大規模で軍事デモンストレ-ションを含んだ鷹狩ではなく、あくまでも自らの健康回復を目的としたスポ-ツ的な鷹狩で、ほとんどの場合1日で終了したといいます。

この他にも、西麻布に現存する長谷寺の開山宗関は、今川義元の嫡子氏直の三男に生まれ、かつて駿府での家康の禅の師範であったため家康入府後、江戸に招かれ家康・秀忠の崇敬を受けて慶長3年(1598年)長谷寺を開くなど、麻布と歴代徳川将軍家の因縁は深かったようです。













2013年1月26日土曜日

麻布と保科家




飯野藩上屋敷と森要蔵道場
以前NHKでされたNHK大河ドラマ「八重の桜」にちなんで、麻布と二つの保科家の関係をご紹介します。

本家である会津藩保科家は現在の網代町あたりと三の橋の三田側対岸に屋敷を持っていました。特に三の橋対岸の下屋敷は、藩主も頻繁に使用していたとされています。また、三の橋は「肥後殿橋」とも呼ばれており、この松平(保科)肥後守下屋敷脇であったことから付けられた橋名です。

そして網代町の屋敷はその後に、飯野藩保科家の屋敷となります。この飯野藩保科家は会津藩保科家と血縁はないものの親戚筋です。 
本来の信州の名族保科家の血統はこちら飯野藩保科家が本流で、
 元和3(1617)年、信濃高遠藩主・保科正光は弟の正貞を養子としていましたが、不仲となり廃嫡し(一説には権力者の庶子を養子に迎えるため遠慮したともいわれる)ます。そして二代将軍徳川秀忠の落胤である幸松(のちの保科正之)を養子として迎え、高遠藩保科家の継嗣とします。
これは幸松の養育を任されていた見性院穴山信君(梅雪)正室)と、やはり武田家の遺臣であった保科家との縁で養子として育てられることになります。

やがて保科家を継いだ正之は、信濃高遠藩主・出羽山形藩主を経て、陸奥会津藩初代藩主となり徳川系保科(松平)家は幕末まで会津藩主として続くこととなります。そして、正之は異母兄である三代将軍家光に大変可愛がられ、晩年死期の迫った家光は枕頭に正之を呼び寄せて「肥後よ宗家を頼みおく」と言い残したそうです。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めます。そしてこの遺勲を忠実に守ったのが幕末の会津藩主松平容保でした。

また保科正之は家光から早い時期に松平姓を許されていましたが、自分を扶養してくれた保科家への恩義を忘れなかったため、生前はずっと保科姓を名乗ります。そして保科正之は保科家重代の宝物などを飯野藩主の保科正貞に返還しています。この会津藩保科家が松平姓を名乗り、葵の御紋を使用する事になるのは三代藩主正容になってからで、これにより会津藩松平家(保科家)は御親藩となります。

会津藩開祖の保科正之は寛文9(1669)年に嫡男の正経に家督を譲って隠居し、寛文12(1672)年12月18日、三田の下屋敷で死去しました。享年63(満61歳没)。

一方廃嫡された保科正光の実弟であり、養子でもあった保科正貞は、保科家を出て諸国を放浪した後に三千石の幕臣となります。そしてその後も加増され、さらに大阪定番となったことから一万石を加増されて一万七千となり、上総飯野藩(現在の千葉県富津市下飯野)を立藩します。

そして幕末まで上総飯野藩保科家二万石は、代々大阪定番を勤める家柄となります。特に最後の藩主保科正益は大阪定番を勤めた後に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めることとなります。



★永坂更科創業家「更科堀井」と飯野藩
更科堀井

この飯野藩保科家の麻布屋敷に出入りしていた信州保科村の反物商の布屋太兵衛(堀井清助)は蕎麦を打つのが上手いことから藩主保科兵部少輔の助言で蕎麦屋に転向し、名前も布屋太兵衛と改め、藩邸にも近い永坂で永坂更科を開店することとなります。 
この「更科」とは信州の蕎麦の集積地である長野県千曲市旧戸倉町の千曲川西岸の地名といわれる「更級」と、信州の名族で元は保科村の領主であった保科家の「科」を掛け合わせた造語で、この店で出されるそば粉の大吟醸とも呼べる胚乳部分を粉にした白いそば粉を使う高級な「御膳蕎麦」が評判となり、増上寺の僧などにもよく食されました。また大田蜀山人(南畝)はこの店の蕎麦をその値段の高さから、



更科の蕎麦はよけれど高稲荷(高い也) 
森(盛り)をながめて
二度とコンコン(来ん、来ん)

などと詠まれます。

  • 髙稲荷とは別名三田稲荷ともよばれるお稲荷さんで 、当時永坂更科の店の横の森にありました。現在も永坂の更科工場 屋上に鎮座しています。



         

永坂更科発祥之地碑
◎永坂更科発祥之地碑
昭和54年11月吉日
永坂更科発祥之地
永坂更科布屋太兵衛建之

布屋太兵衛を商号とする祖先布商
清介は元禄年間江戸麻布に郷里保科
御大名の御好意で麻布十番近く■
保科兵部少輔邸内の御長屋を借用
晒布を行商。寛政元年八代目清右
衛門は、主君の奨めで麺舗に転業。
代々布屋太兵衛と襲名す。郷里の
地名の「更」と、保科家の「科」
の一字を賜り「信州更科蕎麦處」
永坂更科布屋太兵衛と名付け大方
様の評判を頂く。
保科家、増上寺に報恩奉仕しその
推挙で将軍の御用を承る。増上寺
修行僧の諸国遍歴は江戸噺として
全国中に声価伝達。当地麻布永坂
の三田稲荷の御加護を頂きここを
根拠とし家歴百九十年を印す。
小林勇 記













文政7年(1824年)、『江戸買物独案内』
名物そば屋(御膳蕎麦所)wikipediaより引用













明治10年(1877年)頃(wikipediaより引用)













『永坂町更科蕎麦店の図』(山本松谷画)-wikipediaより引用










1962(昭和37)年移転告知する永坂更科
























 ★飯野藩剣術指南役、剣豪・森要蔵景鎮
森要蔵



また、この永坂更科の少し坂上には同じく飯野藩保科家にゆかりのある森要蔵の道場がありました。

森要蔵は飯野藩保科家の剣術指南役であり北辰一刀流千葉道場の達人で稲垣定之助、庄司弁吉、塚田孔平らと並んで「千葉道場の四天王」と呼ばれていました。やがて、千葉道場から独立して永坂に構えたこの道場の門下生は数百人とも千人を超えていたともいわれています。そして道場での森要蔵は相当厳しかったようで、稽古をつける彼の姿は雷を纏った龍のようだと評されていました。

天保十二年、森要蔵は三十二歳の時に上総飯野藩二万石の御前試合で勝利し、七両二分四人扶持で召抱えられ、安政四年には七十石取りにまで出世します。そして、


    保科には
      過ぎたるものが二つあり
          表御門に森の要蔵

と世間で謳われたといいます。


永坂上部の岡仁庵邸・森要蔵道場辺
この森要蔵が59歳の時、戊辰戦争が勃発します。すると要蔵は家老の密命により三〇名あまりの藩士と共に飯野藩を脱藩し、主家の本家である会津藩に合流して、白河口の戦闘で息子の虎尾とともに奮戦の末に命を落とします。
その様子は、共に参戦した飯野藩士の勝俣音吉によると、
先生白河口に向かふや「どうせ死ぬなら土佐の間宮の隊へ斬り込んで死にたいものだ」といわれた。蓋し既に死期を察したる先生はその弟子であり甥であるところの土佐藩の間宮某に首を与へて功名させる意図であったのであろう。虎雄先づ弾丸にたほれた。弟子・大出小一郎も傷ついた。小一郎は親友であったので小一郎を背負ひて後退した。先生も亦一丸を蒙った。虎雄に先立たれ、傷を蒙った先生は落胆して堤に腰を下ろして休息していた。板垣配下の一隊が通りかかった。先生俄かに踊り出して「森要蔵之にあり」と切り込んだ。遙かに振りかへった時は蒙煙の中に先生の奮戦の様はかくされていた。先生は連日不眠不休と悪食のため、全身に水気来り、片足を痛めて大変弱っておられたいふ。数日の後此の所に四寸角ほどの卒塔婆に、「森要蔵の墓」と墨痕鮮やかに記されていた。あたりに先生の袴の端切れ等が散乱していた。之を持ちかへり、門弟等と共に浄信寺に葬った。件の卒塔婆は確かに先生の姪の夫に当たる間宮某の字であった所を見ると彼の建てたものであらうと。

と記しています。


また早乙女貢著「会津士魂⑨」ではその様子を、


~此の老人は日の丸の軍扇を開きて兵を指揮し、隊兵十余人と山間に集合す。我が八番隊之と戦いしに、彼等衆募敵せず多く斃る。
永坂・森要蔵道場
中に一少年あり、老人に謂ひて曰く、阿爺突撃せんと、小刀を揮るって奮闘し、遂に我が八番隊に狙撃せられて地に倒る。老人も亦一壮士と共に勇戦して斃る。
余其の少年の勇壮を愛惜し、令して之を助けしめんとしたるも、傷重くして遂には死せり~

~思うに保科候と会津候とは同系の家なるを以って、要蔵は其の情誼を思い、同志を率いて亡命し、宗家の危急授けて此に至れるならん。武士の殉義誠に哀しむべきなり~

と記して幕末という時代の最後に驚くべき武士道が存在していたことを伝えています。

しかし飯野藩主保科正益は会津保科家が朝敵となった事に連座して謹慎を申し渡され、その弁解のため幕府側となった家臣を処刑して罪を許されます。(また一説には脱藩者を出した事への責任から家老の樋口盛秀と野間銀治郎が自害したとも伝わります)このようなことは幕府側として戊辰戦争に参加した各藩でも起こっており、奥羽列藩同盟の盟主ともいえる仙台藩伊達家でも、この森要蔵とも白河口で共に戦い面識があったかも知れない但木土佐坂英力を明治2(1869)年5/19に仙台藩麻布屋敷で叛逆首謀の罪で処刑しています。

まったくの想像ですが、この道場の門下生はおそらく道場で厳しい稽古を終えた後に更科蕎麦を食したのではないかと思います。また、やはり道場のすぐ近くにあった麻布名物の「おかめ団子」を食したのも間違いないと思われます。

そして、この道場の家主は将軍の御殿医の岡仁庵で、妹は大奥勤めをしていました。この岡仁庵の屋敷の敷地面積は3000坪もあったそうで、庭の見事な”しだれ桜”が麻布でも有名で、大田蜀山人に、


永坂に 過ぎたる物が二つあり  
  岡の桜と永坂の蕎麦

 と詠まれました。麻布区史ではこの桜を、

岡の桜、別名「朝日桜」。幹囲り2.7m  高さ7m 樹齢150年 十番通りからも見えたというが、昭和初期に岡邸が売却された折に伐採されたという。

と記しています。
そして妹の「つち」は13代将軍「家定」付大奥女中で、
つち 御次(おつぐ) 相部屋:ちそ、もん 兄・岡仁庵(御番医師)後、家茂時代に実成院[じつじょういん](14代将軍徳川家茂生母)(フジテレビ「大奥」では野際陽子・NHK大河ドラマ「篤姫」では描かれていません。)に招かれ酒宴をした記録あります。

御台様(天璋院篤姫)のそばに詰め、茶道具、仏間、御膳などの世話を焼く係で、大奥で何か催し物があるときにはまっさきに芸をして盛り上げる係でもあり、三味線・琴などの楽器、舞いなど 一通りの遊芸はマスターしているそうで、大奥の「芸の達人」ともいえる役職だそうです。

何かの催しで当の御次女中の遊芸を観覧して、目を付けたものと思われる。御次は目を付けられる機会が多い役なので、これぞと思う娘を御次に付ければ、将軍の子女を産むという確率が高まることになるそうです。表御殿の役人で野心のある者は、大奥の幹部クラスと組んで、これぞと思う娘を探し出し大奥へ送り込み、その娘を懇ろとなった大奥幹部が御次に就ければ、翌年には将軍の男子を産んで、自分は一躍権勢家などという夢想をしたかもしれません。このことからすると、「つち」の大奥入りは、兄である岡仁庵の計略であったのかもしれません。

お伝えした保科家と更科蕎麦の関係で、布屋太兵衛が出入りしていたのが保科家の正規の血統ともいえる上総飯野藩保科家ではなく、保科家の血筋を持たない会津保科(松平)家であったならば、権力におもねた商魂と疑われ、その印象は大きく違ったものになっていたと思われます。









★追記
幕末に新撰組の元となる浪士隊を結成し、京都で幕府を裏切り朝廷に恭順した清河八郎が、江戸に呼び戻されたのち一の橋で暗殺される話を以前お伝えしましたが、その暗殺実行者の一人は佐々木只三郎 という名の旗本でした。佐々木の父は会津藩士であり、親戚の旗本佐々木家に養子となった以降も会津藩とつながりを持ち、清川と別れ京都に残留した浪士(後に新撰組となる)を会津藩預かりとすることを会津藩に提言しました。そして、自身も強力な佐幕派であり、幕府講武所の剣術師範で京都見廻組隊士でもありました。また坂本竜馬暗殺の実行者ともみられているそうです。

ここからは私の勝手な想像ですが、清河八郎暗殺の時にもしかしたら、八郎が出羽上山藩邸で友人と酒を酌み交わしている間、暗殺実行者たちが八郎が出てくるのを待っていたのが佐々木と縁がある会津藩三田下屋敷でもおかしくないと思われます。
また前出の森要蔵の息子はご紹介したように「虎尾」と名付けられていましたが、清河八郎が倒幕・尊王攘夷の思想を持った清河塾の塾生を中心に結成した会も「虎尾の会」と呼ばれていました。
思想的には佐幕で保科家を主君とする森要蔵と、正反対の勤王攘夷を唱えた清河八郎に思想的な共通点は無いと思われますので、ただの偶然だと思われます。






★追記の追記

飯野藩麻布邸と森要蔵道場の関係を当時の庶民は、

麻布永坂目の下なるに何故か保科さん森のかげ
と謳っています。これを、
  • 森道場が飯野藩邸から坂を下った場所にあったことになぞらえて森
    道場の隆盛を顕わしたもの

  • 保科邸は高台にあるのに(藩邸よりも下に建つ森要蔵道場が目立って)
    森のお“かげ”で保科の名も上がった


などと解釈していますが、これは、地理的な条件を無視した解釈といえます。 森要蔵の道場はほぼ永坂の坂上にあり、飯野藩麻布邸は古川沿いの二の橋脇から 網代町にあったことから、地理的には森要蔵の道場の方がはるかに標高が高いと思われます。 
しかも飯野藩麻布邸は当時すでに商家が多くあった麻布十番の脇です。これに比べて 上杉家の屋敷が通りの片側をしめて、反対側にしか町屋がなかったといわれる飯倉片町辺にあった 森要蔵道場辺は永坂上方にあり、わりと寂しい場所にあったと思われます。 しかし、門弟千人ともいわれる森要蔵道場にはいつも人が集まり、本来は周辺で最も商家が集まる 坂下の飯野藩麻布邸辺よりも坂上で武家地の多い寂しい場所にあった森要蔵の道場の方が目立っていた ことを揶揄したものであると私は思います。






※そのまた追記:


 麻布永坂目の下なるに
    何故か保科さん森のかげ

この真意は森要蔵道場が永坂上で、二ノ橋辺の飯野藩上屋敷が森道場の影となってしまうことから、藩主よりも名声を得た剣術指南役の森要蔵を讃えたものであることがわかりました。
その名声とは、森要蔵の師匠であった千葉周作の葬儀で森要蔵が藩主名代として馬上から一番に焼香をした事に因むそうで、藩主の面目を第一にしたこの行為が逆に藩主思いの忠臣として森要蔵の名声上げた結果だそうです。

















飯野藩保科家上屋敷











飯野藩保科家中屋敷












飯野藩保科家下屋敷






















より大きな地図で 保科家関連 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年1月25日金曜日

麻布御殿(別名:白金御殿・富士見御殿)


五代将軍綱吉が世を治めていた元禄十年(1697年)十二月一日、将軍の慰安施設として麻布で白銀御殿が起工され、翌年十一年四月十四日に完成しました。わずか五ヶ月半の突貫工事で完成したこの御殿は、普請奉行を酒井彦太夫が勤めますが、実質的には豊後岡城主の中川因幡守久通が普請を任され、白銀御殿・麻布御殿・富士見御殿とも呼ばれ、四の橋近辺の広大な敷地を有しました。
延宝年間図(1673~1681)に描かれた
麻布御殿の前身麻布薬園

その普請の様子を麻布区史は、

~中川因幡守久通、元禄十年冬麻布御殿造作御手伝ヒ承リケル。此の時上野根本中堂松平薩摩守綱貴ニ命ゼラレ、小石川御殿総堀以下御普請ヲバ松平淡路守承リ、各人足ヲ集ルニ、中川ワヅカ七萬五千石ニテ麻布御殿作リ出サンニ第一雇ニ難儀スベシト世人重ヒシニ、中川ニハ兼テ奉行役人に申付ラレシハ此度所々ニ御普請アレバ此方ノ場所ヘ人足ヲ集メルニ心得有ルベシ~

として、当時普請が其処此処で行われ人足の確保が難しかったことを伝えています。

また、この麻布御殿の普請に伴い三田用水から「白銀分水」を通水します。三田用水の開通はこの麻布御殿への通水を主目的としたという説もありますが、

三田用水の開通は寛文四(1664)年 
・麻布御殿の開設は元禄十一(1698)年

であることから年代的に無理があるように思われます。しかし、麻布御殿への通水のため分水を作り「白金分水」としたとすると無理がないように思えます。
この白金分水は目黒駅と恵比寿駅の中間にある三田用水の現在「日の丸自動車学校」となっているあたりから分水し、狸橋あたりで古川を掛樋または水道橋のようなもので超えて麻布御殿に通水していたものと考えられています。
この白金御殿と麻布御殿を別々にとらえているものもあるようですが、それは誤りで二つの御殿は同一のものです。
この御殿の造営に伴って、将軍が古川をさかのぼり直接船で御殿まで入れるように古川の川幅拡張・掘り下げの入船・改修工事も芝新堀から四の橋区間で行われ、大工事となりました。
この工事は貧民対策事業としての公共工事の側面ももっていたといわれていますが、この工事の工区の区画割りに伴って出来たのが「麻布十番」という里俗の地名であるといわれています。
この麻布十番という地名は長い間里俗の地名であり、住所ではありませんでした。しかし昭和38(1963)年十番1~3丁目が整備され、さらに昭和53(1978)年には住居表示が実施されて現在の麻布十番1~4丁目となります。

御殿の建った一帯は以前幕府の「御花畑」がありました。御花畑は江戸城二ノ丸、北ノ丸を経て寛永15(1638)年にこの地に移転して麻布薬園となり、幕府が薬草の栽培に乗り出します。当時ウコン、マニ、ダイオウなど73種類の薬草が栽培されていましたが、麻布御殿建設と共に小石川に移転し「小石川御薬園」となりました。そして現在も東京大学大学院理学系研究科附属小石川植物園として現存しています。

この御殿は将軍の保養施設として広大な土地を有し、御殿の前には「御鷹狩り場」もあったそうです。御殿に将軍綱吉が訪れたのは元禄11年3月、元禄14年3月30日ですが、この2度目の訪問の半月前の3月14日に浅野、吉良による殿中刃傷事件が起きており、事件で疲労困ぱいした綱吉が保養のため訪れたと考えられます。
麻布御殿及御花畑之図(麻布区史)

しかし、宝永5(1708)年2月11日、四谷より発した火災によりこの大工事により造営された御殿もあっけなく焼失してしまいました。火事の後一部燃え残ったものは、芝増上寺御霊屋別当真乗院の伽藍となり現在も保存されているそうです。




明治になるとこの麻布(富士見)御殿があった場所の一部はその御殿跡の由緒に因んで麻布富士見町と命名され、現在もその名称は「南麻布富士見町会」として受け継がれています。








◎麻布 その西南部

◇麻布御殿跡(南麻布三・四丁目)
広尾神社の社地あたりは、旧将軍の別墅で、麻布御殿跡といわれる。同社は昔、富士見稲荷   といい御殿の鎮守であった。「江戸砂子」に御殿旧地、元禄ごろ麻布御殿あり。今は武家屋敷、眺望すぐれたる故に富士見御殿とも申す、とある
◎文政町方書上

◇麻布本村町
御殿の儀は本村町西の方にて阿左布
御花畠と唱え候うちにこれあり、御花畠の儀は、往古より御座候由年代相知れ申さず候。その後、白金御殿起立の儀は元禄年中仰せ出され、同十一寅年三月中御出来の旨に御座候。お掛かり若年寄秋元但馬守様・米倉丹後守様・御普請奉行酒井彦太夫様と承り伝え候。その後御不用に相成り、引き候年来相知れ申さず候。~










より大きな地図で 麻布の水系 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年1月24日木曜日

幕末、麻布周辺の外国施設

幕末の麻布周辺(芝、三田も含めて)には外国施設が多くありました。 これは後に「港区」と呼ばれるように、海が近かったため、品川などに停泊している自国の船(軍艦など)に有事の際に移動するために便利であり、なおかつ江戸城にも程近かったためと思われます。 
現在も大使館などが数多く存在しますが、震災・火事などの災害を考え、建物の密集した都心よりやや郊外のおもむきの残る麻布近辺が安全と考えたためとも思われます。以下は幕末における麻布周辺の外国施設。


幕末の外国施設
名称場所所在地 開館 備考
アメリカ公使館麻布
山元町
善福寺 安政6年
1859年
6月8日
公使ハリスが本堂を住居とし公使館を設置。通訳ヒュ-スケンが攘夷派により暗殺される。攘夷派の襲撃により書庫が焼失。
アメリカ代理公使宿舎三田
北寺町
大松寺 慶応2年
6月11日
代理公使ポ-トマンの専用宿舎。
イギリス公使館①芝高輪 東禅寺 安政6年 公使オ-ルコックが滞在。攘夷派の襲撃事件2回。日本人通訳伝吉の殺害。
イギリス公使館②芝高輪 泉岳寺 慶応元年
1865年
公使パ-クスが滞在。攘夷浪士の襲撃回避のため高輪接遇所と称した。
フランス公使館三田台 済海寺 安政6年
8月26日
公使ベルク-ル、全権公使ロッシュが滞在。
フランス付属宿舎三田台 大増寺 安政~ 幕府外国奉行と代理公使ベルク-ルが会談。
フランス副領事宿舎三田台 実相寺 安政6年
12月15日
副領事メルロが居館として使用。
フランス公館三田台 正泉寺 安政6年
11月22日
フランス総領事館通弁ジュ-ルが居住。スイス総領事リンドウ、イギリスのア-ネスト・サトウも使用。明治43年目黒区碑文谷に移転。
オランダ、ロシア、フランス使節の宿館芝愛宕 真福寺 安政5年~ プチャ-チン(ロシア)、グロ-(フランス)、クルチウス(オランダ)などが滞在。
オランダ公使館①
西応寺
西応寺 安政6年
9月
公使クルチウスが滞在。イギリス人エルジン伯も一時滞在。薩摩藩邸焼き討ちで類焼した。
オランダ公使館②
伊皿子
長応寺 慶応3年
1867年
12月
芝西応寺が薩摩藩邸焼き討ちで類焼したのでオランダ公使館は伊皿子長応寺に移転。スイス使節団が滞在。写真家F.ベアトの江戸におけるアトリエが設置されていた。1902(明治35)年寺は北海道に移転した。
プロシア公使館麻布
本村町
春桃院 慶応元年
1865年
4月
神奈川領事フォン・ブラントが江戸滞在に使用。
ロシア使節宿舎 三田
小山町
天暁院
大中寺
安政6年
7月21日
通商条約批准の際、函館領事ゴシケビッチ、ムラビヨフが滞在。イタリア使節も使用。現存せず。
外国人旅宿麻布
飯倉町
赤羽接遇所 安政6年
8月
各国が条約批准などで滞在。シーボルト父子も滞在。詳細はこちらをどうぞ











より大きな地図で 幕末外国公使館・施設 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年1月23日水曜日

沖田総司

新撰組沖田総司は幼名を惣次郎といい、麻布桜田町の陸奥白河藩10万石阿部能登守下屋敷で生まれたといわれています。

大向山三光院専称寺
父の勝次郎は、 二十二俵二人扶持の「武家奉公人」と言われる最下級の武士でした。総司が数えで二歳のときに父勝次郎が死亡すると、藩は惣次郎が家督を継ぐことを許さず財政難を理由に沖田家を解雇します。
母親と二人の姉、幼い惣次郎だけになった沖田家は、翌年惣次郎と11歳違う長姉のミツに日野の井上林太郎と言う婿を迎えて沖田家を継がせました。その後、藩下屋敷を追い出された一家の足跡を残したものは一切なく、不明です。しかし林太郎の実家のある日野に住み、農耕などで生計をたてたものかもしれないと記述された本もあります。

その後9歳になった惣次郎は沖田家の「口減らし」のため、市ヶ谷の高良屋敷で試衛館という剣術道場を開く近藤周助の内弟子となります。
試衛館は天然理心流という流派を伝えていましたが、実質本位のそれは江戸市中では「いも剣法」と呼ばれ、試衛館も「いも道場」と呼ばれていました。

沖田総司墓所
しかし、この「いも剣法」には隠れた需要がありました。それは江戸草創期、大久保長安により結成され、中仙道からの江戸攻撃を守るため半士半農の生活をかたくなに守り続けてきた「八王子千人同心」に感化された多摩地域の農民達です。彼らにとっては、形式美の剣術よりも「いも剣法」と呼ばれ、実戦的な天然理心流の方が向いていました。しかし農民であるために、田畑を投げ打って江戸市ヶ谷まで通うことは出来ません。
そこで自然と近藤周助の方が多摩に出向き稽古をつけることが始まったそうです。このため多摩地域の豪農には物置や離れなどに道場を持つものが多かったと伝わります。

試衛館の内弟子となった惣次郎ですが、実質は下男並の扱いだったそうです。あまり好かれなかった近藤周助の妻から朝から晩までびっしりと家事、道場の掃除を言いつけられ、剣術の稽古もままなりません。
あまりの激務に9歳の惣次郎は幾度と無く涙をこぼし、姉家族の暖かさを思い出します。そんな惣次郎の心の支えになったのは、内弟子になって初めての剣術の稽古中に、

「この子供には、剣才があります。」



江戸期の阿部家下屋敷
と専称寺
と近藤周助に助言した男の言葉でした。男は、老いた道場主近藤周助のかわりに普段稽古をつけていた島崎勇である。彼もまた、多摩調布上石原村の豪農の三男でした。口が大きく武骨な顔立ちの島崎は、その印象とは反対に酒も飲まず、大福餅の好きな温厚な性格の男でした。そして彼が後に新撰組隊長になる、近藤勇です。やがて二人は新撰組として京都の町の治安をになうこととなります。
そして明治維新の慶応四(1868)年、沖田総司は近藤勇の板橋での斬首を知らないまま、結核により千駄ヶ谷で死去したと伝わっています。そして享年には、24歳、25歳、27歳の諸説あり、辞世の句は、

「動かねば 闇にへだつや 花と水」

とされています。そして遺骸は沖田家の菩提寺であり、自身が生まれた白河藩下屋敷のすぐ目の前にある大向山三光院専称寺(港区元麻布3丁目1-37 )に葬られています。


現在専称寺は墓所内へ入ることを禁じています。しかし、墓所脇の道路からも十分確認すること
が出来、また墓所沿いの壁には参拝のしかた等も記されていますので、これを遵守することを
参拝方法掲示板
お願いします。











★付記

妙光山真浄寺
麻布域にはこの沖田総司の他に、もう一人新撰組隊士の墓があります。それは、飯倉交差点近くにある妙光山真浄寺(港区麻布台2-3-18)に葬られている池田七三郎(稗田利八)の墓です。





最後の新撰組隊士池田七三郎墓

嘉永2(1849)年11月上総山辺郡で商人の三男として生まれた稗田利八は16歳で江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学び、旗本の家臣となりました。その後18歳で「池田七三郎」という名前で新選組に入隊し、鳥羽伏見の戦いから会津まで参戦します。
猪苗代では隊長付けとして参戦したが敗戦。その後会津に残留中官軍に襲撃され戦死したと伝えられましたが、逃げ延びて銚子警備の高崎藩兵に投降し、東京に護送されました。
そして1年間の謹慎を経て放免となり、その後の人生を商人として過ごしました。そして時代は下って昭和4(1929)年、東京富ヶ谷(渋谷区)で子母沢寛の取材を受け回顧録「新選組聞書」を口述します。その後も1938(昭和13)年まで天寿を全うし、90歳で逝去しました。
稗田家・稗田利八墓所
真浄寺さんを訪問したとき、参拝させて頂いた池田七三郎の墓石には多くの傷があったのでご案内頂いた住職にお聞きすると、戦争中艦載機の銃撃を受けた跡とのことでした。












 
 

 
稗田利八墓





























より大きな地図で 麻布の寺社 を表示








2013年1月22日火曜日

麻布近辺の古代遺跡

古代の麻布近辺では標高5メ-トル以下の土地は東京湾の入り江であったと思われ、縄文時代には水辺の豊富な海産物が採集しやすい麻布の高台近辺に多くの遺跡、出土物が集中しています。 
しかし、弥生期や古墳時代の遺跡は少なく、これは麻布近辺が水田耕作に適さなかったためと思われます。以下に麻布周辺の主な遺跡をご紹介します。




麻布周辺の主な遺跡
時代 名称・所在地 備  考



西新橋1丁目(旧桜田本郷町) 古くからの伝承によるが、標高が5メ-トル以下であるため古代は海面下であったと思われ、真偽は定かではない。
虎ノ門5丁目10番 縄文時代の貝塚で、前期関山式土器、後期の土器が出土。
丸山貝塚(芝公園内) 古墳の東南斜面に散在。後期安行Ⅰ式土器も出土。
芝公園4丁目2番 東京タワ-の西端、旧紅葉館敷地跡あたりとされるが、現在は場所の特定が出来ず、謎。土器、手斧などが採集されたと言われる。
伊皿子貝塚(三田3丁目、旧三井邸内) 永く謎とされてきた貝塚だが、工事(NTT社屋の建設)によりかまど跡、土器が多く出土。
高輪1丁目24番 打製石斧が出土した記録があるが、現在は詳細不明。
白金台1丁目(明治学院内) 加曽利E式土器が出土したが、現在は消滅。
白金台5丁目(自然教育園内) 縄文土器、石斧が出土したといわれるが、詳細不明。
白金6丁目(神応小学校内) 石器が出土したと伝えられるが、詳細不明。
麻布台2丁目3番(熊野神社境内) 加曽利B式、安行Ⅰ式土器が出土。
旧三河台町、福岡氏邸内 縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
旧麻布桜田町、鈴木氏邸内 貝塚、石斧が出土したが、詳細不明。
西麻布交差点 打製石斧が出土、詳細不明。
西麻布1丁目付近 打製石斧が出土と言われるが、詳細不明。
西麻布3丁目21番(鳥居氏邸内) 考古学者である氏の邸内から中期縄文土器の”厚手土器”が出土。
西麻布1丁目、3丁目 縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
元麻布2丁目3番(麻布学園裏) 縄文後期の貝塚。堀の内、加曽利B式が出土。
西麻布2丁目(笄坂上) 縄文土器が出土。詳細不明。
元麻布2丁目10番(がま池付近) 厚手土器が出土。詳細不明。
南麻布3丁目1番 縄文中期の厚手土器が出土。詳細不明。
本村町貝塚(南麻布3丁目8番、11番) 港区で最大級の縄文貝塚。諸磯式土器、黒浜式土器が出土。
南麻布5丁目5番(旧盛岡町南部坂) 打製石斧が発見されたと言われるが、詳細不明。
元麻布1丁目6番(麻布山善福寺) イチョウ付近、台地の住宅地から磨製石斧が出土。
元麻布1丁目3番(旧一本松町24番地) 未完成の石器などが出土。近辺の石器の製作所跡との説も。



芝公園4丁目 大正時代に朱塗りの土器が出土。詳細不明。
三田4丁目(亀塚公園) 公園付近から弥生式土器が多く出土。
青山墓地内 長頸壺形土器が出土。詳細不明。



亀塚古墳 現在は著しく本来の形を損なっているとされ、帆立式古墳、前方後円墳の可能性も?
丸山古墳群 丸山と呼ばれる前方後円墳の西に約10基の小円墳が点在したが、芝ゴルフ場になり小円墳は現存しない。
西麻布(笄町) 詳細不明。
六本木5丁目(北日ケ窪) 詳細不明。
南麻布5丁目(有栖川公園) 詳細不明。
赤坂6丁目(赤坂氷川神社内) 詳細不明。









縄文海進の麻布中央部





アサップル伝説






2013年1月21日月曜日

水野十郎左衛門

水野十郎左衛門といえば、旗本奴の頭で幡髄院長兵衛の敵役と言った所でしょうが、実際彼が切腹したのは、長兵衛殺害から十数年もたってからだといわれているので、長兵衛殺害の喧嘩両成敗からのものではなく、素行不良の”とがめだて”からだと思われます。

戦国末期の荒くれ大名水野勝成を祖父に持つ十郎左衛門の最後はあざやかだったといいます。蜂須賀邸で切腹のおり、貞宗の短刀をおしいだたき、懐紙をといておもむろに腹に突き立て5寸ほど引いてから短刀を三宝に戻し、首を討てといったといいます。
十郎左衛門に正室はなく妾腹の男子が父と共に誅され、家は断絶しました。しかし、元禄元(1688)年7月に赦免され弟の忠丘が水野十郎左衛門を名乗り、小普請組になり家を再興しました。その際、兄の菩提を弔うため忠丘は三田の功運寺に墓を建て、以降水野家の菩提寺とします。

再興後拝領した屋敷は本所にありましたが、文化9(1812)年、麻布新町(現東麻布3丁目)に移ります。
この屋敷の一部は元、多聞(おかど)伝八郎の屋敷で、この人物は、元禄14年浅野匠頭が江戸城中で刃傷した直後、審問の上同情的な処分に努力し、また切腹にも立ち会った多聞伝八郎の子孫です。(ちなみに刃傷事件当時の多聞伝八郎の屋敷は麹町四番町との事です。)













2013年1月20日日曜日

飯倉の小川平八

江戸後期には北半球が小氷河期だった影響から天災、飢饉が日本全国を襲います。
大都市江戸も例外ではなく1773年(安永二年)には隅田川 までが氷結し、消費物資を水運に頼っていた江戸では物価が高騰して、正月の松飾も商いが行われないような状況になりました。
そして翌年も再び隅田川が氷結し、江戸城の堀も凍り付きましたが、しかしこれは天災の始まりでしかありませんでした。

1783年(天明3年)には浅間山が大噴火し、その火山灰や砂礫は江戸にまで到達しました。
噴火以降1787年(天明7年)まで東北地方は凶作になり、奥羽地方だけでも死者数十万人に及ぶ「天明の大飢饉」となりました。大噴火の前年1786年(天明6年)の夏に関東も大洪水に見舞われ、江戸でも神田川、隅田川が増水して新大橋、永代橋に被害を及ぼし堤防の決壊も呼びます。

この被害から消費物資が流入しなくなり江戸の諸物価が高騰し、翌年には米価が前年の5倍に跳ね上がり、たまりかねた町人達が5月20日赤坂の米屋襲撃を手始めに25日までの間、江戸市中の 米屋1000軒あまりで次々と略奪が行われます。いわゆる「天明の打ち壊し」の始まりでした。

打ち壊しの鎮圧後、幕府は打ち壊しに遭った商人達に救済金の給付と穀物の安価売却を進め、商業の復旧をはかりました。そしてその政策の中には、比較的裕福だった商人達も含まれました。そんな裕福な商人の一人に麻布飯倉の小川平八がいました。

小川平八は、柳橋のめくら平八、今戸の瓦師平八と共に三平八として世に知られた分限者で、物価が高騰した折、貧民救済のため飯倉、芝田町、高輪にまで救いの手を差し伸べました。平八は財産家であるばかりでなく、その蔵書も膨大な数に及んだそうで、将軍吉宗が古書を収集した際、専門家に見せても解らないほどの古い記録類を差し出したとあります。

2013年1月19日土曜日

有栖川公園


有栖川記念公園
正式な名称を「有栖川宮記念公園」といい、これは明治期この場所にに有栖川宮邸があったことによる名称です。 
1896(明治29)年、麹町からこの南部藩邸跡地に移転した有栖川威仁親王ですが、親王には継嗣がなく、その後を高松宮家が引き継ぎます。そして威仁親王の二十周忌の命日の昭和9年1月5日、高松宮宣仁親王より有栖川邸跡地は東京市に下賜されました。その後同年2月には、早くも工事が始まり、11月17日に東京市の公園として開園式が行われました。
敷地の広さは10,988坪2合、総工費86,500円あまりで開園当初、敷地内に東京郷土資料仮陳列館も併設されていました。今は南麻布5丁目という住所ですが私の小さい頃には、このあたりは盛岡町という町名でした。これは公園の敷地が江戸期には南部盛岡藩20万石の下屋敷で、明治になると町屋ができて町域となったことに因みます。


寛永江戸全図の浅野邸
盛岡藩はこの他、上屋敷を外桜田・中屋敷を鉄砲州、築地、愛宕下、三田寺町、木挽町、大崎等に、抱屋敷を大崎、上目黒に、蔵屋敷を芝田町、深川佐賀町に持っていました。上屋敷は江戸初期には幸橋にあり慶長17年(1612年)将軍秀忠も臨邸します。しかし、正保5年(1648年)に上地し、従来中屋敷であった外桜田に移ります。

当初下屋敷も赤坂氷川神社付近にあり、屋敷に隣接した坂を”南部坂”と呼びました。
そして正保2年(1645年)、芸州浅野家の分家で笠間藩(のち播州赤穂に転封)浅野内匠頭守麻布下屋敷と相対替(等価交換)することになり、浅野は赤坂へ、南部は麻布へと移転します。
約50年後の元禄15年(1702年)大石内蔵助は赤坂の南部坂で「南部坂雪の別れ」をしますが、相対替がなければ、雪の別れは麻布になっていたかもしれません。


盛岡藩(維新時は白石藩と改称)最後の藩主甲斐守利恭は廃藩置県によりこの敷地を手放し、2,3の手を経て明治29年有栖川熾仁親王の邸宅になります。この間、明治4年(廃藩置県)から29年の事はわかりませんが明治初期麻布は、大名屋敷跡地でお茶、桑の栽培や酪農、放牧が奨励されていたらしい(桑茶令)ので、この土地でもお茶や桑の栽培がなされていました。(後年、これらの事業は失敗し撤退していますが、維新後膨大な数の大名屋敷が主を失い荒れ地となったので、行政側も苦慮したと伝わります。)
江戸末期の盛岡藩南部邸


自ら志願して東征大総督となった(許婚皇女和宮が公武合体政策により将軍家茂正室となった事による?)有栖川熾仁親王は明治元年4月21日、江戸城に入ります。その後麻布に来るまで神田小川町(明治2年4月)、数寄屋橋(明治3年1月17日)、日比谷(同年12月3日)、芝(明治4年3月22日)、永田町(同年8月22日)、麹町区三年町5番地の隠邸跡などに屋敷を変遷し、1895(明治28)年参謀総長として日清戦争で赴任していた広島大本営で腸チフスのため薨去します。


明治29年、有栖川家は麻布盛岡町の屋敷に本邸を移しますが、この時すでに熾仁親王は逝去し、異母弟である威仁親王の代となっていました。そして跡取りの栽仁王は早世し、その後威仁親王も病により大正12年7月5日に逝去したので有栖川宮家は廃絶となります。しかし、大正天皇はそれを惜しみ第三皇子光宮宣仁親王に有栖川宮の旧称高松宮を名乗らせて祭祁を継がせます。(高松宮妃殿下は徳川慶喜の孫でその母は、有栖川宮家でした。)

明治16年の盛岡藩邸跡
芋・茶などの畑となっていました。

現在の公園広場にある「熾仁親王騎馬銅像」は、千代田区三宅坂の旧陸軍参謀本部(現在の国会前庭洋式庭園)にあったもので、1962(昭和37)年・東京オリンピックに伴う道路拡張のため有栖川公園の広場に台座ごと移されました。 
この銅像は1903(明治36)年10月10日に、大山巌、山県有朋らが発起人になり陸軍砲兵工廠で建設され陸軍参謀本部の庭に設置されます。 参謀本部は永田町有栖川宮本邸のすぐ前にあり熾仁親王像はその正面に設置されていましたが、これは熾仁親王が東征大総督であり、かつ初代参謀本部長、初代参謀総長を歴任した事から大日本帝国陸軍の祖として崇敬されていたためと思われます。


この像を製作したのは、ラグ-サお玉の夫ベンチェンッツオ・ラグ-サに師事し、ロ-マ美術学校を1888年に卒業し、日本で初めての本格的な銅像、靖国神社「大村益次郎像」などを作成した彫刻家の大熊氏広です。大熊氏広は工部美術学校を卒業したのち現在の憲政記念館南側に計画された有栖川親王永田町邸の新築工事の設計に加わります。
有栖川親王永田町邸と参謀本部騎馬像
この邸宅はイギリスの建築家コンドルの設計によるフランス・ルネサンス様式を用いた純洋風のもので、氏広は舞踏室の柱の和楽器類の彫刻と車寄せの前飾りの彫刻などを受け持ちます。

東京都の管轄だった有栖川公園も、昭和50年4月1日港区に移管されました。そして区立麻布テニスコ-ト、同麻布野球場を公園区域に編入し都立中央図書館施設を含めると総面積67,560㎡となり港区立の公園としては、最大の物となりました。

周辺には、愛育病院、麻布高校、ドイツ大使館、自治大学などがあり自治大学近辺は終戦まで海軍の監獄があったそうです。また公園に隣接するロ-ン・テニス・クラブは今上天皇陛下が結婚前に美智子妃殿下とテニスをして過ごされた場所です。

現在都立中央図書館となっている場所には、東京府養正館と呼ばれる建物ががありました。

熾仁親王騎馬銅像
これは東京府が今上天皇である明仁天皇が誕生したのを記念した皇太子誕生記念行事として1934(昭和9)年に35万円の資金で建てられました。その敷地は建設にあたって高松宮家から賜与されたもので、養正館の庭は高松宮により清風園と命名されました。建物は本館・講堂・静修室・寄宿舎からなり、青少年とその指導者養成に使用されました。1941(昭和16)年の地図にこの場所は「少国民道場」と記されており、麻布区史によれば、
青少年及び之指導に当る者に対し、国体観念を明微にし国民精神を作興せしむること

を目的とした施設となっていたようです。


そして戦後は日比谷図書館分室、都立教育研究所、日比谷図書館有栖川分室などを経て現在は都立中央図書館となっています。



熾仁親王騎馬銅像解説版

1975(昭和50)年、それまで東京都が管理していた公園は港区へ移管されました。私が小学生の頃、写生や、屋外授業でたびたび訪れ、また友達と釣りや虫捕りにもよく通ったが当時有栖川公園は都立公園で池での釣りは禁止されていました。そして頻繁に公園の管理員が巡回して、池で釣りをしている子供などは追い払われました。しかし管理員の姿が見えなくなると懲りずに、釣りをしていた私にとって思いで深い公園であり、当時の姿をほぼそのまま残している、麻布でも数少ない場所でもあります。










東京府養正館
























より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示
















2013年1月18日金曜日

賢崇寺境内の崖崩れ

大正10年(1921年)10月10日、それまでの豪雨により地盤の緩んだ賢崇寺境内で、正午過ぎ頃に高さ30尺幅40間にわたり轟音と共に崖崩れが発生し、これにより崖下にあった民家4戸が埋没し8戸が倒壊しました。

興国山賢崇寺

発生直後に坂下町会、警察、区役所、在郷軍人、消防隊などによって救助活動が始められ、次々と罹災者を救出しましたが崖に一番近かった家から4名、その隣家から3名の死者が出る大惨事となりました。

この災害に対し坂下町町会が300円、鍋島家が7千円、その他3700円の見舞金が集まり、一番近かった家の遺族に4500円、その隣家の遺族に3500円その他の災害者にも見舞金が贈られました。そして10月13日、麻布山善福寺において合同葬が盛大に営まれ、被害者の冥福が多くの人によって祈られました。なおこの災害によって坂下町町会役員は約1ヶ月間不眠不休の活動を続け、その副次的な産物として町会内に青年団が結成されたとあり、この頃から町会青年団が結成され、やがて関東大震災などで活躍することとなります。








より大きな地図で 麻布の寺社 を表示

 
 
 
 
 
 

2013年1月17日木曜日

芳川顕正の結婚

内田山・大隅山など麻布宮村町周辺は、明治・大正期には、当時権勢を誇った貴族・高官などが多く住むこととなります。元勲であり長州五傑でもある井上馨、がま池の所有者となる渡辺国武、竹谷町、新堀町、西町などに別邸を持った松方正義、大隅山の柳原白蓮で有名な柳原家、現在の中国大使館の敷地にあった後藤新平邸、そして前項心中事件でご紹介した伯爵の芳川顕正も内田山に屋敷を構えていました。

芳川顕正は、天保12年(1841年)12月10日に阿波の国(徳島県)麻植郡川田村で原田民部の4男として生まれました。18歳で史・漢・三国史を学び、その後医学を学び文久元年(1861年)医師高橋文昨の長女と結婚、養子となり長崎に遊学、長崎で医学の塾頭をしながら英学を学んだ後に徳島に帰って士籍に取りたてられます。
その後藩主、蜂須賀斉裕の命で再び長崎に官費生として戻り、明治元年(1868年)、藩からの召還を拒んで鹿児島に行き、医者をやめ海軍で翻訳に携わり姓も芳川と改めて「越山」と号します。
明治3年(1870年)伊藤博文に従い渡米。帰国後、外務少輔、東京府知事、外務大輔を歴任。その後も内務次官、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを務め、その功績により子爵、後には伯爵を授かることとなります。しかし大正6年3月7日娘「鎌子」の事件により内大臣を辞去。その後も枢密顧問官、皇典講究所長、国学院大学長などを務め、大正9年(1920年)1月10日没しました。

この芳川顕正が明治のはじめに大蔵省書記官であった頃、芳川は大蔵省の部下であり最も目をかけていた長尾氏に「美人であれば実家は貧乏でも構わないから省の仕事よりも、早急に妻となる女性を探せ。」と妻の候補探しを命じています。この時、高橋文昨の長女と何故、離別していたのか不明だが、とにかく部下に妻の候補を探させたこととなります。

栄久山大法寺(大黒天)

妻の候補探しを命じられた長尾氏は、これを出世の糸口と喜んで引きうけ、まわりの官員達も羨望のまなざしで長尾氏を見つめました。しかし親戚知己、出入り商人などあらゆる所に声をかけますが、なかなか適当な女性が見当たませんでした。日々芳川からの催促が厳しくなり、当初の「出世の糸口」が「首をかけた仕事」に変貌して、やつれ果てた長尾氏が「土地の神様に願をかけてみては?」というの申し出から麻布十番の 大黒様(栄久山大法寺)に日参をします。

※大黒様とは日蓮宗・栄久山大法寺(港区元麻布1-1-10)のことで、この寺の尊像が伝教大師作「三神具足大黒尊天」であることにちなみます。この尊像は享保15(1730)年六本木の旧家伊勢屋長左エ門がある夜霊夢により授かったものを大法寺に奉納したと伝わっています。
これにより現在の港七福神巡りの大黒天として知られています。

そして満願の日、長尾氏がいつものように大黒様に行ってみると、境内の休み茶屋でお茶を飲んでいる母親と供に座っている美しい娘が目にとまりました。これは!と思い近づくと茶屋の婆と親子は懇意な様子で、どうやらしんみりと別れの挨拶をしているところでした。
この母娘は元武家で、東京での生活が成り立たなくなって「知行地」に都落ちする事を涙ながらに語っていました。
この娘なら芳川のめがねに叶うと「つかぬことをお伺い致しますが.....。」と親子に話しかけ、その流れでそれとなく芳川の妻探しを打ち明けると、母親は「そう言う方に娘が貰われたら、この上もない出世です。こんな嬉しいお話はありません。」との喜びようでした。
早速帰って、芳川に話すと「そういう境遇の女なら、かえって良い。妻に申し受けよう。」と話がまとまり、吉日結婚式がとり行われました。その後、長尾氏は肩の荷が下りて「もうこりごり」と言ったといいますが、その後本当に出世したのかは不明です。またこの女性が芳川鎌子の母親にあたるかどうかはわからないそうです。この話は「幕末明治女百話(下)」に掲載されていました。















より大きな地図で 初詣・港七福神・麻布稲荷七福神マップ を表示