2013年4月30日火曜日

麻布七不思議-狸穴(まみあな)の古洞

現在の東麻布、麻布台辺の地名。江戸の頃永坂、森元、赤羽、飯倉の辺には馬場が
狸穴坂
あったといいます。ここで売られた乗馬用の袴を十番袴と称していたので,麻布十番という地名になったとも伝えられています。 
このあたりの坂は勾配が急で、竹林に覆われていた。うっかり迷い込むと出られなくなるほどの竹薮だったそうで、講談によると水戸黄門様も迷ったという噺が残されているといいます。またかつては古い洞窟があり、狸穴の古洞と呼ばれていました。


文政町方書上では、
~当町狸穴町と唱え候儀は、谷合にて古来は木立なども繁りこれあり魔魅も住むべき土地、里俗狸穴と唱え来たり候由。~
とある。また同書「飯注」では飯倉町の定義を、
もと麻布と飯倉の両方に掛かっていた地名で、「マミアナ」の「マミ」とは動物学上はアナグマを差して狸ではない起立年代は不明。延宝六(1678)年町域の一部が甲府宰相徳川綱重の下屋敷になったので、代地は飯倉永坂町に与えられる。町奉行・代官両支配で、現在の港区麻布台二丁目一番、東麻布二丁目の西北部、三丁目の東北部、麻布狸穴町(麻布台・東麻布となった部分の残存地)に当る。
としています。 麻布区史では「狸穴」の由来を「南留別志」を引用して、
狸穴坂碑
まみ穴といふ所は古金ほりたる穴なり、まみはまぶの事なり、享保六年の頃黄金のようなる砂いでたれど、いまだ年のたらぬ金なりとてほらずなり。
と記しています。また動物説については、
~何と云っても多いのはマミ即ち狸に類した動物棲息の穴と云う論である。~
として雌狸(江戸砂子)、魔魅(江戸総鹿子・府内備考等)、猯(新編江戸志)などの当て字を紹介しています。
また、麻布-その北東部ーでは「江戸砂子」の内容をを引用して、
雌狸穴、長坂のひがし也。これも坂なれども、ただまみ穴とばかり云いて、坂とはいはず。此坂に雌狸の住ける大なる穴ありとぞ。或いは上古、銅の出でしまぶ穴と云説あり、いかが。
としています。

講談「狸穴の婚礼」では、
東京名所図会「狸穴坂の景」
麻布村に「狸穴」という穴があった。この穴は品川の御殿山から四谷まで続いていたそうで、この穴の中に住む数千のタヌキが田畑を荒らしたり、子供を取ったりして付近の百姓を苦しめていたという。徳川家康が江戸入府したときに家臣の井伊直政はこの噂を聞きつけ、家老の豪傑(ごうけつ)奄原助左右衛門(いおはら・すけざえもん)にタヌキ退治を命じた。助左右衛門が麻布村の狸穴に50人の家来を連れて入ってゆくと、やがて美少年が現れ助左右衛門を主人の御殿に案内した。

美少年の主人は婚礼の儀式の最中で助左右衛門にも酒を勧めた。家臣たちは怖がって誰も手を付けなかったが、助左右衛門は気にせずに呑んだ。しかしやがて酔いを発した助左右衛門が寝入ってしまうと館の主人がその枕元に立ち、「俺は狸穴の主人だ。こしゃくな奴だがその方の剛胆に免じて、今日はこのまま帰してやる。江戸も騒がしくなったのでまもなく引っ越すから、退治は無用」といったが、目の覚めた助左右衛門は、「今日は主人の命令でお前を退治しにきた。」というと持っていた刀を抜き打ちに斬りつけた。すると今までいた御殿は一面の炎とともにかき消え、主人も消えた。そして炎の中から数百のタヌキが助左右衛門に飛びかかり、助左右衛門は刀を抜いて戦った。やがて「御家老さま、如何しました?」という家来の声で気がつき、辺りを見回すと、すべては夢であった。

「恐ろしい奴らだ」と穴から出て陣屋に帰ると、その後、天正18年8月10日、麻布一帯に家なり・地響きが起こったので助左右衛門は地鳴りの原因を狸穴のタヌキと考えて数百の家臣を連れて穴の前に行ってみると、狸穴のタヌキが行列をなして引越しの最中であった。そこで助左右衛門はためらわずに鉄砲を撃ちかけ、すべてタヌキを退治してしまった。その後麻布は家も増えて立派な町になったが、あの時に退治された子ダヌキがたった一匹残り、ネコの父で育てられた。このタヌキが長じて近所の人に害をなし、そのタヌキが退治されると今度はネコが仇をなし、続いて鼠が害をなすという麻布七不思議の因縁がからんでくる。
として狸穴の狸と我善坊の猫又の因縁を記しています。

この講談「狸穴の婚礼」はおそらく明治31(1898)年刊行の講談速記本「江戸名物麻布七不思議」に記載された噺を底本として復活させたものと思われ、その内容は「江戸名物麻布七不思議」の序盤を語っているようです。


江戸期の狸穴辺
○講談「江戸名物麻布七不思議」
家康の江戸入国時、麻布に陣をはった井伊直政に近隣の百姓が「狸穴の怪物」の害を訴え出る。そこで井伊直政の家臣奄原助右衛門(いおはら・すけえもん)が狸穴洞窟中の城で狸の首領の婚礼 を見る。そして奄原助右衛門はこの狸の行列を退治する。これを家康は大いに喜び江戸が開ける発端となる。しかし首領狸の忘れ形見が徳川家に祟りをなし、六代家宣の頃、麻布狸穴能勢豊後守邸に出没した狸の怪物を友人勝田備後守が仕留める。災いを恐れた能勢家は「狸の怪物」を庭に埋め、その上に稲荷を祭った。しかし怪物は土中で生きながらえて小猫を育て上げ、育てられた猫は「大黒坂の猫又」となって次々に人を襲った。この猫又は内田正九郎を苦しめた後に我善坊谷の鼠と戦い、敗れて死ぬ。そして近所の蕎麦屋・佐兵衛が猫又の死骸を「狸塚」として埋葬する。 (DEEP AZABU注:埋めた場所は広尾が原ともいわれる)その後蕎麦屋は評判となり「狸蕎麦」として繁盛した。

麻布谷町の旗本星野源右衛門は、吉原の花魁花衣を妻にし、毎晩遊女の格好をさせたので、谷町の遊女屋敷と呼ばれることになる。しかし星野源右衛門は鼠に足を食われたのが原因で死に、怪猫の次は大鼠の被害が広がったことから内田正九郎が今度は大鼠退治を命じられる。 怪しい赤ん坊の声で評判の二本松のある松平右近の屋敷を吟味する最中、狐につきまつわれる。江戸を離れ、海賊や熱海神社の天狗退治をして戻った内田正九郎は、白金御殿の一本足の怪物もしとめる。我善坊谷の鼠の怪異が続くので、正九郎は将軍の命をうけ、ついに退治に成功する。

麻布狸穴町の住居表示
麻布狸穴町の住居表示




狸穴と鼠穴・猫又・猫塚
狸穴と鼠穴・猫又・猫塚


この狸穴坂近辺は永坂町と隣接し、区内で唯一住居表示の変更が行われなかった場所です。 港区は昭和37年に国会で制定された「住居表示に関する法律」に従ってそれまでの「麻布」を冠した45あまりの町名を変更しました。 
これにより 「麻布狸穴町」「麻布永坂町」の二つ以外の総ての町名が 宮村町→元麻布2、3丁目、日ヶ窪→六本木六丁目など安易な住居表示に変更 されてしまいました。しかし、この近辺では住民による町名変更反対運動があり、永坂町に住む松山善三高峰秀子夫妻やブリヂストンの石橋正二郎、狸穴町の木内信胤らが中心となり変更を拒んだ。 これにより港区では区内の住居表示変更を完遂することが出来ず、現在もその達成率は97.4%となっているようです。この地域は、現在も住居表示が「麻布狸穴町」「麻布永坂町」と麻布を冠しており、江戸期から続く由緒ある町名が守られている貴重な地域であるといえます。

以前糸井重里事務所がこのあたりにあった時期に糸井氏自身が事務所近辺を狸穴を文字って「鼠穴」と称していましたが、鼠穴は実在の地名です。狸穴から古川を挟んだ対岸となる三田小山町元神明宮(天祖神社)前あたりを江戸期、里俗に鼠穴と称しました。







2013年4月29日月曜日

麻布七不思議-古川の狸ばやし

狸ばやしとは夜更けになるとどこからともなく、笛や太鼓などの囃子の音が聞こえてくるというものだそうです。音の聞こえる方向を探してもわからず、歩いているとお囃子の音がどこまでも自分を追いかけてくるような不思議な感じになるといわれています。 
これは、古川が「三田側の山塊」と「麻布の山塊」に挟まれた渓谷を流れているため、遠くで演奏されているお囃子が「こだま」しあって音源がわからなくなるからともいわれます。

「十番わがふるさと」には
この時代には祭囃子は農家の若衆の仕事で、渋谷、目黒村の百姓の青年たちは毎日夜になると神楽太鼓の練習に精を出していた。その太鼓の音律が川面を伝わって、古川の曲がり角の芒(すすき)や萩の間から聞こえて狸囃しとなり、七不思議の一つとなったのであろう。
とあります。
麻布の丘と三田台の谷間に流れる古川も昔は清流だったそうで、土手には花が咲き乱れ実にすばらしい眺めであり、戦前は泳ぐこともできたそうです。
江戸の頃、このあたり秋になるとすすきやはぎが咲き、月の出る頃になると 川からたぬき囃子が聞こえて、江戸の評判になったようです。しかし私の子供の頃昭和四十年代にはすでに「どぶ川」になっており清流の面影はありませんでした。


      
狸ばやしの原理
狸ばやしの原理
      
狸などにちなむ麻布の地名
狸などにちなむ麻布の地名
      
サギの生息
四の橋のアオサギ


このように「送り囃子・狸囃子」といわれているものの原理は「こだま」のようです。古川は麻布山塊・飯倉狸穴山塊と白金高輪山塊・三田丘陵という武蔵野台地の最先端部の間を流れる川であり両岸斜面との距離が比較的短いために反響が起こりやすかったと思われます。特に古川橋~天現寺間は麻布山塊斜面⇔白金山塊斜面間の距離が500mほどと狭いために反響が起こりやすいようです。同様に麻布山塊斜面と三田丘陵間も反響したと思われますが、三田丘陵は麻布山塊・白金山塊より10mほど標高が低いため、広尾~古川橋間よりも反響しにくかったことが考えられます。


<各所の標高>
・麻布山塊(薬園坂上辺):25m
・麻布山塊(仙台坂上辺):27m
・白金山塊(白金台駅辺):30m
・飯倉狸穴山塊(狸穴坂上辺)標高:26m
・三田丘陵(三井倶楽部辺)標高:19m


また、麻布には動物にちなむ地名が多く残され、特に広尾から古川端あたりは狸橋・狸蕎麦などの地名が残されており江戸~明治期くらいまでのこのあたりは農耕地や原野も残されていた事から多くの野生動物も生息していたことが想像されます。そして、現在もこの地域の古川ではサギ類の飛翔が多く目撃されています。












2013年4月27日土曜日

麻布七不思議-六本木

おそらく麻布で一番有名な地名。繁華街で私も昔ここの喫茶店でバイトしていたがそれよりも、地元の人にとって六本木といえば”電車”である。麻布で唯一の電車、日比谷線が通っている。家からは15分くらいかかったがそれでも最寄り駅であった。ちなみ
六本木交差点
に私は今、品川のとある駅から2分の所に住んでいる。遅刻は激減した。
芋洗坂、市三(いちみ)坂を登った高台にある。昔5本の榎(えのき)が高くそびえ、品川沖からもよく見えたので漁師の道しるべとなっていた。六本木なのになぜ五本?。ものの本によると、昔このあたりは、武蔵野の雑木林で大木が生い茂げるジャングルのようであった。平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。このあたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木と言うようになったという。
今でも落ち武者のような髪をした若者が行き交っているが、あれはもしかしたら.....




江戸末期の六本木辺

別説に

・江戸六方の男伊達がこのあたりに住んでいたので、六方気からいつのまにか六本木になった。
・竜土町に六本の古木の松があったので付いた。
・この辺りに上杉、朽木、高木、青木、片桐、一柳などの大名屋敷があった為。(十方庵遊歴雑記)

などもある。

また、麻布区史には、

今の六本木辺に昔六本の松があったことに因ると云ひ、又一説に六本の榎があった為めと傳へる。
とあり、書面には「菖ときわ」内にあった大きな銀杏の木の写真が掲載されている。




●旧町名・町域

昭和20年空襲直後の六本木(作:恩田孝徳)

○飯倉六本木町(文政町方書上)

~飯倉六本木町の儀も、飯倉町総石高七十五石八斗二升六合八勺のうちにて御座候処、寛文二寅(1662)年中町方御奉行嶋田出雲守様・渡辺大隅守様御勤役の節、町方御支配に仰せ付けられ候砌、いまだ町名も御座なく候間、往古この辺りに松の大樹六本御座候由、当時いずかたに候や相分かり申さず候えども、右近辺町屋に相成り候につき町名に仕り飯倉六本木町と相唱え候。~

一 坂

町内家前往還西の方、西丸御書院御番頭大久保豊後守様御組屋敷より東の方麻布正信寺門前へ下り、およそ長さ三十間ほど、幅三間余り坂名目を芋洗坂と里俗に唱え候儀は、往古この辺りに芋問屋多くこれあり候間唱え来たり候由に御座候。当時町内向い側麻布正信寺門前に寛文年中の頃より罷りあり候千栽物問屋にて八兵衛と申す者一軒残りこれあり今もって商売仕り候。


一 下水

右は、西丸御書院御番頭大久保豊後守様御組屋敷より北側下水幅二尺余りにて、麻布龍土坂口町同所続き御寄合阿部大学様御下屋敷前通り、同所正信寺門前・同教善寺門前町家前堀井戸脇より南の方へ町内往還下タ幅四尺の理石樋にて、町屋裏の方四尺余りの下水へ落ち、麻布北日ヶ窪町・龍奥寺地境脇同町町屋家前下水へ落ち申し候。~





○麻布六本木町

  • 東鳥居坂町の西にある。もと飯倉村のうちで、寛文中(1661~1672年)町地となり、老樹が六本あったので飯倉六本木町とした。明治2(1869)年町地に、麻布北日ヶ窪町代地・麻布龍土坂口町・教善寺門前・正信寺門前・光専寺門前・深広寺門前を併せて麻布六本木町と称した。




新竜土町の龍土軒
龍土軒跡地

西麻布移転後の龍土軒
西麻布移転後の龍土軒-昭和57年(写された港区)


○麻布龍土町・麻布新龍土町

  • 元和年間(1615~1624年)、芝愛宕下から西久保あたりの猟人(りょうど)とよばれた漁師たちが幕命によりこの地に移住し、「龍(竜)土」としたとする説が一般的。他に寛永年間(1624~1644)頃、この地に龍が舞い下りたとする伝説もある。「龍土」の地名は青山・今井・飯倉に接する広い地域で使われたが、後に麻布龍土町・麻布龍土材木町・麻布龍土坂口町・麻布龍土六本木町・麻布龍土町代地三田古川町の5町が起立し、総称して龍土五ヶ町と呼ばれた。

    麻布龍土町は明治2(1869)年、麻布長泉寺門前と付近の武家地を合併して町域としたが明治6(1873)年、麻布長泉寺門前周辺を含む北部を「麻布新龍土町」として分離した。

    「麻布新龍土町」には明治31(1898)年1月陸軍第一師団歩兵第3連隊が設置され、麻布新龍土町町域の大部分をしめた。歩兵第3連隊はその営舎の場所から「麻布三連隊」と呼ばれた。

  • 新龍土町12番地にあった「龍土軒」はフレンチの草分であり創業は明治33(1900)年といわれる。、明治から昭和期にかけて文人・洋画家・高級軍人などのサロンとして評判となっていた。柳田国男邸に集まっていた「土曜会」の田山花袋、蒲原有明、国木田独歩らが龍土軒に集会所を変更し、明治39(1906)年 5月から「龍土会」と称した。また後年の大正4(1915)年には、岩野泡鳴、徳田秋声、近松秋江、小山内薫らによる第二期龍土会の会場として使用された。

    場所的に第一連隊と麻布麻布三連隊に挟まれた地域にあった竜土軒は高級将校や将官なども頻繁に使用し、中でも乃木将軍は贔屓にしていたようで来店の他にも、店からほど近い自邸(乃木坂)の来客時には龍土軒から出前を取ったという。 また昭和期には二.二六事件首謀将校の謀議なども軍人客が多くかえって目立たないため、この店で行われていた。竜土町美術館通りの元地には碑が設置されていたが、現在立て替え工事中で元碑は復元されていない。また昭和44(1969)年「龍土軒」は西麻布交差点付近(西麻布1-14-3)に移転したが、こちらもビルの高層化建替え工事により、2010年9月のリニュアルオープンとなる。




○麻布龍土六本木町

  • 六本木町中央部の旧町名。江戸期麻布龍土六本木町と飯倉六本木町があり、麻布龍土坂口町を挟んで南北に分かれていた。明治2年麻布六本木町と改称。




○麻布龍土坂口町

  • 六本木町中央部の旧町名。江戸期この場所が芋洗坂の下り口であったことからついた町名。町域の北側が麻布龍土六本木町、南側が飯倉六本木町。明治2年麻布六本木町と改称。




○麻布三河台町

  • 延宝年間(1673~1681年)頃、このあたりに徳川家康二男の結城秀康(幼名:於義丸)を父に持つ松平三河守忠直の下屋敷があり、高台でもあったことから里俗に「三河台」と呼ばれた。その後江戸期を通じてずっと武家地であったが、明治5年宗岸寺などの寺地を併せて麻布三河台町として町域が起立した。町域東側にある「市三坂」の名称は市兵衛町と三河台町の境界であったためつけられた坂名。




○麻布龍土材木町

  • 材木町の旧称。江戸期、深川木場ができる前にこのあたりに材木流通の拠点があったと思われ、材木商が多く集まっていたことから麻布龍土材木町と称した。元は麻布龍土町の一部で、後に材木町として分離したともいわれる。明治2年「龍土」の冠称を略し「麻布材木町」とした。




○赤坂檜町

  • 江戸期、町域の大部分は長門萩藩毛利家中屋敷、出雲松江藩松平氏中屋敷となっており北部に麻布今井町の町域があった。檜町とは町域の大部分を占めていた毛利家中屋敷の屋敷内に檜が多くあったので「檜屋敷」と呼ばれたため。明治期には毛利家中屋敷跡地は日本陸軍の筆頭師団「第一師団」が設置され同師団第一連隊が駐屯した。戦後は防衛庁が設置されその跡地は東京ミッドタウンとなった。この地域は明治期には「麻布区」であったこともある。








秀忠夫人荼毘所

・二代将軍徳川秀忠の正室お江与の方(崇源院)が寛永三(1626)年九月一五日逝去し、即日増上寺に安置された。そしてその葬儀は同年十月十八日に増上寺で行われ遺骸は六本木の深広寺で荼毘に付された。(別説では龕前堂での荼毘説もあり) 葬列の途中には仮御堂(かりみどう)が置かれ、その仮御堂を龕前堂(がぜんどう)と呼んだことから我善坊町の由来となったとする説もある。そして、 増上寺から荼毘所まで千間の間にむしろを敷き、その上に白布10反を敷いて、1間ごとに竜幡をたて、両側に燭をかかげた。荼毘所は百間四方を槍で垣根をつくり、四方に門をつくって各門に額をかけ、幡を10本ずつを立てた。火屋(火葬場)の内構は60間で、こもの上に絹をしき4つの門を立て、2方に種々の供物を供え、四隅には花を飾る紗篭を置く。火屋の右には4つの堂を建てて物具を陳設した。龕前堂には額をかけ、ここにも食物を供えた。白張着を着た100人により龕が運ばれた。錦の天蓋をさしかけ、諸大名、垣の内千間の間を、1間ごとに護衛がつき、外は足軽が警備をした。  行列は1番大たいまつ、左右に大香炉、奉行の僧2人、持者2人、侍2人。次に春湖他6人のあと、左右灑水の僧2名、花篭の僧10名、次に左に日天、右に月天、左開敷2本、右末敷2本、次に紗篭2本ずつ、次に幡が左右5流ずつ、楽器と続く。  あとより、宮仕の女房の輿60ちょうが続き、各自香をたく。下火は増上寺広度院が法文を演説。鎖がん役は寿経寺以下十何寺の僧衆がこれを行う。沈香を32間あまり積み重ね、一時に火をつけたため、その香煙は1キロ以上にわたってたなびいたという。 深広寺にはこの際の「灰塚」が残されているという。また別説では崇源院の三回忌法要が営まれ、その縁で増上寺の子院であった教善寺、正信寺、光専寺、深広寺が移転してきたとともいわれる。

徳川将軍家では崇源院意外に幕末まで荼毘に付された将軍・親族は無く、崇源院の火葬が唯一の例外であるため、毒殺説などの根拠ともなった。




●社寺

○朝日神社(港区六本木6-7-14)

祭神:
・倉稲魂大神(うかのみたまのおおかみ)
・市杵島姫大神(いちきしまひめおおかみ)
・大國主大神(おおくにぬしのおおかみ)
・大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)
・菅原大神(すがはらのおおかみ)
芋洗坂中途の神社。旧暦天慶年中草創と伝えられ、市杵島姫大神を祭り、後に織田信長の息女朝日姫が稲荷の神像を草庵に祭るも后、市杵島姫大神と合祀して日ヶ窪稲荷と呼ばれた。明和年間に朝日稲荷と改称され、明治二十八年朝日神社と改称する。毎年7月に「ほおずき市」が催される。戦前の麻布稲荷七福神「大黒天」



○天祖神社(港区六本木7-7-7)

祭神:
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)
・伊邪那伎命(いざなぎのみこと)
・伊邪那美命(いざなみのみこと)
南北朝時代の至徳元(1386)年飯倉城山に初めて祀られ、徳川二代将軍の時の江戸城郭改修・街区整理で現在の地へ移った。飯倉の頃眼下の江戸湾品川沖から毎夜竜が御灯明を献じた故事から龍土神明宮とも呼ばれる。戦前の麻布稲荷七福神、現在の港七福神の「福禄寿」



○乃木神社(港区赤坂8-11-27)

祭神:
・乃木希典命(のぎまれすけのみこと)・乃木静子命(のぎしずこのみこと)
六本木交差点西方の乃木坂にある神社。隣接して旧乃木邸がある。 明治天皇に殉じられた乃木将軍御夫妻の英霊を永世に祠るために東京市長・阪谷芳郎男爵などが中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて大正十二年十一月一日御鎮座祭を斎行する。旧乃木邸には六本木ヒルズ建設時にニッカ池畔から移転した「乃木将軍と少年像」がある。



○久国神社(港区六本木2-1-16 )

祭神:
・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
請年月不詳ながら、古くはもと千代田村紅葉(現皇居内)に鎮座されていたという。久国作の刀が寄進されたため久国稲荷神社と称するようになった。戦前の麻布稲荷七福神、現在の港七福神の「布袋尊」




○教善寺





○正信寺





○光専寺





○深廣寺





○六本木墓苑

戦後の道路拡張時に、戦災で焼失した正信寺・深廣寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地。日向高鍋藩主・秋月長門守種長・他累代、本多越後守利長、河田貫堂などの墓所がある。


○圓林寺





○善學寺





○不動院





○永昌寺





○妙像寺





○西光寺





○道源寺





○法典寺





○長耀寺




















































●言回し

・一本は松だが六本きが知れず

・から木だか知れず麻布の六本木




奏でる乙女
奏でる乙女

像台座の碑文
像台座の碑文


●奏でる乙女像

六本木交差点北西角にある像。作者は札幌出身の彫刻家で札幌大通公園の「泉の像」、稚内市の「氷雪の門」、札幌冬季オリンピック記念碑「雪華の像」などを手がけた本郷新【明治38(1905)年~昭和55(1980)年】。昭和29(1954)年、六本木の戦後復興の記念・平和と協力の象徴として設置された。しかし昭和31(1956)年地下鉄工事のため移転された三河台公園で度々の心ない破壊を受け腕とギターが損傷してしまった。

その後人々から忘れ去られていた像は、再度本郷氏に作成を哀願し、初代の像がコンクリート製であったのに対し、より強固なブロンズ像として完成した後に、昭和50(1975)年五月、第一回六本木祭を記念して再び六本木交差点に設置された。その後も地下鉄大江戸線工事のためふたたび仮移管されたが 2000(平成12)年12月新たに礎石台座部分を作り直して再度同交差点に設置された。 また、この像と全く同じ「奏でる乙女像」が札幌彫刻美術館にも設置されているという。




「奏でる乙女像」台座の碑文


その昔 緑深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳(そび)える小高い丘があった その松はどこからでも見

えたので いつとはなしに人々はこの土地を六本木と呼び慣れ それがそのまま地名になったと云い伝

えられる もとはわびしい叢に道行く人も稀(まれ)であったが 寛永年間 佛寺五寺が創立されるとその門

前に商家も集い やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった 延宝から大正迄幾度と

なく行った道路拡張で交通が便利になると このあたり一帯は人馬の通りも繁くなり おのずから賑

わいを増していった そして明治の代 隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましく

みなぎる活氣のうちに昭和に入ると 山の手でも指折りの盛区に数えられるようになった

昔ながらの静かな趣はガス燈の青いかげにも残り六本木 三河台両町には都内でも有数な高級住宅が営

まれて華やかな商店街と映り合い色彩ゆたかな町としての誇りを見せていた

 昭和二十年五月二十二日 太平洋戦争災禍はこの町をも見舞い美しい街並も樹も一夜のうちに灰燼

に帰したが翌二十一年戦災都市復興計画は 焼け朽ちた郷土をいたみその再建を夢見る町民の進んで協

力するところとなりその熱意は麻布第一復興土地区画整理組合の結成となってあらわれた

子安英男を組合長として昭和二十二年六月より事業を開始したが当初は終戦直後の混乱期に当り町民の

生活もゆらぎ勝ちで百年の大計を樹てようとする区画整理は遅々として進まなかった しかし幸に関

係者の弛まぬ努力と理解ある町民の力強い援助によって苦しみを超えて歩んだ七年の歳月の流れは

今ここにようやくその事業の完成をもたらしたのである

 この記念に 平和と協力とを象徴する本郷新氏の労作を請い得てこれを街角に見る喜びと共にそ

のささやかな歴史を併せて記し 後の世の人に伝える次第である


              昭 和 二 十 九 年  四 月

                            麻 布 第 一 復 興 土 地 区 画 整 理 組 合








志賀直哉居宅跡

●志賀直哉居宅跡

・現在ブリヂストン社宅となっている地は志賀直哉居宅跡で、明治30(1897)年直哉の父直温(なおはる)が購入した屋敷で、直哉は14才から29才までをこの実家で過ごし、初期の作品を生み出した。当時屋敷は1682坪もある広大な敷地を持っていたが昭和20年戦災で焼失した。









太平洋戦争時
麻布辺の軍事施設
太平洋戦争時麻布辺の軍事施設

軍都六本木

●東京ミッドタウン(長州藩中屋敷~陸軍第一師団~防衛庁)
・元治1(1864)年-長州征伐により長州藩邸も打ち壊しとなる。
・明治21(1888)年-東京鎮台が廃止され第一師団となる。
・昭和29(1954)年-防衛庁本庁舎設置
・平成12(2000)年-防衛庁本庁舎が市ヶ谷地区に移転
・平成13(2001)年-「赤坂9丁目地区再開発地区計画」告示
・平成19(2007)年-東京ミッドタウン開業
○第一師団・師団長
・伏見宮貞愛親王
・閑院宮載仁親王
・真崎甚三郎、など
○第一師団・歩兵第1連隊・連隊長

・2代 乃木希典
・24代 東条英機
・29代 牛島満、など
●国立新美術館(陸軍第一師団・歩兵第3連隊~近衛歩兵第5連隊~近衛歩兵第7連隊~米軍用地~東大生産技術研究所~国立新美術館)

・明治31(1898)年-第1師団歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)駐屯
・昭和14(1939)年-近衛歩兵第5連隊(通称:宮3804)駐屯
・昭和18(1943)年-近衛歩兵第7連隊(東部八部隊)駐屯
・昭和20(1945)年-米陸軍第一騎兵師団駐留
・昭和37(1962)年-東大生産技術研究所が移転
・平成19(2007)年-国立新美術館開館
○第一師団・歩兵第3連隊・連隊長

・20代 梅津美治郎
・22代 永田鉄山
・23代 山下奉文、など




麻布三連隊跡地は1945年9月より米軍に接収され、2010年現在も米軍ヘリポート・星条旗新聞極東支社などが使用しており公称は「赤坂プレスセンター」だか通称「ハーディー・バラックス」と呼ばれ敷地内施設にも「ハーディー・バラックス」と掲示されている。この他、天現寺橋の「ニュー・サンノー・ホテル」と併せて麻布は都内で屈指の米軍施設を有している。この米軍ヘリポートを発着するヘリコプターは近隣基地との定期便の他に不定期にも飛んでいる。またこのヘリが杉並区の中学校へ不時着した事件もあり、運行に反対する住民団体も存在する。



二・二六事件

昭和11(1936)年2月26日に陸軍将校が起こしたクーデター。反乱軍の中核は、陸軍第一師団・歩兵第1連隊(現東京ミッドタウンの地に駐屯)、陸軍第一師団・歩兵第3連隊(現国立新美術館の地に駐屯)、近衛歩兵第3連隊(現赤坂サカスに駐屯)。

首謀将校と民間扇動者22名は軍法会議で死刑判決を受け代々木練兵場で銃殺となり、麻布十番の興国山賢崇寺に葬られた。これにより賢崇寺では事件当日の2月26日と処刑日の7月12日には、現在も慰霊祭が行われている。




●太平洋戦争期、六本木周辺の軍事施設

  • 東京ミッドタウン-陸軍第一師団・歩兵第1連隊
  • 国立新美術館-陸軍第1師団歩兵第3連隊(留守部隊)~近衛歩兵第7連隊(東部八部隊)
  • 東洋英和女学院-東京防衛軍司令部・東京師管区司令部・東京連隊区司令部




俳優座

・昭和19(1944)年2月に青山杉作、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎、東山千栄子、岸輝子ら10名の同人によって設立され現在も続く劇団。六本木を拠点として活動し昭和29年には「俳優座劇場」が設立された。




地下鉄開通

・日比谷線

1963年(昭和38年)2月28日 人形町 - 東銀座間(3.0km)開業に伴い営団日比谷線六本木駅が開業した。当初日比谷線は神谷町-麻布十番-広尾となるはずであったが、十番商店街組合が客足を取られるとして地下鉄開通に反対し、やむなく六本木経由に変更された。昭和40年代都電が廃止された麻布の唯一の電車は日比谷線であった。また六本木駅と繋がっていた東京日産ビル(東日ビル)B1には「ちゃちゃ亭」、「喫茶マンジ」など飲食店とともにハリウッドB.C、T&Cなどの店舗などが並び、乗降客の通行量も多かった。


・大江戸線

2000年(平成12年)12月12日 開通。それまで陸の孤島であった麻布十番駅の次に六本木駅が設置され日比谷線とのアクセスが確保された。しかし、地下鉄開発後発であったため大江戸線六本木駅ホームは東京の地下鉄の中で深度が一番深く(1番線:42.3m、2番線:32.8m)となっている。ちなみに麻布十番駅は都内10番目で32.5m これにより乗車時間5分、地上まで10分と揶揄されることとなる。





昭和40年代の六本木

・檜町公園

がま池の項でも書いたが、昭和40年代初期の小学生の遊びの必須アイテムは釣りであった。近隣のがま池や有栖川公園で遊ぶことが多かったが、チャリンコという移動手段を手に入れると行動半径が飛躍的に拡がり、檜町公園やさらに遠征して弁慶橋まで釣行した。檜町公園池はそんなに大きな池ではなかったが、唯一この池では「タナゴ」が捕獲できた。当初はタナゴ針で釣り上げたが、釣果はクチボソが圧倒的に多く、その頃からタナゴは希少品種だった。そしてやや学年があがると、竿釣りの他に「四つ手網」や「セロビン」という新兵器を手にすることとなり、釣果は飛躍的に増大した。


・三連隊跡地

少年時代野球が下手だった私は、上手いヤツラとはやらず(やってもらえなかった?)ヘタクソばかりで草野球をした。昭和40年代前半の麻布は空き地などが多く点在したが、その中でも草野球のメッカは現在麻布税務署となっている第一パン工場跡地とこの三連隊跡地だった。特に三連隊跡地は現在ヘリポートとなっている場所が空き地で鉄条網をくぐって忍び込み、遊びに興じた。しかしこの場所は周辺の子供達の絶好の遊び場所で、早く行かないと野球が出来る敷地は確保できなかった。またこの場所には当時小学生だった我々からみるとだいぶ大人の高校生などが来ており、その高校生達はよくエンジン付きのUコン飛行機を飛ばしていた。

この場所は米軍の管理区域内であったため、MPに見つかると射殺されるという噂が広まった。同様に宮村町本光寺墓地脇の裏山には狼か野犬が生息し、土地の所有者は散弾銃をぶっ放すと噂された。しかしこれら戦慄的な噂も、実際に射殺や狼の餌となった少年は一人もいなかったことから単なる脅しであったと考えられる。


・模型店 藤川

昭和期、旧防衛庁前の路地を天祖神社方面に進むと右手にプラモデル屋「ふじかわ」があった。プラモデルは十番商店街や暗闇坂下の「シミズ」でも買えたが、店内に完成品が彩色してディスプレーされ、ややマニアックな品揃えであった「ふじかわ」にもたまに遠征した。店の主人はちょっと変わったオヤジで、小うるさく注意をされた覚えがある。しかしプラモデルを買うと「つや消し剤」などをおまけとして付けてくれた記憶があり、そのオヤジに注文するのは怒られる緊張感と、「つや消し剤」が貰える嬉しさが微妙に混じった奇妙な感覚だったのを覚えている。また近年知った事だが、さらにマニアックなプラモデル少年は防衛庁の購買部に入り込み、隊員向けの価格でプラモをてにしていたという。年の所為か、最近はプラモデルを作ろうと頭の中でシュミレーションするだけで疲れ果ててしまい、実行したことがない。







大規模再開発

六本木ヒルズ
六本木ヒルズ

毛利池と改名されたニッカ池
六本木ヒルズ

六本木ヒルズ辺の変遷
六本木の変遷

明治期のニッカ池と周辺池群
明治期のニッカ池と周辺池群
テレビ朝日時代のニッカ池
テレビ朝日時代のニッカ池
六本木ヒルズ建設中の周辺
原金魚商店



●六本木ヒルズ

森ビルが「六本木六丁目特別再開発計画」の一環で建築した高層複合施設。2003年4月25日開業。 54階建、高さ238m。フロア面積724000㎡。高層から建築まで17年の歳月を要した。

敷地の旧町名:宮村町字薮下・桜田町・北日ヶ窪町・材木町など

主な施設:グランドハイアット東京・シネマコンプレックス・テレビ朝日本社・ハリウッド化粧品本社・ルイ・ヴィトン・住宅棟など多数 ○所在地の変遷

  • 慶安三(1650)年-毛利元就の孫、甲斐守秀元が幕府より拝領し長府藩毛利家の上屋敷となる。
    ・元禄15(1702)年12月15日-赤穂浪士10名の預け入れ。
    ・元禄16(1703)年2月4日-預け入れ赤穂浪士が屋敷内で切腹。
    ・嘉永2(1849)年12月25日-長府藩士・乃木希次の三男として乃木希典が藩邸内長屋で誕生。
  • 元治二(1865)年-第二次長州征伐により本藩檜屋敷と共に長府藩邸も打ち壊され、堀田相模守がこの地を拝領。
  • 明治二十(1887)年-中央大学の創始者で、弁護士・法学者・法学博士の増島六一郎が所有し「芳暉園」と名付る。
  • 大正八(1916)年-「乃木大将誕生地」として、旧跡指定を受ける。
  • 昭和二十七(1952)年-ニッカウヰスキー東京工場となる。
  • 昭和五十二(1977)年-テレビ朝日本社が土地を取得。
  • 平成十(1998)年-六本木六丁目地区市街地再開発組合が設立
  • 平成十二(2000)年-再開発事業着工
  • 平成15(2003)年-六本木ヒルズ開業。
江戸期は長州毛利藩の支藩、長府毛利家の屋敷であった。元禄期には赤穂浪士の預け入れが行われ、ニッカ池のほとりで岡島八十右衛門ら10名が切腹している。この「お預かり」が長州本藩ではなく支藩の長府毛利家であったのは幕府による本・支藩の引き離し政策という政治的な意味合いがあったものと考えられ、長州本藩毛利家と支藩長府毛利家は敵対していた時期もあったといわれる。
また、藩の菩提寺が泉岳寺であったため、家臣は泉岳寺参詣を行った。幕末期にはこの家臣の一人であった乃木希典将軍も幼少期には父に連れられて泉岳寺参りを頻繁に行っていたので、その都度伝説となっていた「赤穂浪士の切腹の見事さ」を聞かされ、その後の軍人としての生き方に大きく影響を与えたと言われる。 明治15(1882)年10月、駒沢大学の前身である曹洞宗大学林が駿河台から移転し、明治27(1894)年曹洞宗大学と改称し大正2(1913)年1月現在の駒沢に移転した。この大学林の学生が休日に遊行するさい、法衣から私服への着替えを付近の銭湯で行ったため、その銭湯は「坊主湯」と呼ばれたという。

1952(昭和27)年、ウィスキーを瓶詰めするための工場がこの地に設立された。これは北海道余市から運ばれるウイスキー製品の運送費削減と共に出荷時に課税対象となった製品が運送中に破損するのを防止のするためであったという。この工場では当時「じゅんさい」も生息するほど水質が良かったニッカ池の水を使ってウイスキーのブレンドを行っていたとされる。また東京工場をこの地にすることを決めた創業者・社長の竹鶴政孝は、この池を非常に大切にしていたようで、 ニッカウヰスキー・公式サイトには、

「あそこは由緒ある池で、必ず主がいるに違いない。だから池を潰した奴には祟りがあるぞ。本人になければ子孫にあるぞ」と言い、池を埋めることを絶対に許さなかった。
と記されている。

その後、1977(昭和52)年にはそれまで高台にあったテレビ朝日が拡張され本社が建てられた。しかし、ニッカ池周辺はそのままの姿で残されており、希望すれば池の見学も可能であった。当時のお笑い番組などでもこの池は頻繁に使用されていたので、テレビを通してご覧になった方も多いと思う。そして、 当時の池周囲には昔のまま「赤穂浪士碑」「乃木将軍産湯の井戸」「乃木将軍と少年像」など由緒ある史跡が残されていたが六本木ヒルズ建設工事により、乃木神社に奉納された「乃木将軍と少年像」以外は四散したものと思われ、現在行方不明となっている。またニッカ池は毛利池と名前を変えて現在も同所に存在するが、六本木ヒルズ建設工事にあたって一旦池の水をすべて抜き水源をビニールシートで保護し、その上に現在のコンクリート製の池を作成したとされているが、工事後の水源の現状調査等が行われた痕跡はまったく見あたらない。

現在の住宅棟あたりは薮下と呼ばれた地域で、これは麻布宮村町に所属した字名であり、現在もさくら坂西・南側は宮村町会に所属する。現在のさくら坂公園斜面下あたりには古くから金魚商「原商店」あり、金魚養殖販売とともに釣り堀が営まれていたため「原金」と呼ばれていた。昭和期、麻布にはこの原金の釣り堀意外にも現在も営業中の本村町「聚楽園」があったが、聚楽園はヘラブナ専門で、原金の釣り堀は金魚や鮒などが多かったのでビギナーや子供釣り客で大変な賑わいであった。またこの原金から周辺の町へリヤカーで金魚の行商も行われ、昭和40年代くらいまでは「きんぎょ~、えぇ~、きんぎょ~」のかけ声が町にこだまして夏の風物詩となっていた。 この原金池のほとりに江戸期には低級な岡場所があった (安永期には四六の大見世、五十文の切見世)があるとき、店の客あしらいに腹を立てた有馬藩士により打ち壊され、それ以降二度と店は出来なかったという。この岡場所に因んだ川柳が「薮下へ でる化け物は 切禿」、「十番の わきに子捨てる やぶもあり」などと詠まれていて、江戸期にはこの店などに幼童や幼女が親に売られて苦界に身を沈めた有様が伺える。

またこの池は彫刻家岡本太郎の母、岡本かの子の小説「金魚撩乱」の舞台としてこの池の金魚商の若旦那と高台の深窓令嬢の恋が描かれている。

○参考項目:はらきんの釣り堀

現在さくら坂となっている場所はほぼ同じ位置に江戸期からこの辺りに住んだ僧の名をとった「玄碩坂」とよばれた坂があり、桜田町方面から麻布十番方面へと抜ける要路であった。


東京ミッドタウン
東京ミッドタウン

●東京ミッドタウン

三井不動産が主体とらって東京都港区赤坂九丁目の旧防衛庁跡地の再開発計画で誕生した複合施設。シンボルのミッドタウンタワーは地上54階・高さ248mで都内でもっとも高い超高層ビルで日本全体でも、横浜ランドマークタワー(296m)、大阪ワールドトレードセンタービルディング(256m)、りんくうゲートタワービル(256m)に次ぐ四番目の高さである。

主な施設:サントリー美術館・ザ・リッツ・カールトン東京・USEN本社・富士フイルムホールディングス本社など

○所在地の変遷

  • ・元治1(1864)年-長州征伐により長州藩邸も打ち壊しとなる。
  • 明治21(1888)年-東京鎮台が廃止され第一師団となる。
  • 昭和11(1936)年-第1連隊が麻布麻布三連隊、近衛歩兵三連隊と共に二.二六事件の中核部隊となる。
  • 昭和29(1954)年-防衛庁本庁舎設置
  • 平成12(2000)年-防衛庁本庁舎が市ヶ谷地区に移転
  • 平成13(2001)年-「赤坂9丁目地区再開発地区計画」告示
  • 平成19(2007)年-東京ミッドタウン開業
○第一師団・師団長
・伏見宮貞愛親王
・閑院宮載仁親王
・真崎甚三郎、など
○第一師団・歩兵第1連隊・連隊長

・2代 乃木希典
・24代 東条英機
・29代 牛島満、など










国立新美術館
国立新美術館
国立新美術館敷地内の
麻布三連隊隊舎
国立新美術館敷地内の麻布三連隊隊舎

二・二六中核部隊と六本木辺
二・二六中核部隊と六本木辺





●国立新美術館

設立目的を展覧会の開催・情報収集およびその公開・教育普及とし、「森の中の美術館」をコンセプトとして親しみのある美術館として開館。しかし、美術品の収集保管という基本機能を欠如した美術館という批判的意見もある。

○所在地の変遷

  • 明治31(1898)年-第1師団歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)駐屯
  • 昭和11(1936)年-麻布三連隊が一連隊、近衛歩兵三連隊と共に二.二六事件の中核部隊となる
  • 昭和11(1936)年-麻布三連隊の主力が中国東北部に派遣される
  • 昭和14(1939)年-近衛歩兵第5連隊(通称:宮3804)駐屯
  • 昭和18(1943)年-近衛歩兵第5連隊が近衛師団から近衛第2師団に所属変更
  • 昭和18(1943)年-近衛歩兵第7連隊(通称:東部八部隊)駐屯
  • 昭和20(1945)年-米陸軍第一騎兵師団駐留
  • 昭和33(1958)年-星条旗新聞社を除く91848㎡(27,700坪)が米軍から返還
  • 昭和37(1962)年-東大生産技術研究所が西千葉から移転
  • 平成13(2001)年-東大生産技術研究所が駒場へ移転
  • 平成19(2007)年-国立新美術館開館
○第一師団・歩兵第3連隊(通称:麻布三連隊)・連隊長

・20代 梅津美治郎
・22代 永田鉄山
・23代 山下奉文、など


○近衛第1師団・歩兵第7連隊(通称:東部八部隊)・連隊長

・初代 皆美貞作


○近衛第2師団・歩兵第5連隊(通称:宮3804)・連隊長

・初代 永沢三郎
・2代  岩畔豪雄







政策研究大学院大学
政策研究大学院大学

●政策研究大学院大学(元・麻布三連隊敷地)
1997年に設置された国立大学。大学の略称は政策研究院、GRIPS。現役官僚、都道府県・政令指定都市の地方公務員等が学生として多数在籍し、主に埼玉大学大学院政策科学研究科の教職員を母体とし設置された。










麻布台懐古碑
麻布台懐古碑

●都立青山公園(元・麻布三連隊敷地)
1970年6月1日に開園した都立公園で南北2地区に分かれている。面積38,465.49m2 園内北東の高台には展望台と歩兵第3連隊と近衛歩兵第5連隊の関係者有志により1987年8月13日に建立された「麻布台懐古碑」が設置されており、1984年より南地区の一部が在日米軍赤坂プレスセンターの臨時ヘリポートに占有されている。






赤坂プレスセンター
(ハーディバラックス)
赤坂プレスセンター(ハーディバラックス)

臨時ヘリポート
臨時ヘリポート


●赤坂プレスセンター【ハーディバラックス】(元・麻布三連隊敷地)
終戦後、米陸軍第一騎兵師団が駐留し、昭和33(1958)年に星条旗新聞社を除く91848㎡(27,700坪)が米軍から返還された後も存続する米軍施設。港区はこの他にも天現寺橋に米軍将校宿泊施設「ニューサンノーホテル」があり、都区内では最大の米軍施設が存在する。余談だが、「ニューサンノーホテル」は二.二六事件で麻布麻布三連隊の安藤隊が占拠した赤坂山王の「山王ホテル」が終戦後米軍に接収され米軍専用宿泊施設である。この山王ホテルが昭和48(1973)年に返還されたのを期に新たに天現寺橋付近に米軍専用宿泊施設として「ニューサンノーホテル」が設立された。

ハーディバラックスには米軍準機関紙スターズアンドストライプス(星条旗新聞)極東支社、米軍横田基地の第五空軍司令部の出先、同司令部東京監理センター、神奈川県の米軍座間基地の出先、米陸軍東京監理施設、米国防調達会計検査局太平洋事務所など、在日米軍司令部機能の一部局、独身将校宿舎、米陸軍国際技術センター・太平洋、空軍のアジア宇宙産業開発事務所、海軍のグローバルアジア研究所、などが設置されているという。 また単なる噂の範疇をでないが、Echelon(エシュロン)と呼ばれる通信傍受(シギント)システムを主体となって運営しているNSAの日本拠点ともされている。しかし、NSA自体がNational Security Agency(国家安全保障局)の略語であるのに、No Such Agency(そんな機関はない)」、「Never Say Anything(何も喋るな)」などと揶揄されるほど実態は明らかにされておらず、その活動とされるEchelon(エシュロン)も当然公式に認められたことはない。

関連する道路工事の完了後には東京都に返還するとされていた麻布ヘリ基地による青山公園の継続使用は東京都・港区・住民との合意を得ていないため、不法占有部分とする主張がある。2007年1月に米軍の不法占有部分と同面積の別部分が返還される事が決定したが、都・区・住民は不法占有部分そのものの返還を要求している。 また1984年に完成した「臨時」ヘリポートは米軍各基地と東京中心部間の定期便を運行しており「各基地将官婦人の買い物のための空のタクシー」と揶揄されることもある。この運行ではヘリポートを発着するヘリコプターが麻布山塊の山肌に沿って上昇下降を行うため近隣住民は騒音で悩まされており、反対運動なども起こっている。これに対して港区議会でヘリ基地撤去意見書が決議、都も1999年に石原都知事が記者会見で「撤去に向け努力したい」と初めて麻布ヘリ基地問題に言及しているが一方で都は総合防災訓練会場として麻布ヘリ基地を使用し、平成4(1992)年には石原都知事がこの場所から米軍ヘリで横田基地を視察するなど、都の対応は不明瞭である。施設内の関連事件として昭和62(1987)年10月にはハーディバラックス内の独身将校宿舎で米兵同士の殺人事件発生し、犯人は基地外に逃亡したが後日逮捕された。また平成5(1993)年1月には敷地内「臨時」ヘリポートに向かうヘリコプターがエンジントラブルにより杉並区の中学校校庭に不時着するという事故も起きている。そして「ニューサンノーホテル」では平成8(1996)年に米兵が民家にレーザー光線を照射して問題となるが、当事者米兵は沖縄に逃亡し事件は未解決となった。




六本木周辺の坂





○芋洗(いもあらい)坂

六本木町から南日ヶ窪町へ下る坂。正しくは、麻布警察署裏へ上る道をいったが、明治期に六本木交差点への道が出来るとこちらが芋洗坂呼となった。毎年秋になると坂下の朝日神社周辺に近所の農民が馬に芋を括りつけて集まり、市を開いていたとされる。また芋問屋もあったとされ、朝日神社の鳥居前には芋を洗う小川(吉野川)が流れていたという。別説「いも」とは疱瘡で、朝日神社が疱瘡神を祭ったため「芋洗い」としたとされるが、その根拠は薄いとされる。


○饂飩(うどん)坂

芋洗坂から西へ上る坂。江戸時代に松屋伊兵衛という者が商ううどん屋があったあったため。古地図には饂飩坂と芋洗坂が逆に記されているものもある。


○市三(いちみ)坂

三河台町から市兵衛町二丁目へ下る坂で坂名は市兵衛町「市」と三河台の「三」からとられたもの。


○鳥居(とりい)坂

江戸時代坂上に鳥居丹波守の屋敷があったためついた名。別説には麻布氷川神社の二の鳥居があったためともされ、明治期までこの鳥居の土台が残されていたという。


○檜(ひのき)坂

檜町と氷川町の境を北に下る坂。坂西側が長門萩藩毛利家の中屋敷で屋敷内に檜が多かった事に因む坂名。坂下の窪地は清水谷と呼ばれたことから清水坂の別名もある。


○閻魔坂

六本木墓苑の脇から六本木3丁目13番と14番の境界を上る坂道。


○寄席(よせ)坂

市兵衛町二丁目西部。市三坂下から南へ登る坂。かつてこの付近に福井亭という寄席があったためついた坂名。


○丹波谷(たんばだに)坂

市兵衛町二丁目西部を不動坂と平行して西へ下る坂。坂下に岡部丹波守の屋敷があったため。


○なだれ坂・長垂(ながたれ)坂

市兵衛町二丁目から今井町に登る坂。流華・奈大礼・長華などと書いた。土崩れがあったためか。この坂の周囲に「流垂(なだれ)」の里俗地名があったためとも。幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。


○不動(ふどう)坂

市兵衛町二丁目西部を丹波谷坂と平行して西へ下る坂。江戸時代坂下に不動院があったためついた坂名。


○玄碩坂

桜田町から内田山に沿って宮村町北部の薮下へ下る坂。玄碩とはこの辺りに住んでいた僧の名。別名藪下坂ともいう。六本木ヒルズ建設に伴い坂は消滅し、一部がさくら坂となっている。


○大横町坂

霞町と笄町の境を西へ下る坂。江戸期このあたりを大横町と呼んだことに因む坂名。別名富士見坂。また坂下に笄橋があったため笄坂とも呼ばれた。


○霞坂

霞町中央部から西へ下る坂。南の櫻田神社が別名霞山稲荷と呼ばれたためついた坂名。霞町も同義。


○内田坂

宮村町北部の内田山を西へ上る坂。公道となったのは明治以降。江戸期内田豊後守の屋敷があったためついた名。南山小学校・六本木高校などがある。


○けやき坂

六本木ヒルズ敷地内を桜田町へと登る坂。六本木ヒルズ建設時に新設された坂で以前は団地と住宅街であった。


○さくら坂

内田山裾野にそって桜田町へと登る坂。坂上でけやき坂と合流する。坂下部はほぼ玄碩坂と一致する。六本木ヒルズ建設時に玄碩坂を破壊して新設された坂。



















●六本木周辺の学校

・区立六本木中学

戦前の府立第三高女(現都立駒場高校)跡地。戦後は港区立城南中学があった。平成10(1998)年三河台中学と合併し六本木中学と名称変更。戦前まで校庭には道灌山と呼ばれる古墳があり、また敷地内東部には昭和天皇の皇后、香淳皇后が后教育を施された「仰光寮」があった。(現在は都立駒場高校敷地内に移築)


・区立三河台中学

戦後城南中学の分校として開設された区立中学。平成10(1998)年城南中学と合併し六本木中学と名称を変更し城南中学旧地に移転。


・都立六本木高校

昭和17(1942)年東京府立第二十二中学校として設立し、昭和18(1943)年東京都立城南中学校となる。昭和23(1948)年学制改革により、東京都立城南新制高等学校となる。学校群制度の12群(城南・八潮・赤坂) 平成16(2004)年閉校し、都立のチャレンジスクール六本木高校となる。


・東洋英和女学院

明治17(1884)年カナダ・メソジスト教会宣教師ミス・カートメルにより東洋英和女学校として開校。開校時の元地は潮見坂下。幼稚園から大学までのキリスト教プロテスタント系の私立女子校。旧校舎は昭和8(1933)年ヴォーリズ設計によるものであったが、平成8(1996)年の改築後もその雰囲気は残された。進学校の麻布高校は明治28(1895)年、江原素六により麻布尋常中学校として東洋英和学校内に創立。明治23(1890)年、敷地内の校長宅で強盗殺人事件が発生した。







●六本木アンダーワールド~戦後六本木の隆盛

下記資料には六本木の戦後~バブル期の隆盛と変遷が克明に記憶されている。特に「東京アンダーワールド」にはイタリアンの草分け「ニコラス」の創始者ニコラ・ザペッティの隆盛と衰退を通して戦後復興から高度成長期の六本木が克明に描写されている。文中には初代ロアビルのオーナーなども登場し、不良外人、ヤクザ、ペテン師が織りなすピカレスク(といっても小説ではなくドキュメンタリーだが)となっている。ちなみに「東京アウトサイダーズ」はその続編。



★参考資料:

・東京アンダーワールド

・東京アウトサイダーズ

・六本木アンダーワールド―TSKCCCビル盛衰記

・六本木ケントス物語

2013年4月26日金曜日

麻布七不思議-がま池

現在のがま池付近
元麻布二丁目にある天然湧水の池。蟇池・蝦蟇池とも書く。江戸期は備中成羽を所領とする交代与力(旗本)山崎主税助治正の屋敷であった。

宮村町の奥(町域としては本村町)にあった200坪ほどの池。マンション建設の話が出た1970年代後半、外国人などが中心となって反対していたのを覚えている。私も小さい頃よく釣りをしたり、池の端の木でクワガタを捕まえたりした。特にクワガタを捕まえるのは明け方が多かったので、薄暗い池の端に行くのは、とても恐かった。現在はマンションになってしまったが、裏に池が残っている。この池に残された伝説の中の幾つかを紹介。
江戸時代後期(文政年間)、このあたりに山崎主税助という五千石の旗本の屋敷があり、この池の主の大がまが、よく座敷の菓子をたべにきていた。文政4年古川橋から出火した火がこのあたりまで延焼してきた時、この大がまが水を吹き付けて屋敷を守り、菓子の礼をしたそうな。




江戸期の旗本山崎主税助屋敷

池の主の大きな蝦蟇が夜中に、見廻りをしていた仲間(ちゅうげん)を池に引きずり込んで殺してしまった。主人の主税助はお気に入りの仲間を殺された事に大いに腹を立て、池の水を掻い出して蝦蟇を退治しようとした。しかし主税助がその晩寝床につくと、枕元に仙人のような老人が現れ「我は永年池に住む蝦蟇であるが、あの仲間は蛙が生まれる度に殺してしまうので仕方なく子の仇をとったのである。だからどうか池の水を掻い出すのは止めて頂きたい。もし願いを聞いてくれるならば以後このような事は二度としない。そして、当家に火難が降りかかった時は、我の神通力をもって必ず屋敷を守るであろう。」と告げた。
主税助は夢から覚めると今の夢を半信半疑ながら、蝦蟇退治を中止することに決めた。しばらくたった弘化二年の大火の折にこの辺り一帯も猛火に包まれた。そしてこの屋敷にも火が廻ろうとした時、池から大きな蝦蟇が現れて池の水を巻き上げ屋敷一面に吹き付けた。これによって付近は総て焼失したにもかかわらず、山崎家の屋敷だけは難をのがれた。
この噂が世間に広まり、主税助は「上」と書かれた防火のお札(後には火傷のお札)を側用人であった清水家に作らせ「上(じょう)の字様」と呼ぶと、国中から注文が殺到したと言われる。これは当時の大名などがアルバイトとしての収入を得ようとしたもので、芝の金毘羅宮、赤羽橋の水天宮と同様である。
屋敷は明治になると渡辺国武(大蔵大臣)の所有になったが、お札の販売権?は清水家が継続して任された。清水家は維新後に東町に住む事になったために、本来お札は、がま池の水を八月の決まった日に汲みそれを種に「上」の字を書くのだが、その池が他家の所有となって使用出来なくなってしまった為に、家の近所の井戸水を使用したと言われる。また清水家の御子息は帝大を卒業し銀行の幹部となったが、早世した。この帝大時代の学資は「上の字様」からの収益だったと書かれた本もある。その後昭和になると、末広神社(現麻布十番稲荷)が授与するようになり、現在も続いている。

別説-2

明治初期のがま池
享保の頃この池の辺に人の良い裕福な百姓が住んでいた。ある日、池に面した座敷でうたた寝をしていると、1匹の蛙が現れて、近いうちに江戸に大火があるが、私がいるからこの辺は大丈夫だ。火事でやけどをした人たちには焼灰をこの水で練ってつければ必ず治る。という夢を見た。不思議に思っていると、二日ほどして赤坂から発した火事は北風に煽られて大火となり、このあたりも火の海になった。すると池から濛々と水蒸気が立ち昇り池の周囲は、一軒も燃えなかったので、人々はがま池の徳を感謝した。先日の夢を思い出した主人は、焼け跡の灰を池の水を清めて練りやけどをした人たちに無料で施した。するとたちまち全快したので江戸中の評判となり遠方からも求めにくるようになったと言われる
別説-3

ある夏の夕暮れ、山崎主税助の屋敷に来客があって、池に面した縁側で茶を飲みながら話をしていると、置いてある菓子が夕闇の中を池の方に飛んでゆく。不思議に思って菓子が飛んでゆく方を見ると池の中に大きな蝦蟇がいて、菓子を吸っていた。主人の主税助はひどく立腹して明日は池を替え、乾かしてしまうと告げた。するとその晩主税助の枕もとに蝦蟇がやってきて「助けてくれれば、火事の折にはきっと恩返しをするから」と許しを請うた。しかし主税助は、もっと世間の為になる事をするならば助けようと言うと蝦蟇は主税助に火傷のまじないを教え、それが上の字信仰となった。

上の字(じょうのじ)」信仰

○東京案内

往時蝦蟇の奇譚ありとて、同藩士清水氏より火傷の守札を出し、其名世に知られたり


東京名所図会のがま池
○港区史跡散歩

~この事件にちなんで山崎家では、防火のお守りとお札を出したところ、人気に投じ、受ける者が続出した。これを「上の字様」と呼んだのは、その上部にただ「上」の一字が記してあっただけであるからという。明治維新後、山崎家が移転したのちは、同家の家来筋に当る付近の清水家から領布した。同家の子息はこのお札の売り上げによって帝大の学費が出たといっている。~




○幕末明治 女百話

~山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町(ひがしまち)の、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った(ひと) ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入(みいり)で、学費がつづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。『ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄い水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだ』とよく話してでした。

後に鉄ちゃんは大学を卒業して、第百銀行へ入り、大層出世をなさいました。支配人となって夭死をされましたが、蟇池の由来と、上の字さまのお札は、古い方はご存じでしょう。近頃上の字さまのお札を、麻布日ヶ窪の末広神社から出していると聞きました。~



昭和期のがま池
○江戸の化物 岡本綺堂

~麻布の蝦蟇(がま)池(港区元麻布二丁目一〇番)、この池は山崎主税之助(ちからのすけ)という旗本の屋敷の中にありましたが、ある夏の夕暮でした。ここへ来客があって、池に向かった縁側のところで、茶を飲みながら話をしていましたが、そこへ置いてある菓子器の菓子が、夕闇の中をふいふいと池の方へ飛んでゆきます。二人は不思議に思って、菓子の飛んでゆく方へ眼をつけますと、池の中に大きな蝦蟇がいて、その蝦蟇が菓子を吸っているのでした。主人主税之助はひどく立腹して「翌日は池を替え、乾かしてしまう」と言いました。 するとその夜、主税之助が寝ているところへ池の蝦蟇がやって来まして、「どうか助けてくれ」と頼みました。そうして、「もし火事などのある場合には、水を吹いて火事を防ぐから」というようなことをいいました。 しかし、主税之助は、「ただ火事の時に水を吹いて火を消すというだけではいけない。それは俺(おれ)の一家の利益に過ぎない。なにか広い世間のためになることをするというならば許してやろう」といいますと、蝦蟇は、「では、火傷(やけど)の呪(まじない)を教えましょう」といって、火傷の呪を教えてくれたそうで、その伝授に基いて、山崎家から「上の字」のお守を出していました。それが不思議に利くそうです。 お守りは熨斗形(のしがた)の小さいもので、表面(おもて)に「上」という字を書いてその下に印を押してあります。その印のところで火傷を撫(な)でるのですが、なんでも印のところに秘方の薬がつけてあるということです。~




○十番稲荷神社由緒書

江戸時代、文政四(1821)年七月二日、麻布古川辺より起こった火の手が備中成羽領主山崎主税助の屋敷にまで迫った時、邸内の池から大ガマが忽然と現れて水を吹きかけ、それを退けたという。

 以来、大ガマの御利益にあやかろうと大勢の人々が山崎家にお札を求めた。
そこで山崎家では「上」の一字が書かれた御札を万人に授ける様になった。この御札は「上の字様」と称され防火・火傷や毒虫除の御守として、篤い信仰を集めた。

 その後、「上の字様」は当社前身である末廣神社に伝えられ、戦前まで絶えることなく授与されていた。
 戦後、「上の字様」は途絶えてしまったが昭和50年に至り大ガマに因んだ「かえるの御守」として復活した。この御守は火事・火傷除としてだけでなく「かえる」の語音から転じて、旅行や病院から無事帰る、遺失物が返る、若返る等の御守として尊ばれている。

元の御札「上の字様」は六十年以上の時を経て猶、御札を求める声が当社に寄せられ続けており、当社ではそれに応えるべく、神社に残された記録や故事を訪ね続け、平成二十年に至り漸く元の御札を復元することが出来た。

 再度領布するに際し「上の字様」には新たに「家の諸災難除」の御神札としての御利益も有るように十番稲荷の大神様の御神威を仰ぎ、祈祷を捧げた。







○昭和期がま池の遊び


昭和34(1959)年のがま池
(写された港区-麻布地区編)
昭和34(1959)年のがま池(写された港区-麻布地区編)
昭和40年代前半のがま池図
昭和40年代前半のがま池図


がま池は当時から公園ではなく私有地であったため、危険を考えて所有者は一般の立ち入りを禁止していた。そして池の周囲は植栽と鉄条網で守られていた。西側に池の正式な入り口があったがその前には管理人の住居があり、見つかると厳しく怒られた。しかし、周囲の鉄条網は何者かの手によりいつもどこかが破られており、子供達の池への入り口となっていた。ごくたまにすべての鉄条網が補修されている場合は、当時既に使用されなくなっていた南側斜面にある階段を民家のガレージを無断通過して使用し、池に侵入した。しかしうまく池に侵入できても運が悪いとすぐさま管理人の目にとまり、追い出された。しかし、何度追い出されても再び舞い戻っては新たな入り口を探し当て、侵入を繰り返した。

昭和40年代前半のがま池での遊びは何と言ってもザリガニ釣りである。当時私たちはザリガニの成体を「マッカチ」「マッカチン」などと呼び、たこ糸にスルメイカを結びつけた単純な釣り道具で釣り上げた。またハサミが赤くなる前の幼体を「アオタン」と呼んでいたが、アオタンは釣果としての価値が格段に低かった。そして、少し高学年になると竹の一本竿でクチボソ釣りや当時「タフ」と呼んでいた和メダカなどを釣った。今から思えばメダカを釣るとは狂気の沙汰であるが、当時は真剣そのもので、十番の釣り道具屋で極細の「タナゴ針」などを購入し、メダカ釣りを楽しんだ。しかし、時には何かの間違いでこのタナゴ針に体長四十センチ以上の鯉や、かなり大きな鮒が掛かることがある。しかし、所詮竹の一本竿にタナゴ針ではなすすべもなく糸を切られるか、場合によっては竿ごと水中に持って行かれてしまった。

また、釣りで使用するたこ糸、スルメイカなどの購入は当時近隣の駄菓子屋で調達した。駄菓子屋は記憶にあるだけでも、宮村公園そば・本光寺脇・麻布保育園(狸坂下)脇・暗闇坂下・本村町本村公園前・有栖川公園そばなど数多く点在し、調達に困ることはなかった。

釣りの他にも夏場はクワガタ捕りの聖地として密かに語り伝えられた場所でもあった。「密かに」とは当時のクワガタ生息木は先輩から後輩へ一子相伝で伝わったためで、宮村町周辺には麻布山、賢崇寺、本光寺などと並んでがま池にはクワガタが生息する木が多くあった。しかし捕獲には早朝が適しているので、他の子供を出し抜くために夏休みには「ラジオ体操」前の時間帯でなければならない。それにより必然的に早起きをすることとなった(シーズン中だけだが...)。しかしその捕獲時間帯も次第にエスカレートしてゆき、夜が明けきらない御前4時前後となってしまった。そして、クワガタの生息木は墓地やがま池などとても淋しい場所に多かったので、薄暗い墓地やがま池に入り込んで捕獲作業に専念したが、幼児心にも恐怖心でいっぱいであった。特にがま池は麻布七不思議を知っているので、夜も明けきらない水面で鯉などが跳ねようものなら、大ガマかカッパ?か!っと、足がすくみ大急ぎで捕獲作業を終え、逃げるように帰宅したことを昨日のことのように覚えている。ちなみに捕獲には網や虫カゴなどは「幼稚っぽい」として頑として使わず、捕獲には木の根元を掘るか、足で蹴って木を揺らした。そして捕獲したクワガタはそのまま半ズボンのポケットに入れて持ち帰るという、何ともマタギちっくな捕獲方法であった。

夏場はその捕獲したクワガタの保有数と大きさがステータスであった。私たちよりさらに年上の先輩にはカブトムシを捕獲した者も多数いたが、乱獲がたたってか私たちの時代には既に絶滅していたと思われ麻布での捕獲経験は無い。ある夏、例年よりクワガタが不漁で捕獲数が他の子供より少なかった時に一度だけ嘘をついたことがある。当時出来て間もない(1964年開業とのこと)青山ピーコックまでチャリンコを飛ばして、特売の特大クワガタを購入し、友人に見せびらかした。友人はその大きさに驚いたが、自身の虚しかった気持ちは今でも忘れられない。

そしてさらに高学年になるとチャリンコという移動手段を手に入れた私たちはその行動範囲を大きく拡大し、釣りの種類により場所を設定することになる。主だった場所は、

・がま池-ザリガニ・クチボソ・タフ
・有栖川公園-ザリガニ・クチボソ・タフ
・六本木、檜町公園-クチボソ・タナゴ
・赤坂、弁慶橋-クチボソ・タナゴ・手長エビ
・東雲-ハゼ釣り
と、広範囲に及びさらに釣り具も竿意外に「四つ手網」「セロビン」と進化し釣果も倍増したため、一時期の我が家は小型の水族館と化した。余談として、当時私たちの行動範囲を大きく拡大したチャリンコだが、実は小学校から放課後のチャリンコ遊びは禁止されていた。当時この理由を「交通事故の危険から」としか認識していなかったが、10年ほど前に話した幼なじみとの会話の中に、当時東町小学校に転校してきた悪童が仙台坂を猛スピードのチャリンコで駆け下りて老婆と接触事故を起こしてしまった。これにより港区内の各小学校が「自転車遊びの禁止」となったという。その事故を起こした悪童の名前は....元プロレスラーの大仁田厚氏であるという。

高学年になると、がま池や空き地などで爆竹・2B弾(正確には2B弾は社会問題となり禁止となったため「クラッカー」であったが)などの花火遊びをした。これらの場所は大人が入りこめないので火遊びをしても叱責されることがないため、池や空き地では頻繁にそれらの破裂音が聞こえていた。高学年になるとザリガニ釣りも飽きてしまい釣ったザリガニに爆竹を握らせて吹き飛ばすという今から思えば恐ろしく残酷な遊びをしていた。またロケット花火を縦に3段に重ねて飛ばす「アポロごっこ」も私達的には流行った。しかしこれは非常に危険な遊びで、各段のロケット花火を垂直に重ねないと上昇せずに水平に飛び、一度お尻から火を噴いたままの3段ロケットが民家の屋根に乗ってしまい大慌てしたことがあった。幸にもこの時は火災などにはならなかったが、この時ばかりは普段恐れていた大ガマが現れて、口から水を吐いて花火の火を吹き消してくれることを本気で願った事をいまだに覚えている。

 1999(平成11)年7/25日私が最後に入ったがま池です。 あらかじめ見学希望の意志を示し 、当時のオーナーの血縁の女性(S.Gさん)に開けてもらい中に入りました。 現在の建物ではなく池の中に杭だけが入る形で建てられていた以前の建物は昔のがま池の広さを完全に保っていました。
敷地内に一歩足を踏み入れた瞬間、私は小学生に戻っていました。うっそうとした緑と蝉時雨の大合唱。そして池の奥からは子供たちの歓声が聞こえてきそうです。  マミー、としちゃん、池に落ちた年少のかっちゃん。民なの顔が浮かんできます。 
撮影を済ませると三十分ほどで礼を言って表に出ましたが、これが昭和のがま池を見る最後となりました。             



                    1999(平成11)年7/25日がま池

  ※この動画は当時出始めたばかりの「デジタル・ビデオカメラ」で撮影したのですが、まだデジタル機器の著作権問題が解決していない時期だったため、デジタル出力が不可能でした。よって従来どうりのアナログ出力でしかもQVGAでした出力できなかったため、画像がブロックノイズだらけでお見苦しい点は、どうぞお許しくださいm(. .)m








がま池水流
がま池水流

○がま池水流

がま池から流れ出す余水は、昭和期には池北側にあった水門(昭和40年代前半のがま池図参照)から下水道にに落ち込んでいた。この水門は大雨などでザリガニも流れ落ちる「穴場」だったので、私と同年期の少年たちのなかには水門から下水道に入り込んで宮村公園坂上あたりまで探検した猛者もいたという。また昭和40年代前半の宮村公園擁壁は、冬場にいち早く氷が貼る場所だったので冬場の格好の遊びであった。公園脇の住居路地にはいくつかの井戸が掘り抜かれており、いつも水を豊富に湛えていた。この通路は昔は細流であったと思われ、現在も公園脇から狸坂下まで通じている路地は同様にがま池水流の細流であった。そして狸坂下あたりで大隅山方面から流れ出る宮村水流と合流して内田山の麓沿いに現在の更科堀井の西側付近でニッカ池水流や芋洗坂を流れ下る吉野川水流と合流し現在の浪速屋たいやき前あたりまで直進してその後十番大暗渠から一の橋で古川に合流した。このがま池・宮村町水流の昭和初期の様子を「十番わがふるさと」文中で稲垣利吉氏は、

~家の前(安全寺裏手辺か)の四十センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から滾々と湧き出る水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。今は暗渠になっているが、現在も一ヶ所だけ昔をしのぶ場所が残っている。(奥の三叉道路石屋の前の下水)~

~現在五、六十才位の人の少年時代までは(がま池は)相当大きくて外からも自由に出入りできたのでこの辺の少年達の遊び場であり、皆釣竿を持って小魚を釣りに行ったものである。が大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕かけてどじょうや小魚をとる。
と記して、がま池に豊富な魚類が生息していたことを伝えている。





○麻布白亜館

1966(昭和41)年から1977(昭和52)年頃までがま池の東側畔(麻布本村町35番地)に存在した伝説の会員制フレンチレストラン。白亜館の名付け親は故保富康午氏。当時絶頂期にあった××軍団のボスを泥酔状態で非会員であったため追い返したことにより業界でも一躍有名となったという。

関連記事:麻布白亜館-その1





二度の保存運動

大正時代頃、麻布周辺の再開発・宅地化がさかんに行われた。これは地方からの労働者がこの時期大量に東京に流入したことと無関係ではないと思われ、好景気による土地取得者の増大、四の橋周辺を含む古川端の小工場などの労働者の住居確保などにより、小規模な住宅やアパートが次々に建てられていった。西町近辺も大手建設会社による分譲・宅地化が行われ、お屋敷が次々と姿を消していった。また宮倉公園脇の住宅や、狸坂下から麻布十番へ続く切り通しの斜面が掘削されたのもほぼ同時期であった。そして開発に伴いそれまで屋敷地内であった通路が公道となって宮村坂・内田坂など多くの坂や道路が貫通し、庶民の利便性が向上したことによりさらに住民が増えていったものと思われる。同時期にがま池周辺の宅地化が始まり、池の周辺が次々に分譲されて住宅となっていった。

その後関東大震災では地盤の堅牢さから大きな被害が少なかった麻布地域は昭和期の太平洋戦争による空襲で大きな被害を出しつつも、被災を免れた建物も多く存在した。そして時代は下って1970年代、麻布各地でも建物の老朽化から木造住宅のビル化が始まる。



●1972(昭和47)年の保存運動

1972年のガマ池保存運動を伝える
毎日新聞記事
1972年のガマ池保存運動を伝える毎日新聞記事
がま池平成11(1999)年7月
がま池平成11(1999)年7月


1972(昭和47)年、当時ハワイ大学教授で渡辺国武の子孫である池の所有者が土地の有効利用からマンション建設を計画した。そしてこの計画にほとんどの周辺住民は池が「民有地」であることから池の存続あきらめてしまった。これに対して池の保存を訴えて保存運動を展開したのは周辺に住む外国人たちであった。この様子を毎日新聞S47・3/4付け朝刊の「問いかける群像14」の「ガマ池が消える  怒った、立った 外人が...」と題した記事は克明に伝えている。

・ドイツ大使館 ゼーマン一等書記官と婦人
・タイムライフ誌 ニックル東京総局長、
・フランクフルター・アルゲマイネ ロス極東特派員、
・海運会社社長夫人 アイアーズ婦人、
・ブランズウィック社 フリント日本代表、
など50人余りの外国人が当時の大石環境庁長官、美濃部東京都知事に池の保全を陳情し、さらに池の歴史を調べ周辺住民へ回覧板による保存運動を展開した。この時の外国人活動家の心情を記事では、
それにしても不思議でならないのは、いま日本では、自然保護が叫ばれ、緑化運動が各地で進められているのに、一方で、こうした現にある美しいオアシスが平気で破壊され、しかも、だれも、それを守ろうとしないことだ。どうしてでしょう。なぜなんでしょう.....

がま池はエピソードの多い、由緒のある池だった。日本人がなぜこのようなエピソードを忘れはて、目の前で大切な自然が破壊されようとしているのに、どうして無関心でいられるのか、不思議に思った(アイアーズ婦人)
と記している。
この問いかけに遅ればせながら周辺住民の山崎幸雄千葉大教授なども保存運動に参加し、また宮村町会長斉藤氏なども運動とは別に3800人におよぶ地域住民の署名を集め港区議会に「ガマ池保存の請願書」を提出した。これら地元日本人の活動に外国人活動家の間でも「池は助かるだろう」と期待をふくらませた。しかし.....

陳情を受けた当時の小田清一港区長(当時)は自身の少年期にガマ池で遊んだ経歴などを披露しつつも、
「私の孫たちはもう知らんでしょうな。だれも教えてやらんから」
っと、まるで他人事のようなコメントを発している。 さらに池の保全についても、
「できれば残しておきたいのだが区には買い上げるだけの財源がない。都や国が買ってくれればねー」
と責任転換。都は池の面積が小さすぎて都立公園向きではない。としつつも首都整備局長談話として、

「区が将来、公園にすると約束するなら先行取得してもいいのだが、区にはその気もないようだ」
と重大な発言を掲載して、港区は当初から池保全の意志が全くなかったことを記事は裏付けている。 そして環境庁も官房参事官の発言として
「所管外でどうしようもない。都で善処してほしいものです」
と、いかにも「お役人」らしいコメントを発している。

これに対して記事は建設主渡辺氏がハワイ在住であるため代理の弁護士談話として
「なにがなんでもマンションを建てようというのではない。都や区が池を買い上げてくれるなら応じるが、買ってくれない以上、地主だって生活がかかっている。池の景観を壊さないよう細心の注意を払って、ガマ池をより美しくするような立派なものを建てる。ガマ池を守ろうとしているのは私たちだ」
とのコメントを掲載している。

その後工事は着工され、現在とほぼ同位置にマンションは建設された。そしてマンションは堅牢な壁面に守られガマ池に忍び込んで釣りなどを楽しむ少年の姿は皆無となり、それによりガマ池は真に伝説の池となってしまった。 しかし、この建物は池には全く手を付けずに建設されており、建物の一部分はフローティング状態で池に張り出していただけで池自体は100%残され、ほぼ完全な状態を保っていた。




●2001(平成13)年の保存運動


旧マンション解体時のがま池
旧マンション解体時のがま池

2001年がま池保存運動
2001年がま池保存運動
池の保全を訴える看板
2001年がま池保存運動
池の保全を訴えるポスター
池の保全を訴えるちらし

前回のマンション建設から30年余りが経過した2000年、池の所有権は森ビル系列の子会社「株式会社サンウッド」のものとなりマンションの立て替えが申請された。これにともない翌2001年池周辺の住民ら750人が池の景観と保全を求めて「旧跡がま池を守る会(以下守る会)」を結成、建築家の団紀彦氏(父は音楽家の団伊玖磨氏)が会長となった。守る会は署名運動・区議会への誓願・陳情など積極的な活動を行い。さらにインターネットで「守る会」サイトを立ち上げ、池の由来、湧水、野生動物の生息状況などを掲載すると共にサイト上からも池保全の電子署名が出来るなどの仕組みを作った。 また「守る会」は港区を仲介としてで業者と周辺住民の協議会を設け解決の糸口を探った。

この協議会は土地所有者・周辺住民・港区・教育委員会の四者によるものであったが当初行政側は「四者協議会」ではなく、「土地売却問題についての説明会」であるという認識から教育委員会が会議に出席せず、周辺住民・港区・土地所有者(株式会社サンウッド)の三者による会議となった。 さらに次の協議会では「守る会」側の要請により土地所有者(株式会社サンウッド)が早くも転売を決めた転売先業者も出席し、協議の場がもたれた。しかし、協議は平行線をたどり区、都、管轄省庁は1972年とほぼ同様の対応を取ったために工事は何事もなく開始され、池の面積(約700㎡)のうち埋め立ては約4分の1の175㎡に及んで「ウィンザーハウス元麻布」が完成した。

○ウィンザーハウス元麻布

・竣工:2002年8月
・用途地域:第一種中高層住居専用地域
・容積率:200%  建蔽率:60%
・鉄筋コンクリート造・地上6階
・戸数:10戸
・駐車場収容台数:7台
・敷地面積:1901.52㎡(575.21坪)
・延床面積:2993.17㎡(905.43坪)
・設計:入江三宅設計事務所
・施工:佐藤工業株式会社
・デベロッパー:株式会社サンウッド

完成後も「守る会」は池の一般公開を求めて活動し、 平成15(2003)年2月28日に区建設委員会に提出された「がま池の公開実施に関する請願書」には港区議16名の紹介が添付されているが、議員は党派を超えて自民・公明・民主クラブ・共産・他など多岐にわたっている。

その後、残念ながら建物はさらに転売され、協議会で転売時には公開規約を継承するとしたにもかかわらず、それが守られた形跡は無い。また「守る会」も署名支援者などへの説明・報告もないまま突然活動を中止し、オフィシャルサイトも閉鎖されたままとなっている。多少なりとも「守る会」を通じてがま池の保存を念じてきた筆者は、会がNPO設立まで画策しながらも結果的には挫折したことから、これら一連の活動目的が真に自然保護・史跡保存運動であったのか、単に周辺住民の私的な景観保護・環境保全による固有資産の保護、保障問題の優位性確保であったのか.....未だに総括が出来ていない。






がま池関連の新聞記事
日 付 新聞名 見出し
1972(昭和47)年 3/4 毎日新聞 「怒った、立った外人が...」
10/7 朝日新聞 マンション着工でピンチ「がま池を残して...」
1991(平成3)年 11/10 読売新聞 「大火防いだ大ガマ伝説」
2001(平成13)年 2/25 東京新聞 「都心の"原風景"がま池も...」
4/24 読売新聞 「がま池協議平行線」
4/27 朝日新聞 「がま池一部埋め立て計画」
5/4 東京新聞 「麻布の水系への影響は」
5/9 読売新聞 「がま池の買い取り要求」
東京新聞 「保全策求め三千人分の署名提出」
5/12 読売新聞 「業者が建築確認申請」
?新聞 「がま池買い上げ課題多い」
6/5 東京新聞 「共有地化など検討」
7/10 東京新聞 「住民がNPO設立準備」
7/14 読売新聞 「予定地買い取り断念」
東京新聞 「港区が買い取りも代替地取得もせず」
8/5 朝日新聞 「業者が工事を再開」
8/11 読売新聞 「環境相 かかわり難しい」



麻布区域の湧水地点一覧



平成14(2002)年3月 港区みどりの実態調査<第6次>報告書  表3.11.2 湧水地の状況
No. 名 称 所在地 湧水量 湧水状況 周辺状況 備 考 DEEP AZABU注
5. K氏邸 麻布狸穴町×× 住宅地及び商業業務地 湧水箇所特定できず *
6. 所在不明 南麻布3-9-6 有栖川公園やフランス大使館の樹林が周囲に見受けられる 湧水箇所特定できず 聚楽園池か
7. 光林寺 南麻布4-11-24 +++ ポンプアップ フランス大使館の樹林が寺のものと一体となり、緑の塊をなしている。北に有栖川公園が位置する 深い井戸で水は生治水として利用している。 *
8. 有栖川公園 南麻布5-7-28 + ポンプアップ 公園自体が質・量的に高い樹木地となる 池の脇に井戸を設け、ポンプで水を池に流す。 *
9. 善福寺 元麻布1-6-21 +++ かなり大量に流れる 周囲に小規模な樹林地が点在する 柳の井戸として文化財に指定されている *
10. 宮村児童遊園 元麻布2-6-22 + 染み出す程度 小規模な樹林地が点在する 公園内の擁壁下部より湧出 *
11. がま池 元麻布2-10 自然湧水 小規模な樹林地が点在する * *
12. 笄小学校 西麻布3-11 井戸校舎内の1ヶ所に湧水を集め
ポンプで汲み上げる
* *
13. 所在不明 六本木6-11 * 湧水箇所特定できず ニッカ池か


湧水量
+++ かなり大量に湧出する
++ 連続して湧出する
+ 滴程度で湧出する
湧出量不明
湧水地特定できず











追記


 伝説の「がま」が山崎邸に現れたのは麻布区史によると文政4年(1821年)4月2日との事であるが、このように日付まではっきりさせているのは、「上(じょう)の字」信仰の効能を強調するにあたり、その過程で詳細な話が出来ていったとの事。ちなみに屋敷の主山崎主税助は、備中成羽を領する大名の分家で明暦3年、家が無嗣断絶となりその後交代寄合として存続する。
屋敷は現在の本光寺と境を接し、西町インタ-ナショナルスク-ル、安藤記念教会を含んだ広大な敷地であり安政年間から明治にいたるまで11396坪を有した。それ以降昭和初期までは池の広さが約500坪ほどもあった。また池は、明治35年の「新選東京名所図会」にも登場し、その幽玄さが記されている。しかし、大正頃から開発が進み一帯が分譲地となり、池周囲も石垣などで囲まれ旧観を失っていった。

 マスコミなどで麻布の名所として幾度も取り上げられてきたがま池だが、勘違いされやすいのはこの池は誰でもが入れる公共の施設ではなく、いつの時代にも「立ち入り禁止の私有地」であったことである。私を含めて多くの近隣の少年たちはこの池で遊んだ少年期の体験を有しているが、それは土地所有者の目を盗んで「忍び込んだ」ためで、池の前には土地の管理人の家(現在教育委員会の解説板がある場所))があり厳しく人の出入りを監視していた。そして見つかると厳しく叱責されて追い返された。よって子供の目の前で親が叱責されるという危険を冒してまで侵入する親子連れというのは考えられない。また、大人同士の侵入も不法侵入と見なされ警察に突き出される恐れもあったので、ほとんどみかけなかった。よってがま池で遊んだ経験を有するのは、そのほとんどが少年のみである。また最近NHKの番組内で紹介された池から気泡があがっている画像を見て湧水といって喜んでいる周辺住民もいたが、回水ポンプ機の気泡であることは明らかである。そして、平成14(2002)年の湧水調査(港区みどりの実態調査)によると、池の湧水は不明という曖昧な表記で明言を避けている。また同番組では池の撮影を許可されたようだが、一方でローカルTV制作スタッフが公共番組作成のために撮影を申し込んだ際にはマンション管理会社により拒否されているという現実も忘れてはならない。

 地元住民の中でも頻繁にがま池で遊んだ経験を本当に有するのは、周辺で少年期を過ごした者のみかと思われる。後年、数度のがま池保存運動が行われたが、地元住民の中でも池への思いに温度差があるのは、少年期のがま池遊び経験を有しているか否かがあったことは否定できない。また、現在のマンションが建設される前の建物は池はそのままで基礎を打ち池の面積はそのままであったが、現在の建築物は池を埋め立てて地下駐車場まで建設してしまったのでもはやその部分には水脈も存在しない。しかし、今でも早朝などに池横の道路を歩いていると元排水溝(私たちは水門と呼んでいた)があった付近のマンホールからは水流の音が聞こえている。「生活排水の音」との区別は難しいが、少年期の夏休み、まだ夜も明けきらない静まりかえったがま池にクワガタ捕獲で忍び込んだときにいつも聞いていた水門に流れ込む音と酷似している。わずかな望みではあるが、池の南側といわれる湧水噴出地点は細々と生きているのかもしれない.....と思いたい。





2013年4月25日木曜日

麻布七不思議-七色椿

麻布区史に掲載された
七色椿
暗闇坂を登り氷川神社方面の右手(西町22番地:現在の西町インターナショナルスクールあたり)に、七色の大輪の花をつけ、枝を四方に張り咲き乱れた東京でも有数の椿の銘木が ありました。「七色椿」とも「化け椿」とも呼ばれていました。

この地は、明治の官僚・政治家であった渡辺千秋の長男、実業家で司法大臣、 日仏銀行頭取千冬氏の邸でした。弟は隣接地がま池を屋敷内に持つ渡辺国武子爵で、この兄弟が一時期「がま池」、「陰陽石」、 「七色椿」と麻布七不思議のうち3つを所有していたことになります。しかし、残念ながら1937(昭和12)年に枯死してしまったそうです。

麻布区史には、
~西町22元加奈陀公使館、現クレーン邸内にある。以前は諸岡某氏の邸であった。幹囲1.3米、数株の幹が合したように見へてゐる。古来朝晩花の色を異にすると云って化椿の異名があり、 麻布七不思議の一に数へられた。思ふにこれは数株の椿樹を一纏めにして植えたのが抱合癒着して成長した為めに、 花の色に相異が出来たのであろう。惜しい哉、近年枯損して今は残骸を止めてゐるに過ぎない。~
とあり麻布区史が出版された昭和16年(1941年)には、すでに枯死していたことが伺えます。 また、時代劇小説「耳袋秘帖 麻布暗闇坂殺人事件」では「お化け椿」として描かれています。

麻布区史は天然記念物の項目この七色椿の他に下記を掲載していますが、現存している銘木はは少ないようです。



麻布区史に掲載された天然記念物指定樹(昭和16年当時)、その他の銘木
分類No.樹 名場 所現存備 考





1.善福寺の公孫樹麻布山善福寺境内昭和20年5月の空襲で焼けたが、戦後自力で再生
2.旧徳川邸のキハダ飯倉町貯金局構内×貯金局は現麻布郵便局。
3.秋葉社のビャクシン森元町×ビャクシン属(柏槇属)は、ヒノキ科の針葉樹の一種。
4.元加奈陀公使館の椿西町×七色椿・化け椿とも
5.一本松一本松町麻布七不思議の一つ。現在の木は戦後植え継がれたもの
6.羅漢松内田山南山小学校校庭×樹上空洞に白蛇が住むと伝説されたが昭和13年の暴風雨で倒壊
7.岡の桜飯倉片町×江戸期の御殿医「岡仁庵」邸にあったしだれ桜。
大田蜀山人に、「永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦」と詠まれた。





8.佐々木邸の藤富士見町×樹齢200年の藤。他所に移植
9.木下桜麻布広尾町×江戸名所花暦に「ただ小山に雲をあびたるが如し」と記される彼岸桜
10.曹渓寺老松本村町×別名「絶江の松」
11.光林寺の桜富士見町×江戸名所花暦に記載
12.楊枝杉麻布山善福寺×親鸞押給の大樹の杉。山中の岩の中より生じたる木とある
13.天真寺の銭懸松本村町×天真寺の銘木





港区内の天然記念物指定樹木(港区みどりと生きもの2010掲載)
No.樹 名場 所指 定備 考
1.善福寺のイチョウ麻布山善福寺国指定樹齢750年以上 幹周り:10.4m
2.旧細川邸のシイ高輪1-16-25都指定幹周り:8.13m 樹高:10.8m
3.芝東照宮のイチョウ芝東照宮都指定幹周り:6.5m 樹高:21.5m 推定樹齢370年
4.増上寺のカヤ芝増上寺区指定幹周り:4m 樹高:25m 推定樹齢600年
5.氷川神社のイチョウ赤坂氷川神社区指定幹周り:7.5m 推定樹齢400年







★江戸期の銘木

江戸名所花暦(文政十年1827年刊)、江戸鹿子(貞享四年1687年刊)、続江戸砂子(享保十七年1732年刊)などに掲載されている麻布近辺の名所、銘木、銘花。(現住所とは、銘品が当時あった所在地を現住所に置換したもので、現存の意ではありません。)


江戸期麻布辺の名所、銘木、銘花
場所、木銘出典種類現住所備考
宇米茶屋江戸名所花暦白梅白金2丁目1-3麻布三子坂にあり。一重の白梅なり。正月下旬盛りなり。外よりは遅し。古木なり。遊行陀阿一海上人、この梅に題して歌あり。この花の白かね名に高く 千歳をこめてみのるとこうめ
また江戸名所図会に「梅か茶屋」と紹介されている。
麻布竜土組屋敷江戸名所花暦梅樹六本木7-9麻布竜土組屋敷とは御先手組屋敷の事。立春より6、70日目。梅樹、家ごとの入り口にあるもあり。または後園にあるもあり。
木下候庭中江戸名所花暦彼岸桜南麻布5-8木下候とは木下肥後守の事。麻布広尾にあり。幹の太さふた抱え半、南北へ廿一間壱尺余、東西へ十九間余、たゝ小山に行きをおひたるかことし。花の頃は見物をゆるされしか、近頃止られたり。
慈眼山光林寺江戸名所花暦彼岸桜南麻布4-11麻布新堀はた。当時はもと市兵衛町の辺にありしとなり。此境内に大樹あり。したれたる枝は、地につきて滝の落つるかことし。此花の色、成子乗円寺の花によく似たり。この光林寺の前、新堀のむかふをすえて広尾の原と唱え、桜の咲いつる頃よりして、貴となく、おもひおもひのわりこ、酒肴をもたらし来り、毛氈、花むしろをしき、ここまとゐし、かしこにたむろして打興するありさま、天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり。
三縁山増上寺江戸名所花暦彼岸桜三縁山増上寺。(芝公園4-7)芝切通しより赤羽根への通ひ路、近きころ開けし道筋、左右に桜樹夥しく植えたり。(芝切通しとは今の正則学院と青竜寺の間の道。)
糸桜続江戸砂子増上寺(芝公園4-7)三縁山広度院増上寺。芝林壇、寺領一万五百四十石。廿四日御仏殿の前。(廿四日御仏殿は二代将軍火秀忠の霊廟。現芝ゴルフ敷地内)
拾ひ桜続江戸砂子南青山2-26長普山宝樹寺梅窓院、知恩院末、青山。第二世峰誉上人、門前にて苗木を拾ひ、てつから植えられしと也。今は大木となる。類ひなきしたれさくら也。
留主に居る人へひろはん花さくら(岸村涼宇)
泰山府君桜続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。八重桜の速き花也。桜町中納言成範卿、花のさかりの短きをなげき、桜のため泰山府君の祀りを行はれしより此名ありと也。
八入(やしおの)楓続江戸砂子三田2-15三田松平主殿頭殿御館にあり。前に云桜と此二樹、羅山子東明集に詳也。八入と云は、物を一度染るを一入(ひとしお)といふ。二たひ染るを二入と云り。紅楓の色、八度の染色に比す故八入と称す。
幸稲荷の辺江戸名所花暦不如帰芝公園3-5芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声もきこゆるといへり。
愛宕山愛宕神社江戸名所花暦芝愛宕町1-5芝にあり。この山上より雪中に見おろせは、各藩につもれるゆき、綿をもって家居をつくれるに似たり。遥に望は、安房、上総の山々、片々たるうちに見ゆ。本尊は行基の作にして、勝軍地蔵なり。毎月弐四日は四万六千日と号して、参詣殊に群集す。此日境内にて、青きほうずきを食む。小児に呑するときは、虫の病の根を切ると云ならはせり。
高輪江戸名所花暦高輪二丁目近辺この海岸の酒楼より海上を望む時は、雪の粉々たるありさま、他に比する処なし。
壱本松江戸鹿子元麻布1-3あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
一本松続江戸砂子元麻布1-3一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。
銭懸松続江戸砂子所不詳麻布にありと古書に見えたり。尋ぬるにしれす。所の人の云、天真寺に古木あり。それなるへしといふにより、寺に入て尋ぬるにしらすと云。当寺本堂の前に控なる大松の朽木の三抱もあらん、根より一丈はかりありて梢はなし。疑らしくは是ならんか。(天真寺は南麻布3-1)
円座松続江戸砂子増上寺(芝公園4-9)増上寺山下谷。山下谷とは今の芝公園4-9、10あたり一帯。松は現存せず。
朝日松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)田中山相福院西応寺、増上末、寺領十石、本芝。朝日の松、けさかけ松、火除の松、いつれも境内にあり。宝暦の末、当寺回禄にかゝりて此松も焼たりとそ。
袈裟懸松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
火除の松続江戸砂子芝西応寺(芝2-25)
綱駒繋松続江戸砂子イタリア大使館(三田2-4)綱が駒繋松、松平隠岐守殿中屋敷の内にありと云。
三鈷の松続江戸砂子高野山東京別院(高輪3-15)高野寺、正輪番、紀州高野山宿寺、二本榎。三鈷の松境内にあり。糸桜、大木の枝たれ也。現存せず。
鐘鋳の松続江戸砂子品川区北品川4-7品川御殿山。御殿山の北手にあり。増上寺の撞鐘を鋳たる所のしるしにうへたる松也。
二本榎江戸鹿子高輪1-27白銀原高野寺正覚院のかたわらに有。(正覚院の傍にあったとは、誤りという説もある)
印榎江戸鹿子赤坂1-11赤坂溜池の上に有。むかし此池の奉行人、此榎木をうへて、その時の委細を此木にしるすとかや。よって印の榎とよぶとかや。
印の榎続江戸砂子赤坂1-11溜池の堤にあり。むかし浅野幸長、欽名ありて、此所の水をつきとめたり。幸長の臣、矢島長雲奉行し、さまざまのおもんはかりを以、水をつきとめぬ。主人幸長の公用の印、又長雲か子孫まてのためとて、榎を多く植えたり。大かたは枯れて、今2、3株あり。
杖いてう江戸鹿子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。
杖銀杏続江戸砂子銀杏麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
楊枝杉江戸鹿子麻布山善福寺(元麻布1-6)これも親鸞上人のさし給ふのよし。山中に有て、岩の中より生したる木也。
楊枝杉続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
颯灑(うなり)柳続江戸砂子麻布山善福寺(元麻布1-6)麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。



 








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