2013年2月19日火曜日

高縄原の激戦<高輪台>

大永4(1524)年、江戸城を守る扇谷上杉朝興(太田道灌を暗殺した扇谷上杉定正の2代あと)と、関東攻略のため小田原から遠征してきた北条早雲の子、氏綱が高縄原(今の高輪台辺)で激突しました。
北条軍の軍勢はは一万とも二万ともいわれ、両軍が激闘を展開したがなかなか勝敗が決しなかったそうです。
そこで北条軍は第二陣を麻布方面から投入して、挟撃し上杉軍の退路を遮断しました。これが功をなして、上杉軍は守勢にまわり、血路をひらいて退却して江戸城へこもりましたが、太田道灌の孫、太田資高、資貞兄弟の内応で江戸城は陥落します。そして夜になると闇にまぎれて川越へ落ちる朝興を板橋近辺まで追撃しました。勝った北条軍はその後一ッ木原(赤坂)に集結して旗をうちたて、定法の三度の勝鬨をあげました。 これにより関東南部は北条氏の勢力範囲となり ます。
そして、この戦いにより上杉方として渋谷城を守っていた渋谷氏が滅亡し、青山方面へと落ち延びます。その後、渋谷氏は土豪となったようですが、当主はその後も代々金王丸を名乗ったものと思われます。また落城した渋谷城の跡には金王八幡神社とその隣にある別当寺で渋谷区最古の寺院といわれる渋谷山東福寺も再建を許され、現在に至ります。


○関連事項

  ・黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
  ・麻布近辺の源氏伝説(笄橋伝説 その2)
  ・二つの東福寺の謎