2013年2月20日水曜日

竹芝伝説<三田台>

東京でも最古の伝説に入る物の1つが、竹芝寺の物語です。
竹芝寺跡とされている三田済海寺
これは「更級日記」に記されていて、菅原孝標の娘が父の任地、板東で過した40年間を回顧して記されたものです。

10世紀の初めころ竹芝の庄の主(以降竹芝)は、皇居の火焚衛士にあてられ京へ上ります。そして一年の任期を勤め上げましたが、人手不足からか帰国を許されませんでした。失望した竹芝が望郷の念で独り言をいいながら仕事をしていると、御簾の内にいた天皇の姫(皇女)がこれを聞きつけ、竹芝を縁近くに召して郷里の様子を尋ねました。
竹芝は問われるままに、

「白い花をつけた荻や芦が風にそよぐ野原、波静かな浜」

など竹芝の里の様子を語ります。 すると姫は激しく心を動かされ、ぜひそこへ自分を連れて行けと強く望んだそうです。事の大事に恐れた竹芝も、元々の望郷の念から姫を背負ってひそかに東国に下ります。
亀塚公園の亀塚
やがて京から追手の使者が来ますが、姫は帝に竹芝の罪の許しを請います。すると、帝は2人の仲むつましい様子から罪を与えることをあきらめ、竹芝を郡の司に任じました。屋敷も御殿のようにして仲良く暮らした2人に子供が授かると、帝はその子に武蔵の姓を賜りました。
その後も末永く仲良く暮らしたあげく、姫が亡くなると竹芝は悲しみ屋敷を寺に作り替えて「竹芝寺」とします。これが現在の「済海寺」といわれています。そして、彼らの子供は成長して足立郡司となり、武蔵武芝を名乗ったという説もあり「将門記」にも将門側の重要人物として登場します。武蔵武芝が中央から赴任してきた興世王源経基らから無理難題を押し付けられ戦になろうとした時、平 将門 が間に入り調停します。これを興世王は納得しましたが、源経基は京に戻り将門の謀反を訴えました。これにより939年に天慶の乱(平将門の乱)が始まり、その結果平将門は滅びますが、武芝竹芝は歴史の表舞台から姿を消します。しかし、その家系は大宮氷川神社の社家として続いたとの説もあり、乱後の武蔵竹芝の動向は謎に包まれています。これら天慶の乱の中心は現在の埼玉県や足立区辺で行われていたと考えられますが、港区にも麻布氷川神社創建、笄橋伝説一本松伝説、竹芝伝説などがあるのは不思議なことと思われます。
竹芝寺があったのは三田4丁目の済海寺と隣の亀塚公園あたりとされ、亀塚公園には姫の墓所と伝わる円形古墳の亀塚があります。そして竹芝寺跡は現在の「済海寺」ともいわれています。太平洋戦争前までは、これら竹芝伝説と現在の港区亀塚公園付近の関係が強いものとされてきましたが、最近では疑問を投げかけられています。
済海寺は安政6年(1859年)8月26日にフランス総領事館となり2年後には公使館となって明治7年まで続きました。









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