2013年2月28日木曜日

龍土軒と二.二六事件・外伝その2

龍土軒があった場所の現在
新龍土町12番地にあった「龍土軒」はフレンチの草分であり創業は明治33(1900)年といわれています。明治から昭和期にかけて文人・洋画家・高級軍人などのサロンとして評判となっていましたが、柳田国男邸に集まっていた「土曜会」の田山花袋、蒲原有明、国木田独歩らが龍圡軒に集会所を変更して、明治39(1906)年 5月から「龍土会」と称しました。また後年の大正4(1915)年には、岩野泡鳴、徳田秋声、近松秋江、小山内薫らによる第二期龍土会の会場として使用されりようになります。
そして、場所的に第一連隊(現東京ミッドタウン)と麻布三連隊(現国立新美術館)に挟まれた地域にあった龍土軒は、高級将校や将官なども頻繁に使用し、中でも乃木将軍は贔屓にしていたようで来店の他にも、店からほど近い自邸(乃木坂)の来客時には龍土軒から出前を取ったといいます。 また昭和期には歩一、歩三、近歩三からもほど近いため、二.二六事件首謀将校の謀議なども軍人客が多くかえって目立たないため、この龍土軒で行われていました。

昭和44(1969)年「龍土軒」は西麻布交差点付近(西麻布1-14-3)に移転しましたが、さらにビルの高層化建替え工事により、2010年9月現店舗のリニュアルオープンとなりました。

終戦後の龍土軒
この龍土軒で密議をこらした二.二六事件首謀将校でしたが、店主によると会合時の注文は至って質素な内容で、料理を1品程度注文するか、茶菓程度しか提供されなかったとのことです。しかし店主はそのような使用方法でもいやな顔もせずに場所を提供していたそうで、これは「軍人の主義主張は商売とは関係なし」としながらも店主は生真面目な蹶起将校たちを好ましく思っていたことからの厚遇とされています。そしてその支払いも所属連隊の経理課経由月末決済で各自の自腹でおこなわれていたようです。
当初将校たちの集会目的は「相沢公判を聴くの会」と呼ばれる永田軍務局長殺害事件の公判についての会合でしたが、裁判が傍聴禁止となって情報が入らなくなったことや、自分たちの所属する第一師団の満州派兵が間近に迫ったことからやがて会合の性質が変化したといわれています。
そして最後の集会は参加を逡巡する安藤大尉に蹶起参加を迫る内容であったといわれており、実際にも遠藤大尉が蹶起参加を決心したのは直前の2/22日といわれています。しかし、一方では安藤大尉が中隊長を務める歩兵第三連隊第六中隊は別名「宮様中隊」とも呼ばれていたとおり過去に秩父宮が中隊長を務めていたことがあり、安藤大尉はこの青年将校たちの主張に肯定的であったとされる秩父宮に可愛がられていた関係があるとされており、蹶起への参加決意はもっと早い段階で行われていたとの説もあります。
元地竜土町で建て替え後の龍土軒
この秩父宮は赤坂御所に住んでおり、特別な行事の際には龍土軒からの出前を好んでいたといわれています。そして安藤大尉は夜の連隊長と呼ばれる「週番指令」の立場にあったので、安藤大尉の参加なくしてあのように多くの兵員を麻布三連隊から出すことは不可能であったと思われます。このようにして龍土軒を多用した蹶起将校たちですが、2/12の会合では憲兵が内偵に入り、以降集会は栗原中尉自宅などが使用されます。

安藤大尉が最後に龍土軒を訪れたのは2/19深夜といわれています。安藤大尉は店に入り店主が不在と聞くと店主夫人を呼び、店から融通されていた借金の清算を済ませます。そして何故か外套のボタンの修繕を店主夫人に依頼し、謝辞を言って帰ったそうです。そして翌日にはやはり歩三の坂井が私服で店の前にたたずんで、店主の息子に「元気でな」と別れを告げたそうですがこれらは彼らなりの送別の意味があったのかもしれません。そしてこれらから店主は蹶起が近いことを察したようですが、全く口にはださなかったそうです。そして事件当日早朝に大勢が店の前を通過する音を聞いたのが彼らとの最後となったそうです。
事件が勃発し、収束すると龍土軒にも縁のある文人たちが蹶起将校を、

 
○吉川英治

    くにたみは歌うたふよりすべもなく
         戒厳令下 春いかんとす

○北原白秋

    直に射つ銃をそろへてありしとき
         兵らいづくをか ねらいさだめし

○斎藤茂吉

    号外は死刑報ぜりしかれども
         行くもろつびと ただにひそけり
  
西麻布に移転後の龍土軒
などと詠みました。
蹶起から約五ヶ月後には中核将校の死刑が執行され、心を痛ませつつも龍土軒の店主はその成仏を祈るしかありませんでした。

事件の翌年7月12日の夜、一人の僧形の客が竜土軒を訪れました。その客は食事を済ませると店主を呼び、自分が栗原中尉の父親であることを小さな声で名乗りました。そして、

自分は事件の後に賢崇寺の藤田師の導きで仏門に入り「如山」と号していること、
今日が銃殺から一周忌であること、
遺品の中に密かに龍土軒宛に託された紙包みがあること、

を告げました。その紙包みの中は和紙に書かれた寄せ書きで、




龍土軒ノ為ニ残ス

百千度この土に生れ皇国に
             仇なす醜も伏しすくはむ
渋川光祐(善助)
憤焰冲天林少尉
正繁田中勝
鬼哭愀々丹生中尉
比家嘗壮士集
       正大之気発生
栗原中尉
理非法権天香田大尉
忠義 坂井中尉
大義不滅天地間中橋中尉
大君の御代をかしこみ千代八千代
            万歳万歳万歳
高橋少尉


昭和十一年七月十二日
午前三時










と記されていました。
死刑執行直前の寄せ書きに竜土軒の店主は目頭を熱くしたそうですが、
いくら捜しても安藤大尉の名はなかったそうです。







※ 龍土軒の名称に使われている「土」は 本来旧字の「土」に「、」がついた「圡」ですが、
  この漢字は機種依存文字のため便宜上「土」を使用しました。

   


     龍土軒 → 龍圡軒


















西麻布で立て替え中の龍土軒










休業説明板



















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2013年2月27日水曜日

二.二六事件・外伝その1

麻布三連隊跡地の一部に
建てられた国立新美術館
先日二.二六事件関係の資料を探していて、おもしろい写真を見つけました。
国立新美術館ロビーに設置された麻布三連隊兵舎模型には、西側にわずかですが笄川が流れ、市電7系統が走っている姿が造られています。

この7系統は品川駅前~四谷3丁目間を走っていて、現在の都バス品97系統(四谷3丁目~新宿駅西口以外)とほぼ同じ経路となります。
写真の模型も都電にしてはやや横幅の薄い車両が走っていますが、私が記憶する昭和40年代初めにもこの系統には、7000形や8000形のわりと細身の電車が走っていた記憶があります。

天現寺橋から北青山一丁目までは都電には珍しい「専用軌道」となり、天現寺霞町間は道路の西端に設置された都電専用の路線を走っていました。
日赤病院で生まれた私の最初の記憶は、3歳頃宮村町の自宅から日赤病院まで何かの検診を受けに行く行程で大隅坂を登り、北条坂を下って都電の線路を病院下の踏切で渡って堀田坂を上るというものでした。このときに病院下あたりの寂しい風景は今でも記憶に残っており、都電が道路の真ん中ではなく車道とは杭ではっきりと分けられた専用の軌道を走っているのが不思議でなりませんでした。

麻布三連隊兵舎模型

戦前は麻布三連隊辺を通過するときには鉄砲山といわれたあたりから射撃練習をする砲声が聞こえたと伝わりますが、戦後同敷地は米陸軍第一騎兵師団が駐留しBC級戦犯の銃殺刑が行われていたことはあまり知られていません。

さらに時代が下って昭和40年代前半には現在の都立青山公園は立ち入り禁止の空き地で鉄条網で覆われていました。しかし、子供たちはその鉄条網の破れ目を探して進入し、草で覆われた小高い丘を登って頂上の広場(現在の米軍ヘリポート)に着きます。
しかし、やっとたどり着いた広場で先に野球を始めている少年や、Uコン飛行機を飛ばしている高校生などに遭遇すると、今までの努力は無駄となりすごすごと山を降りることとなります。しかし、野球用具を持参している少年たちにとって諦めきれず、地面がジャリびきで草野球にはあまり適さない第一製パン跡の空き地(現在の麻布税務署敷地)などに向かうこととなります。









笄川と市電7系統











模型エンブレム







模型解説板











薄皮一枚で保存された元兵舎
 






昭和期に少年たちが遊んだ麻布三連隊跡の広場
(現・赤坂プレスセンター・米軍ヘリポート)






都電と麻布三連隊兵舎(昭和37年)






昭和37年の墓地下








笄町あたりの都電専用軌道





★追記2012.03.02


◎謎の弾痕


昨日国立新美術館脇で保存されている旧麻布三連隊兵舎内部を見学に出かけました。しかし、図書室の新設工事が始まっていて残念ながら入り口に展示された兵舎模型と内部図しか見ることが出来ませんでした(内部公開は工事が終了する四月から再開されるようです)。そこでもう一つの疑問解明のため政策大学院大学側にまわって、兵舎正面を見学しました。
兵舎正面入り口のスロープ
以前、この兵舎へと入るスロープに「弾痕」が残されていることを記述したサイトを見つけましたが、なんとその記事には、

「国立新美術館別館の入り口周辺には二・二六事件の弾痕が残る」

と題されています。しかし、私が調べた限りでは二二六事件では麻布三連隊隊舎で発砲などなかったので、私にはこの記事タイトルが非常に奇異に感じました。
そこでロビーで案内をしていた学芸員2名に伺いましたが、

  • 弾痕といわれているが詳細は不明。  
  • ある意味で都市伝説のようなもの? 
  • 二二六事件との関係は不明。

とのことでした。
この傷跡をよく見ると右側外面・内面、左側内面に傷がありますが、左側外面にはほとんどありません。このことから、もし弾痕であるならば、そうとう広範囲から撃たれていることになります。
また規則的に並んだ傷があり、弾痕だとすると機関銃のような連続射撃の弾痕だと推定されます。
しかし一方では、目視した限り弾痕にしては一つ一つの傷跡が小さいような気がします。
これが弾痕だと仮定すると、
スロープ左面内側の「弾痕?」
  • 二二六事件でこのような広範囲な銃撃戦が行われていれば、記録に残っているはず。
  • 連隊の射撃練習場は模型を見ると隊舎南西側にあり、このスロープまで銃弾は及ばない。
  • ライフルの銃弾として傷がは小さすぎると感じるが、拳銃では連続射撃は出来ない。
  • 戦後米陸軍第一騎兵師団が駐屯していたので、何かの気まぐれで銃撃をしたとも想像できなくもないがその場合も弾痕としては小さすぎる。(当時の米軍の正式拳銃はM1911A1、ライフルはM1ガーランドかM1カービン、機関銃はグリスガン、トミーガン)などですが、いずれも口径の大きな銃弾を使用しています。

などが考えられますが、真相は謎に包まれています。








スロープ右面外側の「弾痕?」



























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2013年2月26日火曜日

二.二六事件と興国山賢崇寺

興国山賢崇寺 二.二六事件慰霊祭
昨日は、二.二六事件の概要と、麻布付近の連隊が中心となってクーデターを起こしたことをお伝えしましたが、事件の処理は軍事法廷で行われました。その中で基本的に兵は無罪とされましたが、蹶起した将校など17名に死刑判決が下り、わずか五日後の七月十二日、代々木の陸軍刑務所内北西に設置された刑場で銃殺刑が執行されました。

当日の銃殺刑執行に当たって、隣の代々木練兵場では空砲を使った射撃練習を行い、刑執行の銃声を消そうとします。しかし、射撃練習中の兵士には実弾発射音と空砲の音の区別はついていたといわれています。
刑の執行は五人一組で行われ、

○午前七時香田清貞大尉・安藤輝三大尉・竹嶌継夫中尉・対馬勝雄中尉・栗原安秀中尉
○午前七時五十四分丹生誠忠中尉・坂井直中尉・中橋基明中尉・田中勝中尉・中島莞爾少尉
○午前八時三十分安田優少尉・高橋太郎少尉・林八郎少尉・渋川善助・水上源一

の十五人の刑が執行されました。しかし二.二六事件で死刑宣告を受けていたその他、元歩兵大尉の村中孝次と元一等主計の磯部浅一は北一輝西田税の裁判で証人となっていたため刑の執行が延期され、北らの裁判が結審し死刑が確定すると8/19に北・西田らと共に銃殺刑が執行されました。


興国山賢崇寺 二十二士之墓

これら二.二六事件死刑囚は刑が執行された後に遺骸はただちに遺族に引き渡されました。しかし、憲兵隊、特高警察などが監視し、最寄り駅での下車は遠慮せよとか、葬儀は行うななどの嫌がらせを繰り返し、ほとんどの菩提寺が遺骨の埋葬を行えない状態となってしまったようです。
これに対して事件勃発以降、息子栗原安秀中尉のクーデター参加を知った父の元陸軍大佐・栗原勇は総持寺で仏門に帰依し(直接賢崇寺に帰依したとの説もあります)、事件関係者遺族の連絡会「仏心会」を結成します。また栗原氏は佐賀県出身でもあったので、総持寺の末寺であり、また旧知の檀家でもあった賢崇寺を訪れて、住職の藤田俊訓師に息子の遺骨を賢崇寺へ埋葬することを相談しました。すると藤田師は即座に許可し、後には同じように国賊扱いをされて行き場のなくなった事件関係者の慰霊をすべて引き受けることとなりました。

興国山賢崇寺佐賀藩初代藩主の鍋島勝茂が疱瘡で亡くなった息子の鍋島忠直を弔うために建立された寺です。寺号は息子忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇大居士」から「興国山賢崇寺」とし、歴代佐賀藩主鍋島家の菩提寺となっていました。

そして、それまでの賢崇寺は佐賀県人しか埋葬されることを許されませんでしたが、藤田師が周辺住民も檀家となることが出来るように改革を行います。

この二.二六事件中核将校の遺骨を葬ることを決めたときから頃から賢崇寺は特高警察と憲兵隊に目をつけられ、様々な迫害をされたようです。しかし、藤田師はそれらをはねのけて7月12日の15名が死刑を執行された日から数えて百か日となる10月19日に法要を執り行うことを決定します。
しかし、当局は遺骨の戒名にまで介入し、その結果各菩提寺の戒名が不統一でしたので、賢崇寺にてそれらをすべて院号に統一し位牌をつくりました。

野中四郎 直心院明光義剣居士
河野 寿 徹心院天岳徳寿居士
香田清貞 清貞院義道日映居士
安藤輝三 諦観院釈烈輝居士
竹島継夫 竹鳳院神厳継道居士
対馬勝雄 義忠院心誉清徳勝雄居士
栗原安秀 至誠院韜光冲退居士
中橋基明 至徳院釈真基居士
丹生誠忠 丹節院全生誠忠居士
坂井 直 輝証院釈直入居士
田中 勝 解脱院勝誉達空一如居士
中島莞爾 堅節院莞叢卓爾居士
安田 優 安寧院丹田優秀居士
高橋太郎 高忠院水橋不流居士
林 八郎 誠徳院一貫明照居士
渋川善助 泰山院直指道光居士
水上源一 源了院剛心日行居士



当日は赤坂憲兵分遣隊から憲兵が、警視庁と鳥居坂警察署からは特高刑事が警備と称して多数詰めかけました。しかし、賢崇寺の本山である総持寺貫主、曹洞宗大本山永平寺貫主からも香語(仏前で唱える言葉)が送られ、曹洞宗の各寺から賢崇寺に派遣された伴僧は16名に上り、文字通り曹洞宗が宗派をあげて藤田師を支援しました。このようにして始まった法要は45名の遺族が参列し、本来妨害するために来ていたはずの特高刑事たちも藤田師の勧めに従い法要に参加したそうです。

事件関係者の量刑と執行
そして何事もなく無事に終わった法要は、その後も合同慰霊法要として月命日の12日、周忌法要、2月26日、7月12日の慰霊祭として現在も続けられています。
また2月26日の法要では蹶起将校の慰霊に止まらず、犠牲となった重臣、警護警察官なども慰霊されるようになりました。そして、憲兵隊、特高警察による妨害はその後も終戦まで続きますが、藤田師は毅然として法要を続けたそうです。遺族から預かった遺骨は本堂に安置されていましたが昭和20年4月15日の空襲で本堂が罹災全焼し、遺骨も焼けてしまいます。しかし、遺骨を入れていた厨子の破片から遺骨を探し出し、再び納骨しました。それらの遺骨は現在「二十二士之墓」となって賢崇寺墓域に埋葬されています。

二十二士とは自決将校2名に事件関与死刑者19名、そして二二六事件とは直接は関係ありませんが、やはり陸軍内部の皇道派統制派の確執から陸軍省軍務局長の永田鉄山少将殺害犯とされ、ほぼ同時期に死刑が執行された歩兵第四一連隊(広島)の相澤三郎中佐が眠っていることに由来します。

また、「十番わがふるさと」によると、昭和20年に麻布山地下壕を掘削していた海軍部隊で、終戦時に部下から恨まれていた兵士が賢崇寺にリンチを恐れて逃げ込んだとの記述があります。


~とにかく陸戦隊のやる仕事だ、素人であり失敗もある。ある時、賢崇寺の深い井戸の底を抜いてしまい、掘っている兵も大洪水にびっくりしたが、寺も水がなくなり困った。兵達も壕から月がさし込むので、風流な兵士が「井戸の蛙とそしらばそしれ月もさし込む花もちる。」と、都々逸まがいで唄ったかもしれない。仕事は突貫工事だから、下級の兵はかわいそうで見ていられない。陸軍で経験のある地元の熊田さんも、表道りで叱られている兵士を見ると幾度かたしなめたと言っていた。このなかに特にひどく怨まれたのがいた。

兵隊たちは、おりあらば叩き殺してしまおうと、相談していた。終戦の翌日、方丈は仏像のあるバラックで一人自炊の夕食をしていた。そこへ一人の海軍兵士が、色青ざめた顔をして恐る恐るはいってきた。夕食中の方丈は、兵士のただならぬ様子に箸をおいてたちあがり入り口にいって「何事ですか」と問うと「私は今、殺されようとしています」「助けてください」と身をふるわせている。「私は南山小学校の兵舎で、仕事をしている海軍の兵士です。部下に無理な仕事をさせ虐待しました。軍の解散命令とともに、部下がこぞって上官である私を殺そうとしているのを知り、このお山に逃げてきたのです。私を追って後からすぐ来ると思います。かくまってください」と手を合わせている。

そうしていると、下の方から数人の声とともに、石段を登ってくる足音が聞こえてきたので、方丈は「とにかくここへお入りなさい」と、男を仏壇の奥へ押し込んだ。そして膳の前へすわった時、表から兵士が七、八人飛び込んできた。そしてやにわに「坊さん、ここへ今一人の兵士がきたでしょう」と威丈高に声をはずませた。方丈は、静かに立ち上がり入り口まで出て、これらの兵士を見まわし「兵士のごときはこないが、何かあったのかな」と言うと、「たしかにこの山に来たのを見たのです」と兵士達は、室の中へたちいろうとしているのを見て、方丈は剣道五段、しかも陸軍志願で鍛えた声で、大喝して言った「何事か!君たちは住職の私が言っている事が信用できんのか。だったらこの山から出て行くがよい。注意のため言っておくが、このお山は鍋島藩の殉死した葉隠武士が多く眠っている所だ。たとえ本人がいても暴力を加える事は許さんぞ」と禅で鍛えた声で厳然たる態度で、彼らを睥睨(ヘイゲイ)したので一同は黙ってしまった。

上官らしいのが「わかりました」と答え、「失礼いたしましたお許しください」と慇懃に挙手の礼をして同行十人ばかりと山をおりていった。一時間ほど間をおいて、仏壇の奥から兵士を出して、うれしなきに泣いている彼に向って過去のことは一切水に流し、一時も早く親元に帰りなさいと諭した。地獄で仏に出会った彼はいくかどか方丈に最敬礼をしていそいそと山をおりていった。八月の月は何事もなかったように、静かに山を照らしていた。~



という終戦時のエピソードも残しています。










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2013年2月25日月曜日

二.二六事件

明日の二.二六事件慰霊祭に向けて二日間お届けします。

蹶起部隊比率
太平洋戦争が始まる五年前の1936(昭和11)年2月26日未明、雪の東京で陸軍若手将校がク-デタ-を起こしました。第一師団の歩兵第一連隊歩兵第三連隊と近衛師団の近衛歩兵第三連隊が中核になり1,558名の将兵が昭和維新といわれたクーデターに蹶起(けっき)しました。

この中で特に歩兵第三連隊(現・国立新美術館政策研究大学院大学米軍ハーディバラックス都立青山公園)は正式名称が第一師団歩兵第二旅団歩兵第三連隊でしたが、通称は「歩三(ほさん)」、「麻布三連隊」とよばれ青山墓地の前(新竜土町)に駐屯地がありました。私は戦後生まれですが、子供の頃(昭和40年代前半)は、連隊跡地で現在は米軍ヘリポートとなっている場所は広い原っぱで、休日にはラジコンやUコンの飛行機を飛ばしている人でにぎわっていて、私たちはその片隅でよく草野球などをしていました。

また歩兵第一連隊(正式名称:第一師団歩兵第一旅団歩兵第一連隊、通称:歩一[ほいち])も江戸期の長州藩邸~陸軍東京鎮台~陸軍第一師団~防衛庁~東京ミッドタウンと変遷を重ねた場所にあり、明治初期には乃木希典も連隊長を勤めた日本陸軍の筆頭連隊です。この歩兵第一連隊の場所(現・東京ミッドタウン)はやはり私が小学生であった昭和40年代には防衛庁とその裏手は桧町公園があり、この公園の池では付近の池(がま池、有栖川公園池、ニッカ池)にはまったいなかった「タナゴ」が生息しており、タナゴ針をつけた竿や四つ手網、セロビンなどで釣り上げては喜んでいました。またこのあたりはプラモデル購入の聖地でもあり、防衛庁前の路地を入った場所には当時のモデラーの聖地でもある「ふじかわ」があり、また一部の者は防衛庁内の購買部で割引されたプラモデルを買っていました。
参加人員内訳
近衛歩兵第三連隊(通称:近歩三[きんぽさん])は、乃木坂を下った現在のTBSあたりにあり、これらの連隊の所在地は極めて近い場所にありました。そして、事件の密議は、一連隊と三連隊の中間にあった明治33年開業のフランス料理「竜土軒」で行われていました。

ク-デタ-は、午前5時に一斉に開始され、

栗原隊......総理官邸襲撃、岡田総理と誤認した義弟の松尾大佐を射殺。
中橋隊......赤坂の高橋是清蔵相私邸を襲撃、同蔵相を射殺。
坂井隊......四谷の斎藤実内大臣私邸を襲撃、同内相を射殺。
高橋隊......荻窪の渡辺錠太郎教育総監私邸を襲撃、同総監を射殺。
安藤隊......麹町の鈴木貫太郎侍従長官邸を襲撃、同侍従長は重傷。(何故か安藤大尉がと どめをしなかったため。)
野中隊......警視庁占拠。
丹生隊......陸軍省、陸軍大臣官邸、参謀本部占拠。
河野隊......静岡県湯河原の牧野伸顕前内大臣を襲撃。
襲撃目標
などを襲撃しました。彼らは、政治、軍部の中枢である永田町を完全に占拠し、川島陸軍大臣に決起趣意書と7項目からなる要望書を提出して昭和維新の断行を迫ります。
しかし天皇の逆鱗にふれたため、3日後に反乱軍となり16倍の24,000人の鎮圧部隊と芝浦沖で永田町に照準をあわせた長門、山城、榛名、扶桑など戦艦4隻をはじめとする連合艦隊の第一艦隊十数隻の警備の中、投降を始めます。しかし、山王ホテルに立てこもった歩兵第三連隊第六中隊の安藤輝三大尉指揮下の安藤隊は投降を拒否。安藤大尉は事件の決起をギリギリまで渋ります。この安藤大尉が蹶起部隊への参加を決意したのは事件直前の2月22日であったといわれています。これは「天皇陛下の軍隊を私的に使用して良いものか?」という疑惑から躊躇していましたが、部下が参加する決意をしたことにより自身も参加を決めたといわれています。

しかし蹶起への参加を決めた後にはその決行の最右翼となりそれだけに決起の意志は固く、部下の信頼も厚かったので、部下を投降させた後に自身は投降よりも「自殺」を選びます。先に投降した同志の将校や伊集院大隊長の説得にも屈せず、2月29日午後1時、部下158名をホテルの中庭に集め、第六中隊の歌を合唱する中ピストルで自決しました。しかし、部下に飛びつかれて急所を外し一命をとりとめました。安藤大尉の部下は貧しい農民の子弟が多く、彼自身もこうした部下達に給料の大半を使うため生活は大変に苦しかったと言われ、こうした部下達の悲願から立ち上がった事と、逆賊として部下達を死なせる矛盾から「死」を選んだものと思われます。その後原隊である第三連隊はトラックを派遣して第六中隊兵士の収容をはかりましたが、158名全員がこれを拒否し、整然と行進して麻布の三連隊兵営まで帰ったといわれています。

保存された麻布三連隊兵舎
一方、このク-デタ-の将兵1483名の内訳は、将校20名、准士官2名、見習い医官3名、下士官89名、兵士1360名、民間人9名でした。この兵士1360名の内1027名は事件の47日前に入営し敬礼と整列ができる程度の新兵であり、その中のほとんどの者は上官の命令により通常訓練だとして参加させられました。この新兵の中には警視庁襲撃に参加させられた落語家柳家小さん師匠がいたそうです。

また歩兵第三連隊新兵の身出地は埼玉県全域と東京の浅草、足立、荒川、本所で農家や職人の子弟が主であり、当時の暮らしの状況でも「中」か「下」の子弟が圧倒的に多かったといわれています。
事件後3月8日軍法会議が特設され、将校20名下士官88名の取り調べが代々木の陸軍刑務所で始まります。一方兵士の取り調べも近衛師団で開始されますが、全国から無罪の嘆願書が寄せられ、憲兵隊扱いだけでも郵便515,368通、電報805,110通に及んだそうです。

その後の判決により、首謀者17名は死刑、69名が有罪となります。兵士は不起訴となりますが、第一師団の満州移駐と共に前線へと駆り出されました。最後まで投降をためらった第三連隊第六中隊はチャハル侵攻作戦の激戦地に投入され、中国正規軍との3ヶ月にわたる戦闘で600人の戦死、負傷者を出します。これは、日中戦争の中でもずば抜けて多いといわれています。軍は「事件に参加した兵は寛大に処置すべし」との方針でのぞんだことが当時の記録にも残されていますが、一般の兵の平均招集回数が2回であるのに対し、第六中隊は3回から4回も招集されたものが多かったそうです。
国立新美術館ロビーに展示されている
麻布三連隊隊舎模型
この陸軍青年将校の蹶起は直接的には第一師団の満州派兵が引き金になったというのが定説ですが、その遠因は陸軍内部の派閥抗争で、1921(大正10)年の「バーデンバーデンの密約」とされています。また蹶起の首謀者を陸軍高官や皇族とする説もありますが、いづれも定説となるほどの証拠は見つかっておらず、現在も深い謎に包まれています。

反逆罪で死刑を執行された遺体は憲兵隊、警察に監視下にあり遺族の引き取り、埋葬も間々ならなかったそうです。状況を見かねた栗原隊、栗原中尉の父親の栗原大佐は自ら麻布の賢崇寺に弟子入りして仏門に入り遺族間の連絡に終始し、賢崇寺に墓碑を建立し、銃殺刑が執行された7月12日に慰霊祭の法要が営まれました。
この興国山賢崇寺のおはなしは明日お伝えする予定です。





鎮台から師団






第一師団






近衛師団










1987(昭和62)年、元・近衛歩兵第五連隊と元・歩兵三連隊有志
により都立青山公園最上部に建立された「麻布台懐古碑」
 
 
 
 
 
 
 
 
麻布台懐古碑 碑文
 




第一師団第一連隊跡地
長州藩邸~東京鎮台~第一師団~
防衛庁~東京ミッドタウンと変遷した土地

















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2013年2月24日日曜日

添え乳、母の霊<芝金杉>

今回も明治期の新聞記事からで、明治24(1891)年4月5日の「母の霊、愛しい子に添え乳」と言う記事の要約をご紹介します。

芝金杉町3丁目12番地の油屋、鈴木久米蔵の妻おたかは明治23年11月に男の子を出産したが産後の肥立ちが悪く、12月の始め頃亡くなってしまいました。夫の久米蔵は大変に悲しみながら妻の野辺送りを済ませ、懇ろに葬りました。しかしそれまで妻に手伝わせていた家業も手数が足りなくなり、赤ん防の世話が出来なくなってしまいます。
芝金杉町
困りきった久米蔵はある人にいくらかの手当てを払い、子供の面倒を見てもらうことにしました。ところが子供を預かった家ではその晩から赤ん坊が火がついたように泣き続き、数日後には手におえなくて赤ん坊は久米蔵の元に返されてしまったそうです。しかし、久米蔵の家に戻ると赤ん坊は何も無かったように機嫌が直り平穏が続きました。久米蔵は赤ん坊を預けた家が手が掛かるので面倒になり返したのだと思い、新たな預け先を見つけました。しかし、ここも手におえないと返されてします。その後、幾度も預け先を変えましたがその都度、赤ん坊は夜になると火がついたように泣き、手におえないと言って返されてしまうので、ついに久米蔵は赤ん坊を預けるのを諦めて、自分で育てる決心をしたそうです。すると赤ん坊は何事も無かったかの様に夜もおとなしくなりました。

ある晩、久米蔵は赤ん坊を寝かし付けてから店をかたずけて、再び家に戻ってみると赤ん坊の横には亡くなった妻のおたかが、添い寝して乳をあげています。驚いた久米蔵が大きな声を出すと、近所の人たちが何事かと集まってきました。そこで、久米蔵が今までのいきさつを話すと、これまで赤ん坊を他家に預けてもすぐに泣き出してしまったのは、おたかが我が子を育てようとした一念であったのだろうと近所の大評判となったそうです。

2013年2月23日土曜日

四国町のポルタ-ガイスト事件<三田四国町>

今回は東京朝日新聞(現、朝日新聞)に掲載され後、「日本怪奇物語」と言う本で「夜半に室内の道具が動き出して百鬼夜行」として掲載された話をご紹介します。

1890(明治23)年九月上旬、芝区三田四国町二番町へ引越してきた宮地一家(主人48歳、長男7歳、長女10歳)3人は、引越した当初は平穏な暮らしを営んでいました。しかし10月10日頃から夜になると不思議な事が起こりだしたそうです。

まず部屋にある煙草盆、火鉢などがゆらゆらと自然に動き出し、天井に吊り上げられたり、台所の米びつや、すり鉢、釜、茶碗などがまるで生きている様に踊りだしたりしました。またある時は、家族が寝ている天井から米や灰が降ってきたりもしました。こんな事がしばらく続くと子供達はすっかり怖がってしまい父親もあまりの怪奇さに困り果て、今度動き出したら切ってしまおうと枕元に包丁を置いて寝ると、その包丁までもが部屋を飛び回り始めたそうです。ほとほと困り果てましたが、怪奇現象はなおも続き、縁の下から按摩の笛が聞こえたり、戸や障子がリズムをとって鳴り出したりしたそうです。
仕方が無いので父親は高輪警察に訴え出ると共に、祈祷師に御払いを依頼したそうです。
しかし、残念ながらその結果どうなったかは記されていません。





2013年2月22日金曜日

元和キリシタン遺跡<芝・札の辻>

元和キリシタン遺跡碑
2007年ころ、所用で札ノ辻を通りかかったところ元の旧芝浜中学跡地の隣接地(阪急ホテル~都ホテル跡地)に「三田ツインビル」という新しいビルができている事を知りました。

広々とした庭には聖坂を登ったあたりに出られるエレベーターも完備され、月の岬・亀塚・済海寺などに行くのが大変便利になっています。そして、庭の北側隅に碑があるのに気づきました。碑には「都旧跡 元和キリシタン遺跡」とあります。
碑の横の説明を読むと、三代将軍家光の頃にキリシタン信者の処刑が行われた地と書かれており、興味を持ったので帰宅後に参考となる書を調べましたが、
江戸初期の刑場で、東海道の江戸入り口(芝口)である同所で、多くの通行人に見せしめるための刑場として移用された。その中でも数度にわたる三代将軍家光のキリシタン磔刑場所として使用されたことは有名。その後江戸の膨張に伴い承応三(1654)年ころ鈴ヶ森に移転し、明治4(1871)年まで刑場として使用され二十万人あまりが処刑された。
という情報くらいしか見つけることが出来ませんでした。そこでネットで検索すると、非常に興味のある文章に出くわしました。それはカトリック東京大司教区サイトの教区ニュース 2007年3月号にありました。今回はカトリック東京大司教区広報部様のご厚意で転載の許可を頂いたのでご紹介させて頂きます。




碑文








碑文





































原主水の生涯 (6)   高木一雄




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+ 処刑の日時と場所
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 元和9年 (1623) 閏8月24日、 第3代将軍に就任したばかりの徳川家光が京から江戸に帰った。 
そして9月7日父親である前将軍徳川秀忠も江戸へ帰った。 そこで将軍徳川家光は父の助言や老中土井
利勝(どいとしかつ)、 永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さかいただよ)などの意見を容れて10月
13日 (12月4日) の仏滅日に牢内のキリシタン50人を火焙りにするとした。 そして刑場を選ぶの
には猶も30日間を要したわけであった。 
その頃、 江戸の刑罰場(けいばつば)は千住街道沿いの旧鳥越村から蔵屋敷造成のため浅草山近くの
新鳥越村 (台東区浅草七丁目) に移されたばかりであった。 だが、 そこは残酷極まりない火焙りを行なう
場所ではなかった。 それに江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所としては最も賑わいのある東海道入り口
の芝口にある広場しかなかった。 そこで江戸城から一里半の札の辻 (港区三田三丁目) の山の斜面に決定
したわけであった。

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+ 火焙りの準備
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 元来、 火焙りの刑は最も重罪とされ、 放火犯人だけに適用されていた。 その方法は 『刑罪大秘録』 
によると磔刑とは異なり一本の柱 (長さ二間の五寸角) に釣竹で固定して縛るのであった。 磔刑の場合
だと縄で縛りつけるが火焙りとなると焼けてしまうからであった。 また、 『刑罪書』 によると 「火罪壱
人分御入用」 として 「薪二百把、 萱七百把、 大縄二把、 中縄十把」 とある。 従って50人の火焙りとなる
と厖大な量の薪や萱を準備するのであった。 
次に立ち合い人は北町奉行島田次兵衛利正(しまだじへいとしまさ)、 南町奉行米津勘兵衛田政(よねづ
かんべえたまさ)、 牢屋奉行石出帯刀吉深(いしでたてわきよしみ)、 それに伝馬町□□小屋頭藤左衛門(とう
ざえもん)などであった。 それら処刑の記録は幕府が延宝8年 (1680) 8月23日に第5代将軍徳川
綱吉が就任すると天和2年 (1682) 2月19日、 すなわち第4代将軍徳川家綱時代以前の延宝7年 
(1679) までのキリシタン古証文を悉(ことごと)く焼却処分させたため今日では詳しい記録が残され
ていない。 

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+ 刑の執行日
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 元和9年 (1623) 10月13日、 伝馬町牢内のキリシタン男子51人は裏門から3組に分けられ
出発した。 先ず第一組はジェロニモ・デ・アンデリス神父、 次に第二組はフランシスコ・ガルベス神父、
そして第三組は原主水佐が先頭となり後手に縛られ首に縄をかけられて馬に乗せられ、 他の者たちも縛
られたまま歩いて従うのであった。 そして□□小屋頭藤左衛門の先導で多くの□□たちに付き添われ、
名札を掲げられながら今日の室町―日本橋―京橋―銀座―新橋―浜松町―三田―芝口と引き回される
のであった。 
さて、 札の辻に着いてみると、 そこには柱が47本と少し離れて3本が立てられ、 側には多くの薪や
萱が積み上げられていた。 そこで町奉行は一人の囮(おとり)を使い一同に棄教を迫ったが誰一人として
応じる者もなく却って見物人の中から男女2人が同じく処刑されることを申し出たという。 因(ちなみ)
に囮となった転びキリシタンは間もなく殺されたといい、 また見物人の中から処刑を申し出た男女は
伝馬町牢に入れられ後日処刑されたという。 

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+ 処刑の史実
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 初めに47人のキリシタンが柱に縛られ町奉行の合図により藤左衛門配下の者たちが風上より一齊
いっせいに火を放った。 そこにはジェロニモ・デ・アンデリス神父 (55歳)、 フランシスコ・ガルベス
神父 (47歳)、 原主水佐胤信(たねのぶ) (36歳) が見せつけられていた。 そして第2回目に3人が
処刑されたわけであった。 そのとき、 江戸市中からは多くの人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆
で一杯であったという。 また江戸参府の諸大名も立ち止まっていたらしいが、 市中に残っているキリシタン
たちも見ていたという。 そして三日三晩屍(しかばね)が焼け尽きるまで番人が立っていたらしく、 それが
終わるとキリシタンたちは殉教者の聖遺物を拾い集めたという。 
今日、 それら処刑された50人の中、 37人の名前だけがわかっている。 また処刑された日については
日本側史料にも外国側史料にも一致して 「寒い日」 だったとしている。 だが正しい場所について 
『徳川実記』 には 「江戸に入る門戸」 とあり、 『万年記』 には芝とだけある。 そして外国側史料である
イエズス会クリストヴァン・フェレイラ神父やフランシスコ会ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父の
報告書、 それに 『オランダ商館日記』 などには 「東海道に沿った海の見える小高い丘」 とだけある。
曽かつて芝浦は遠浅の製塩の地であり遥か房総の山々がよく見えたという。 


(高木一雄 キリスト教史研究家)






新装なった江戸元和殉教跡地




近々列福が確実視されている188殉教者の一人ヨハネ原主水が、 他の49名と共に火刑に処せられた
札の辻の江戸元和殉教 (1622年) 跡地に、 住友不動産が2002年から進めてきた三田ツインビル
西館と、 付随する約3,000坪 (10,000平方メートル) の庭園が完成した。 
庭園の大部分は国道に面してビルの北側 (田町駅寄り) に展開、 残りはビルの裏 (崖) 側を済海寺の
直下まで延長、 全体に緑を生かす、 なだらかな築山造りになっている。 
北側の庭園を国道からの緩やかな階段を使って上りきると、 正面に巨大な天然石が横たわり、 右隣
に都教育委員会の「都旧跡 元和キリシタン遺跡 智福寺境内」の石柱と説明板が移されている (写真)。
この庭園と後述のエレベーターは、 午前5時から午後11時まで一般に開放。 
旧智福寺はビルの裏手、 済海寺下にあったはずで、 史実と若干違うのは目をつぶろう。 ただ緩やか
な階段がまるで参道のように見えて、 歩道脇にあった石柱が一挙に忠魂碑風に格上げされた印象。 
施主に感謝しながら、 永く保存されることを祈りたい。 
巡礼するのに便利になったのは都旧跡の石柱から30~40メートル離れたところに、 エレベーター
・タワーと陸橋が設けられたこと。 これを利用すれば、 開国後最初にフランス領事館が置かれた済海寺
へ直接楽に行ける。逆に不便なのは、 以前ここが大駐車場であったため、 休日に限って集団巡礼の大型
バスが駐車できたが、 それが不可能になったことだ。 


(「江戸切支丹殉教ゆかりの地」編者 村岡昌和)




原主水の生涯 (6)

著者:高木一雄 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号
新装なった江戸元和殉教跡地

著者:村岡昌和 氏
出典:「カトリック東京大司教区『東京教区ニュース』240号
※ 今回ご紹介した文章は著者様ならびにカトリック東京大司教区様のご好意により転載のご許可を頂きました。

※ 出典元サイト : カトリック東京大司教区-教区ニュース2007年3月



<追記>

今回の掲載に当たって東京大司教区カトリック東京大司教区広報部様より下記のメールを頂きました。あわせてお読みください。

今年(2007年当時)は殉教者の“列福”が決まり、列福式を11月に控え(於:長崎)
日本のカトリック教会においては特別な年です。
原主水をはじめ、札の辻で殉教した人々も福者とされます。
この掲載を機会に多くの方に、殉教者とカトリックの信仰
にふれていただければと思います。
 

















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2013年2月21日木曜日

月の岬<三田台>


名所江戸百景「月の岬」
歌川広重
 竹芝伝説でもふれた三田四丁目の済海寺近辺を含めて、聖坂を上がったあたりから伊皿子のあたりは高台で、昔は東側の海が見下ろせました。夜になると海から上る月がまことにきれいだったので、慶長にころ徳川家康がこのあたりを「月の岬」と呼び愛したといいます。

その後庶民も観月を楽しむようになり月の名所として有名になったそうです。また月之見崎と唱え潮見崎と共に、七崎の一つに数えられましたが、やがて人家が増え面影はなくなったといいます。
前項の竹芝夫妻もこの名所で月を眺め、年を重ねていったのでしょうか。残念ながら現在は海も見えず昔の面影を求めるのは難しいとおもわれます。

この月の岬について、

◎文政町方書上は三田台町一丁目の項で、

一.里俗月の見﨑

  • 右月の見﨑と唱え候儀は、当町高き場所にて海辺を見下しこれあり、景よろしき場所ゆえ、町内町内御高札場近辺を相唱え申し候。右見﨑につき、秋元中納言様御歌の由申し伝え候



済海寺辺
                        秋ならは月の見﨑やいかならん
                     名は夏山のしげみのみして

 

としています。また
 
    ◎近代沿革図集では、

江戸名所図会
高輪海辺七月二十六夜待


  • 慶長年間、家康がここから海上の月を称美しこの地名をつけたという説がある(十方庵遊歴雑記)
  • 伊皿子大円寺境内の名であるが、いまはその辺の呼び名としている。月夜の海上の眺めがすぐれていて地名となったという。(御府内備考)
  • 三田済海寺辺の総名である。古くは潮見﨑とともに7﨑の一つであったという。(穢土名所図会)
  • 三田台一丁目から伊皿子台までを月の岬という。(東京府志料)
  • 伊皿子のうちに月の岬と称するところがあったという。(新選東京名所図会)
  • 三田台一丁目から伊皿子町をむかし月の岬といい、観月の地であった。人家が増して旧観はない。(東京案内)

などとしています。またこの「月の岬」の定義をもう少し緩くして
品川御殿山あたりまでの尾根道(旧奥州道・鎌倉道)を総称していたようで、二十六夜待ち十五夜・十三夜などの観月は茶屋などのイベントとなり信仰からやがて深夜までの遊びの口実へと変化していったようです。

月の岬
















☆追記

札の辻ツインビル裏手には、済海寺・聖坂上と連絡するエレベーターがあります。このエレベーターを地元では「月の岬エレベーター」と呼んでいるようです。また、高輪郵便局脇から亀塚公園・ビオトープ方面に上る階段がある斜面は「月の岬渓谷」 とも呼んでいるそうです。


ツインビル裏手の「月の岬」エレベーター














地元で月の岬渓谷とも呼ばれる亀塚公園階段













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