2013年2月8日金曜日

福沢家の墓所

前回の福沢諭吉の命日「雪池忌」文中で、

「葬儀を8日に福沢家歴代の菩提寺である麻布山善 福寺で行った」

とお伝えしました。しかし、福沢家先祖の墓があるのは中津市桜町の明蓮寺とのことで、麻布山善福寺で葬儀が行われたのは明蓮寺と同じ浄土真宗本願寺派の寺院であったことに依るそうです。

品川区上大崎の常光寺
そして、東京における最初の福沢家墓所は現在の古川橋際にある三田龍源寺で、これは江戸期に中津藩主奥平家が山形から宇都宮に移封された頃の領主昌章らが、この龍源寺住職伽山和尚に深く帰依していたので、それ以来奥平家から浅からぬ庇護を受けており、藩主の墓こそありません(中津藩主奥平家の菩提寺は品川清光院)でしたが多くの家臣藩士はこの寺を菩提所としていたそうです。これにより福沢の妻お錦の実家も檀家となっているそうです。また慶応義塾が芝新銭座にあった当時、収容しきれなくなった五十余名の塾生を受け入れる「外塾」を三田龍源寺に設置したことからも、そのゆかりの深さがしのばれます。

前述したとおり福沢家の宗派は門徒でしたが、龍源寺は臨済宗妙心寺派ですので、福沢諭吉は東京での墓所を宗派よりも藩または妻の実家とのゆかりを優先して購入したともいえます。ちなみにこのあとに墓地を購入した白金重秀寺(白金氷川神社脇)も龍源寺と同じ臨済宗妙心寺派ですので、やはり龍源寺とのゆかりを優先したものともいえそうです。
そして1896(明治29)年に福沢諭吉の日課の散歩の道筋にあり初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった、市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入することとなりますが、この土地を見つけるきっかけは明治8年ころに狸橋~幼稚舎となる土地2,200坪を別邸として取し、付随する水車場を経営し経営塾生の食費捻出に乗り出します。そしてこの別邸から日課としていた散歩の途中に上大崎の墓地を見つけたといわれています。
常光寺
福沢諭吉先生永眠の地碑
この墓地はふたたび福沢家の宗派とは違う浄土宗本願寺派の墓地でしたが南に開けた眺望の良さから諭吉自身が選んだといわれています。この墓地はその後正福寺となり、正福寺が廃寺となると寺地は泉岳寺近くにあった増上寺末寺の常光寺が移転してに引き継がれることとなります。











常光寺
幼稚舎創立者和田義郎碑




















港区三田の龍源寺


















港区白金の重秀寺






















福沢家年表
安政 五(1858)年大阪の適塾で塾頭を務めていた福沢諭吉に江戸出府が命じられ岡見彦三の要請で中津藩築地鉄砲洲の中屋敷で蘭学塾を開く
万延 元(1860)年 2/10咸臨丸艦長木村摂津守の従者として渡米。6/23帰国。
万延 二(1861)年木村摂津守の斡旋で蘭学塾を芝新銭座に移転する。
文久 三(1863)年蘭学塾のより広いスペースを確保するため鉄砲洲中屋敷に戻る
慶応 三(1867)年幕府の軍艦受取委員会随員として再渡米
慶応 四(1868)年鉄砲洲周辺が外国人居留地となるため再び蘭学塾を芝新銭座に移転し、元号にちなんで「慶應義塾」とする。
明治 三(1870)年新銭座に収容しきれなくなった五十余名の塾生を受け入れる「外塾」を三田龍源寺に設置。
明治 四(1871)年三田の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ移転する。
明治 五(1872)年妻お錦が死産の女児を分娩し三田龍源寺に埋葬。福沢家の東京における最初の墓所となる。
明治 六(1873)年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てる。
明治 七(1874)年福沢諭吉の母お順が歿し、龍源寺の墓所に埋葬。しかし朱引内埋葬禁止令が発布され以降の龍源寺への埋葬が不可能となる。
明治 八(1875)年この頃後に狸橋~慶応幼稚舎となる土地2,200坪を取得。付随する水車場を経営し経営塾生の食費捻出に乗り出す。
明治 十(1877)年福澤家に死産の男女の双子が生まれ、白金の重秀寺に埋葬
明治二四(1891)年東京市十五区と八王子市で土葬が禁止される。
明治二九(1896)年福沢諭吉の日課の散歩の道筋にあり初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった、市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入し、龍源寺にあった母お順の墓、死産の女児の墓、福澤氏記念之碑、そして、重秀寺の墓を、全て上大崎の墓地に移す。
明治三四(1901)年福沢諭吉脳出血により逝去麻布山善福寺にて葬儀後上大崎に埋葬される
明治四三(1910)年福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死。白金の重秀寺に埋葬
大正十三(1924)年妻お錦逝去。上大崎に埋葬される
昭和五二(1977)年上大崎にある福沢家墓所を麻布山善福寺に改葬









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