2013年6月29日土曜日

調所 笑左衛門<三田>

薩摩藩三田藩邸
関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についた島津家は、戦が東軍(徳川方)の勝利に終わると、それまで九州各地に持っていた領土を77万石に削られます。そして徳川幕府が成立すると、江戸城修築、 などで莫大な経費を使わされ、さらに参勤交代の費用も九州から江戸までだと相当な物入りだったといわれ、裕福であった藩財政もひっ迫してしまいます。そして宝暦5年(1755年)に島津重豪が藩主の座に就くと、破天荒な経営を行ったため、とうとう「日本一の貧乏藩」といわれるまでになってしまったそうです。

重豪が時の権力者、老中筆頭の田沼意次の政策に賛同して藩校、医学館、天文学館など教育施設や町の活性化に莫大な資金を投入して鹿児島の近代化を進め、重豪が自らも豪奢な生活を好んだために、その結果借金が500万両に達し、利息だけで年間60万両に及んだとされています。当時、藩の収入は12~18万両とされていますので利息の返済すら出来ない状態に追い込まれてしまいました。さすがの重豪も窮してしまい、財政再建を任せられる家来を模索したそうです。そして白羽の矢がたったのが、調所 笑左衛門 広郷でした。

笑左衛門は安永5年(1776年)御小姓組 川崎家に生まれ天明8年(1788年)、13歳で調所清悦の養子となる。御小姓組は士分の末位の家格であるためやがて、茶坊主となり”笑悦”と称した。藩では簿給藩士の家計を援助するために、藩士の子弟を書役や藩校の助教授に任用する制度をとっており、茶道方もその中の一つに含まれていました。笑悦もたまたま茶道方になっただけで、養家が茶道方だった為ではないといわれています。ちなみに西郷隆盛の弟、従道や有村俊斎、大山綱良も一時、茶道方を勤めており、これは藩で正式なポストに就くための臨時的なものであったと思われます。(つまり茶道方とは藩のエリ-トコ-スであったようです。)

笑悦はしだいに茶道への造詣を深め、23歳で重豪専属の茶道方となり、やがて茶道頭に昇進します。文化10年(1813年)に重豪は、笑悦に茶坊主をやめて武士に戻る事を命じ、名を「調所 笑左衛門 広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)」と改名させ、お小納戸役として自分の身辺の世話をさせました。文化12年(1815年)にはお小納戸役と御用取り次ぎ見習いの兼務を命ぜられた。お小納戸役は御側役の下役ですが、時には隠居した重豪の意を孫の藩主斉興に伝える役目もあり、重豪の笑左衛門 に対する信頼の度がうかがえます。

続いて笑左衛門は47歳で町奉行に抜擢され、異例のスピ-ドで昇進を重ねます。文政7年(1824年)笑左衛門が49歳のとき、側用人兼隠居の続料掛を命ぜられました。隠居の続料掛とは2人の隠居(重豪と子の 斉宣)の諸費用を預かる役目で、その財源は琉球、中国との貿易に頼っていたそうです。しかし今までの、幕府の制限どうりに行われていた貿易では隠居料を賄う事が出来ず、笑左衛門は巧みな密貿易を始めて、大きな収益を上げることとなります。

この成功を重豪は見逃さず、笑左衛門の経理能力を高く評価して藩政改革の責任者として勝手方重役に昇進させ、藩全体の財政再建を命じます。 しかし笑左衛門は仰天の上、固辞し続けたそうです。これは今まで財政再建を完遂した家老は一人もおらず、その方面で素人の自分が出来るはずがないと思った為でしたが、重豪の矢のような催促からついに屈し、承諾します。

ここまで藩の財政が悪くなる過程で薩摩藩は、何度か藩政の改革を試みましたが、実効を上げたものはほとんどありませんでした。その要因の一つとなったと思われる事件が「秩父くずれ」と呼ばれている事件でした。
天明7年(1787年)島津重豪は家督を息子の斉宣に譲り隠退しますが、まだ血気盛んな重豪は藩政への介入を宣言して、事実上の権力者であり続けました。この年、京都で大火があり幕府は薩摩藩に20万両の献金を命じ、これが財政をいっそうひっ迫させました。新藩主になった斉宣は 父重豪と違い、緊縮財政をひき、誠実な人柄で学究肌であったため、質実剛健の気風を好んだそうです。彼は、研究者タイプのブレインを多く登用し、その中の中心的な人物が秩父太郎でした。斉宣は秩父太郎らに抜本的な藩政改革を命じます。秩父太郎は樺山主税と手を組み質素倹約、質実剛健の手引書とも言える「亀鶴問答」という書を著し、藩士たちに配りました。そして藩を上げての倹約方針も、遂に重豪に及び重豪に対して豪奢な生活を捨て質素に倹約するよう諫言します。

しかしこれに激怒した重豪により秩父太郎、樺山主税には切腹を、斉宣には隠居 を命じ、藩主には孫の斉興を据えて自らが後見しました。これ以降質素倹約を唱えるものがいなくなり、重豪の豪奢三昧な生活を改めさせる手段も無くなってしまいました。

「秩父くずれ」の事を知っていた笑左衛門に、重豪への倹約を求める事は出来ず、他の方法を模索するしかありませんでした。そして、思い悩んだ末にまず資金の借入れ先を探します。しかし、藩内の商人は相手にしてくれず、藩と取り引きがあった上方商人にもけんもほろろに扱われてしまいました。思いつめた笑左衛門は何度も自害を思ったが、そんな様子に動かされた上方商人の浜村屋孫兵衛が、他4名の商人を説得して「新藩債」を引き受ける事になり、借入れの件は何とかめどが付いた。(浜村屋孫兵衛には後に、恩賞として黒糖貿易の利権を一部与えています。)
次に藩の財政を再建するために、当時有名な経済学者であった佐藤信淵を顧問に招き、改革案を作らせました。その内容は、

<支出>

1.500万両の借金は、貸し手を説得の上、元金だけを年2万両づつ250年賦で返し利子は一切切り捨てる。

2.藩内の諸費用を予算制度を導入して収支を厳格にする。


<収入>

1.特産品の包装、梱包に問題があり他国へ輸出のさい傷や無駄が多いので直ちに改める。

2.特産品を品質改良し、すべてを藩の専売とする。

3.隠居(重豪)のこずかいを捻出すると言う名目で琉球、中国との貿易の許可を幕府から得る。そして許可が下りたら、決められた制限量を無視し密貿易を行い、それを円滑に行うため幕府の要人に賄賂を贈る。


これらの案を重豪、斉興に披露して了解を得ます。そして今までは酒好きで宴会も頻繁に行い任侠に富み、いかにも薩摩隼人らしかった笑左衛門も質素な生活にあらため、自ら範を示しました。
改革案に重豪、斉興からの許可がおりた笑左衛門は次々と改革を進めていきます。

まず米、その他の特産品の包装を厳重にし、品種の改良と量産の奨励を行い、幕府の許可を得、琉球を通じて中国貿易を始めました。ここで笑左衛門は家老に列せられますが、彼を見出した隠居の重豪が天保4年(1833年)に死去します。重豪の死後も笑左衛門は斉興のもとで家老として引き続き財政再建にあたり、斉興も笑左衛門には全幅の信頼を寄せます。そして斉興と共謀の上、贋金(にせがね)造りもはじめました。そして借金の500万両を事実上踏み倒す事にしました。

藩内の商人には金高に応じて武士の身分を与え、江戸、上方の商人には、借金の証文を騙し取って焼き捨ててしまいます。これにより商人達が騒ぎ始め 、共謀した浜村屋孫兵衛が大阪東町奉行所から詮議をうけましたが、微罪で赦され笑左衛門への嫌疑には及びませんでした。これは、幕閣への賄賂が十分に効いていたためであったといわれています。その後も奄美諸島の特産品「黒糖」を専売にし、現金売買を一切禁止して島での黒糖と他の日用品との交換比率を改悪しました。

そして黒糖その物の品質も改良して、売り上げも1.5倍に伸ばします。これらの改革により500万両の借金があった薩摩藩も改革10年目にして250万両の蓄えを持つまでになったそうです。その資金を活用して笑左衛門は藩内の新田開発や治水工事等、環境開発にも着手して一層の増収を得る事が出来ました。が士族たちも改革の矛先が自分達の方に向かい始めると、反感を募らせる者達が出てきて、笑左衛門の改革にも暗雲が立ち始めます。

丁度そのころ斉興の跡目をめぐって本妻の子、斉彬を支持する勢力と斉興の側室お由良(おゆら)を中心に久光を擁立する勢力が対立していました。このお由良は、江戸三田の町人の娘といわれています。

笑左衛門は曾祖父、重豪の影響を強く受けた斉彬を危惧して、久光の擁立を支持するようになります。跡目相続の抗争が長期化するとやがて斉彬は笑左衛門を憎み、失脚のため身辺を探らせるようになりました。そして笑左衛門が中国との密貿易の指示を出していた事実をつきとめ、幕府の老中筆頭 阿部正弘に密告します。賄賂のためか元々斉彬の支持派であった阿部正弘は久光の失脚につながる笑左衛門への疑惑の追求に喜んで荷担したそうです。

嘉永元年(1848年)の秋、江戸の到着した笑左衛門は直ちに幕府より召喚され、密貿易について厳しい尋問を受けました。笑左衛門は嫌疑が藩主斉興に及ぶ事を恐れ、一切の責任を負って三田にある藩邸内の長屋で毒を仰いで死んでしまいます。
笑左衛門の死は秘密にされ、嫡子の左門は「稲留」と姓を変え、名を数馬と変えて小納戸役を解任されます。さらに屋敷も取り上げられて国許に帰らされるが、これは斉興が幕府の手前を取り繕うためで、まもなく稲留数馬は斉興に番頭に取りたてられ屋敷の買い上げ金600両を下賜されています。しかし、その斉興もお由良騒動から斉彬擁立派を一掃したが、幕府の圧力で隠居せざるを得なくなってしまいます。それは、笑左衛門の死後2年後のことでした。

斉彬が藩主となると薩摩藩は非凡な才能の持ち主の下級家臣である西郷隆盛などを登用して、洋式工業を興し、兵器や軍艦を大量に作り藩を近代化して 討幕へと向かって行きます。そして幕末期には最強の軍隊と呼ばれた「薩摩藩軍」も含めてその基礎となる資金には笑左衛門が藩政改革で備蓄したものが使用されました。おそらく笑左衛門がいなければ、近代工業も、最強の軍隊も薩摩藩は持つ事が出来ず、極論すれば明治維新そのものが、怪しくなっていたと思われ、その偉業は後の日本にとって忘れられない物となっていると思われています。

私の知人、調所(ちょうしょ) 正俊氏は、調所 笑左衛門の子孫であり、氏の許しを得てご先祖の話を掲載させていただきました。調書氏は現在も本家を「ずしょ」、 支流を「ちょうしょ」と呼んでいるとのこと。ちなみに明治初期、一の橋の対岸三田小山町に住んでいた調所笑左衛門の三男で男爵の調所広丈には面白い逸話が残されています。

明治初期、一の橋わきで後に小山橋がかけられる付近には三基のかなり大規模な水車小屋がありました。明治20(1887)年このうちの一基の水車がそれまでの 製紙機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が所有者の松本亥平により東京市に提出されます。 これに対して対岸の三田小山町に住む調所広丈男爵より転業を認めないでほしいという嘆願書が東京市に提出されています。 これによると、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で付近の住民は安眠できないと思われるので許可 しないように。というものであったそうです。これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが 起こりえるものかを質問されています。そしてその結果、米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定します。この様子は東京府から 警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告しています。














2013年6月26日水曜日

麻布の私塾、寺子屋、小学校、代用小学校

明治8年6月市兵衛町に設立された第二中学区第一五番小学麻布学校は麻布区で最古の公立小学校ですが、それ以前の教育は、私立の寺子屋・私塾などに依存していました。以下に、麻布辺の私塾、寺子屋、代用小学校、小学校などをご紹介します。


◆私塾、寺子屋

名 称学科所在地開業廃業教員生徒隆盛期、備考調査年代身分校主、塾主
私塾端 塾漢学谷町嘉永5年明治11年男6名男300名安政明治4年武士林 鶴梁
明霞書院漢学材木町天保4年明治10年男1名男32名慶応明治4年武士宮崎 誠
乾々塾漢学飯倉片町嘉永3年継続男1名男60名、女4名元治明治4年武士岡 壽考
時中堂漢筆本村町明治4年継続男1名男5名、女10名明治4年明治4年平民稲村虎三郎
芙藻館漢学芝森元町明治初年男1名男35名、女7名天保13年明治元年武士服部 元彰
繕生塾西洋医学芝森元町2丁目嘉永5年明治5年男1名男70名明治4年明治5年武士山元 照明
雪丘樓漢学永坂町安政4年慶応3年男1名男20名文久元年慶応3年平民菊地誠一郎
尚白舎漢学永坂町明治3年継続男1名男20名明治4年平民菊地貴一郎
漢学青山裏百人町弘化3年文久2年男1名男20名文久2年武士山井璞輔
六本木男1名男30名、女5名慶応元年武士山村 葆
寺子屋三峡堂読算永坂町弘化三年継続男1名男150名、女135名明治4年平民百瀬為芳
龍昇堂読算芝森元町文化8年継続男?名、女1名男19名、女22名明治4年平民寺田コト
龍嘯堂読算新網町二丁目弘化元年継続男1名、女1名男20名、女25名明治4年平民辻 兵作
三栄堂読算飯倉六丁目文政12年継続男1名、女1名男32名、女20名明治4年平民小暮寅三郎
望雪洞桜田町明治4年明治10年男1名、女1名男75名、女25名明治4年神官佐々木義隆
柳花深慮今井町明治4年明治七年男1名男35名、女15名明治4年早川義道
読算材木町天保3年継続男1名、女1名男38名、女25名明治4年平民早川信成
龍松堂読書新龍土町慶応元年明治7年男1名男30名、女25名明治4年平民小菅重次郎
幼童学所読算飯倉三丁目明治3年明治16年男4名、女3名男127名、女152名明治4年平民吉田東功
三光堂算術網代町明治2年明治6年男1名男31名、女20名明治4年武士神田鐘太郎
読算宮下町弘化2年継続男?名、女1名男80名、女120名慶応3年武士磯 セイ
龍暁堂算術本村町慶応2年明治13年男1名男30名、女23名明治4年中川頂玄
大隈堂宮村町文久2年継続男1名男5名、女5名明治4年武士山本西淳


明治8年6月には、麻布区で最初の小学校である第二中学区第一五番小学麻布学校が麻布市兵衛町に創立されます。続いて明治9年12月には 麻布宮村町に第二中学区第27番南山学校が、明治11年10月には芝森元町に第二中学区第**番飯倉学校が設立されました。またその他、学校の統廃合も行われました。明治13年12月にそれまでは、学校の維持、資金調達を各校が独自で行っていたものを麻布区議会が号外議案として麻布区公立学校維持仮条例を議決し、以降各小学校は区の管轄、所有になりました。以下は当時の小学校。



◆小学校
名 称所在地創 立備 考
麻布小学校麻布市兵衛町明治8年6月1日麻布区初の小学校。昭和8年11月麻中小学校と合併し飯倉町に移転。
南山小学校麻布宮村町明治9年12月17日暗闇坂東側で創立して、現在の六本木高校敷地に移転、さらに現在地に移転する。それぞれの校舎は暗闇坂校舎、藤棚校舎(校庭に藤棚があったため)と呼ばれた。
飯倉小学校麻布飯倉町明治11年12月28日飯倉小学校廃校-2004(平成16)年
三河台小学校麻布三河台町明治35年4月1日大正5年に生徒数が激増し1、2年は2部授業に。昭和10年新校舎に移転。
本村小学校麻布本村町明治35年4月15日創立当時は民家もまばらで児童数も128名であったが、明治38年には600名あまりに達した。このため同年3月に校舎を増築し、翌年高等小学校も併設。大正14年に補助学級、昭和5年に養護学級を設置。
笄小学校麻布笄町明治40年1月12日創立当時、周りは田んぼであったと言われる。大正2年より2年生が2部授業に。さらに大正5年には1、2、3学年が2部授業に。大正11年10月に特別児童促進学級(のち補助学級)を設置。
東町小学校麻布東町大正2年11月14日設立当時の児童数は607名、学級数11。大正12年9月の関東大震災で被害を受け、10月9日まで休校。
麻布高等小学校麻布宮村町明治41年4月1日明治40年の小学校令により新設された。設立当時校舎は無く、三河台小学校に間借りし、明治42年麻中小学校の一部を借りた。その後三河台小学校跡地をへて南山小学校跡に移転。昭和6年に鉄筋コンクリ-ト3階建て新校舎が完成し各小学校に分散していた児童を収容。
麻布新堀小学校麻布本村町明治42年6月21日東京市が細民子弟教育のため市立として創立した小学校。当初、台南小学校と称したが後に絶江小学校と改めた。これは、代用小学校の慈育小学校幹事の絶江宗育氏から起こした名と思われ、この代用小学校の事業を継承したことが伺える。大正15年東京市から麻布区に移管され一般小学校となり麻布新堀尋常小学校と改称した。しかし 本村、東町小学校と接近していたため児童数が減少し昭和7年3月31日に廃校となった。私見ではあるが、元細民子弟の学校であったので、親もあまりこの学校に通わせたがらなかったと思われ、それも廃校になる要因の一つであったと思われる。

明治14年6月文部省は従来の「学区」を廃し、あらたに郡区による学区と改めたので麻布区は1学区となります。明治15年文部省は小学校教則綱領を定め、小学校を初等(3年)、中等(3年)、高等(2年)としました。これを受けて麻布区は臨時区議会で麻布小学校を高等小学校として区内共通とし、併せて初等学科を置きました。中等は、南山と飯倉小学校として、やはり初等学科を付属しました。しかしこれにより初等から高等までの間、最低2校、多い児童は3校に通学せねばならなくなり、煩雑さから不就学児童を生み出す要因ともなったようです。

明治19年4月に小学校令が発布され、中等が廃止されて尋常、高等の2科になりました。そしてこの法令により、区町村はすべての学齢児童を 就学させるに足りる尋常小学校の設置を義務づけられたのですが、麻布区においても尋常小学校の数が絶対的に不足していたので、条例で許された私立の小学校を代用することに決定します。以下はその代用私立小学校(明治27年調査)。




◆代用私立小学校
名 称所在地教室坪数校庭坪数学科、学級数児童定員(現児童数)教員創立設立者寺子屋当時の名称
宮下小学校麻布宮下町5050尋常(3)、高等(1)198(191)、44(34)3明治7年4月飯塚 せい
小暮小学校麻布飯倉町46.563尋常(2)、高等(1)168(110)、32(30)3明治6年1月小暮寅三郎三栄堂
庭訓小学校芝森元町229尋常(1)110(411明治6年3月寺田 琴龍昇堂
辻 小学校芝北新門前町28.215尋常(1)123(44)1明治6年1月辻 兵作龍嘯堂
山本小学校麻布宮村町2450尋常(2)102(88)2明治6年4月山本西淳大隈堂
三台小学校麻布三河台町2329尋常(1)115(87)2明治10年11月内山真心
谷 小学校麻布箪笥町39.5尋常(2)112(84)2明治18年9月黒崎 信
培根小学校麻布飯倉町4117.1尋常(1)192(74)1明治18年12月吉田東功幼童学所
慈育小学校麻布本村町5412尋常(4)273(273)4明治20年9月絶江宗育(幹事)

















2013年6月24日月曜日

港むかしむかし

(以下の文章は2000年頃書いたものです。)

港区の図書館が、遅まきながらインターネット蔵書検索に対応したようなので、早速「麻布」で検索をかけてみました。すると83件がヒットしそして麻布(あさぬの)などの無関係な項目を除いた結果、興味のある本がいくつか浮かび上がってきました。そのひとつは「港むかしむかし」というタイトルで本項のタイトル「むかし、むかし」とよく似ており、早速高輪図書館に閲覧に行ってみました。

カウンターで書名を言って教えられた場所を探したが見つからず、係りの方に探してもらうと別の棚から本というよりは小冊子のような手作り風の冊子が見つかりました。表紙は手書きで本文は印刷ですがルビが手書きで振られており、寄贈の印が押されています。発行年は明記されていないのです、がかなり古いもので、おそらくはどこかの小学校で先生が個人的の作成されたものと思われました。内容は麻布七不思議をはじめとして港区内の不思議話・昔話が数多く掲載されており、パソコンのない時代手作りでこの小冊子を作成した作者の苦労がしのばれる逸品です。内容のタイトルは以下。






・麻布七不思議


①善福寺の逆さ銀杏 ②六本木 ③かなめ石 ④釜なし横丁 ⑤狸穴の古洞 ⑥羽衣松 ⑦広尾ヶ原の送り囃子


・狸坂の狸


・狐坂の狐


・がま池


・こうのとりがつたえた霊薬


・火消し地蔵


・お珊(さん)地蔵


・奴地蔵


・麻布名物


①狸そば ②狐しるこ ③お亀団子


・綱産湯の井戸


・親鸞のおきみやげ-善福寺の「逆さ銀杏」


・浅岡飯たきの井戸


・間垣平九郎は実在の人物か


・紅毛久助(あかげきゅうすけ)の墓


・むかっ腹をたてた「め組」の半鐘


・これは意外!-村上喜剣と寺坂吉衛門


・内匠頭の亡霊魚屋にたたる


・首洗い井戸


・我善坊の猫又(ばけねこ)


・小判をのんで死んだ話


・死んだ人の肉を食べたお坊さんの話


・陸蒸気をまねしたたぬき


・竹芝の長者




2013年6月21日金曜日

桜田町に過ぎたるもの(その-2)

前回に引き続き「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」の後半、「箕輪の重兵衛」とはどのような方だったのかを調べてみました。

櫻田神社

そもそも桜田町は麻布区史、文政町方書上などによると源頼朝が奥州征伐に向かう折に霞山稲荷(現櫻田神社の別称で、元は霞ヶ関あたり)に立ち寄り、植えた桜の木があったあたりを「神領」として寄進ことから起こった名といわれています。しかしその後の江戸の拡張整備に伴い大名屋敷(上杉家上屋敷)を建設することとなり百姓衆は霞ヶ関近辺から、

◆慶長七(1602)年
元地桜田郷から溜池坂上に移動、その直後再び溜池坂下に移動。しかしすぐに御用地となり屋敷と共存する。
◆元和元(1615)年
再び溜池坂上に移動。しかしそこも御用地となる。
◆寛永元(1624)年
麻布の原の4丁2反7畝4歩に替地として居住を許され「麻布新宿」と唱える。
と移転し、膨張により田畑から大名屋敷に変遷しゆく江戸市街化計画の生き証人とも言える移動を余儀なくされました。特に元和元年には度重なる替地に業を煮やした百姓衆が土井大炊頭・長井信濃頭・井上主計正など幕府要人に駕籠訴を行い、その結果として寛永元年に願いが聞き届けられたといわれています。
現在の麻布桜田町(麻布税務署前)
  
この桜田町は、寛永元(1624)年の麻布移転時には「麻布新宿」と呼ばれ、市街を遠く離れた小さな宿場町というような位置づけでした。しかし代官木部藤左衛門が「桜田町」と唱え、それ以降「麻布桜田町」と称するようになりました。この麻布桜田町は移転時から「町」であり、麻布の他の地域は正徳年間(1704~1715年)まで「村」であったのに対して麻布の中でも早くから「町」を名乗る地域でした。しかし、その実態は移住者のほとんどが百姓衆であるために別称では「麻布百姓町」と呼ばれるほど江戸市街の辺境で、管轄も町奉行ではなく代官支配であったようで、実質的には麻布の他の地域と同じ「村」であったようです。
さて本題の箕輪重兵衛ですが、麻布区史、文政町方書上などによると、代々重兵衛を名乗る桜田町の名主であり 、その先祖は甲州浪人で 主家武田家の滅亡後に櫻田郷(霞ヶ関)で帰農したものと思われています。その箕輪家の中興といわれる箕輪豊前はやはり櫻田郷の名主を務めましたが天正年間に病死し、 惣領の箕輪伊予が家を継いで名主となりました。しかし伊予も30歳の若さで病死してしまい子供も無かったので、それまで蒲生中務に仕えていた次男の七兵衛が蒲生家を 辞して帰農し、箕輪の家督を継ぎました。
 

元地桜田久保町(西新橋)氏子
から奉納された櫻田神社狛犬
そして、この七兵衛は兄と同名の「伊予」と名を改め、奥州の陣(関が原の戦い)、大阪夏の陣などに人馬を差し出し徳川家に貢献しました。 特に大阪の陣では七兵衛自身も百姓新左衛門と共に人夫として参戦し、新左衛門を戦で失いつつも首級を3つ上げたそうです。

この功により「七兵衛」に取った首数の三を足して 「十兵衛」という名を褒美として賜り、代々箕輪家の当主は十兵衛を名乗る事となったそうです。これが後に「櫻田に過ぎたるもの~」と唄われる事になる箕輪重兵衛の由来です。 ちなみに麻布区史「第二節明治初年の区制(452ページ)」には明治2年(1869年)麻布櫻田町の中年寄として箕輪重兵衛の名が掲載されており、大阪夏の陣のあった 慶長二十年(1615)以来250年あまり、その名が受け継がれていた事がわかります。 そして、櫻田神社が溜池にあった江戸初期には箕輪重兵衛の住居が櫻田社の付近にあり、その住居に 榎木を植えたのが移転後も残り「箕輪榎」と呼ばれ 現在アメリカ大使館前の「榎坂」の語源となったとの説もあります。
余談となりますが、この箕輪重兵衛の他にも櫻田町の旧家として、
樋田長右衛門
同じく元甲州浪人で櫻田郷からの名主の家。麻布に替地後は櫻屋という紺屋(染物屋)を営み、正保年間(1640年代)将軍家光が笄橋で鷹狩をした際に白雁を捕獲して将軍手づから巾着より褒美を頂き代々名主を勤めたと言う。(一説にはその褒美は銭3文とあり、家光はケチであったのかもしれない。)



七蔵
先祖は櫻田郷以来の灌左衛門という酒屋を営む代々年寄を勤めた名家。
などがありもしかしたら各家共に、今も大切にその由緒が受け継がれているのかもしれません......。



 






より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示














2013年6月20日木曜日

桜田町に過ぎたるもの(その-1)

麻布区史桜田町の項に、
明治初期の一本松と火の見半鐘(参考画像)

櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

とあります。これは昔から良くあるの言い廻しの一つで、分不相応な持ち物を揶揄して
いった言葉、またはそれを羨んでいった言葉ですが、一つ目の「火ノ見半鐘」とは、「火の見やぐら」最上部にかかっていて火事を知らせるために打ち鳴らす半鐘のことです。

文政のまちのようす・江戸町方書上(三)麻布編」麻布桜田町の項(401p)には、
自身番屋前に梯子火の見建て置き、半鐘の儀は宝永二年(1705年)二世案楽のためと彫り付け有り、右梯子火の見建て始め、願い済み年代相知れ申さず候


とあり、麻布桜田町の火の見やぐら創建の詳細は江戸町方書上が書かれた文政年間(1818~1829年)の当時から不明となっていたようです。
しかし、「過ぎたるもの」とまでうたわれたのは、町域のほとんどが高台の尾根づたいであった桜田町にある「火の見やぐら」は、他の谷底の町々に比べてはるかに見通しが良く、その火の見やぐらに設置された半鐘は遠くまで響きひときわ目だった音で、人々から羨望されたためだと思われます。

麻布桜田町(材木町交差点付近)の標高は31.09mで、六本木交差点・旧防衛庁前(30.00m)、本村町(28.00m)、一本松(23.78m)、北条坂上(28.27m)、鳥居坂上(26.00m)など比較的海抜の高い他の地域に比べても最標高です。ちなみに低地だと中の橋商店街入り口付近(4.87m)、十番通り付近(6~7m)、二の橋付近(5~6m)と桜田町とは20メートル以上の標高差があり、高台の桜田町のさらに高い火の見やぐらの上から打ち鳴らす半鐘が遠くまで鳴り響き、有名になったのもうなずける話です。以前、三田にある久留米藩有馬家上屋敷の火の見やぐらは、
田台地に高さ三丈(9.09m)の火の見櫓を組んだ。
他家のものは二丈五尺(7.5m)以内であったため日本一と称され、
「湯も水も火の見も有馬名が高し」
「火の見より今は名高き尼御前」などと詠まれた。
明治初期解体中の有馬家火の見櫓
とお伝えしました。しかし、この有馬家の火の見やぐら自身の高さは日本一かもしれませんが、藩邸内最標高(15~20mくらい)に建っていて、やぐらが9mあったとしても標高29mで、桜田町のやぐらは標高31m+やぐらが5m(と仮定しても)=標高36mとなり、標高も加味すると文句なしに麻布桜田町に設置された火の見やぐらのほうが高かったことになります。

ちなみに現在の「港区最高地」は、赤坂台地の北青山3丁目3番で標高34m、最低地はJR浜松町駅前付近で標高0.08mとのことで、桜田町は残念ながら僅差で「旧麻布区」としての最高地となります。

最後に「~に過ぎたるものが」という言い回しの中で比較的良く耳にするものを下記にご紹介します。


「永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦」

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵

「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」

「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」

「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」



現在の麻布桜田町(麻布税務署前)

★麻布桜田町とは

桜田の地名は、もとは霞ヶ関のうちにあり、慶長七(1602)年頃に上地となり、溜池移転の後、寛永元(1624)年、にさらに麻布への替地が与えられた。その頃、このあたりは阿佐布新宿と呼ばれ、宿場町的な集落を形成していたが、替地に伴い麻布桜田町の名が定着した。治承年間(1177~1180)年源頼朝が奥州征伐の際、鎮守の霞山稲荷に神領を寄進し、神領の印に田の畝に桜を植えたのが地名の由来といわれている。霞山稲荷は現在の櫻田神社のことで霞ヶ関から町と共に現在の場所に移転してきた。町内は北から「上町」「中町」「下町」の俗称で呼ばれた。 
明治2(1869)年、麻布妙祝寺門前、麻布妙善寺門前、麻布正光院門前、麻布観明院門前を合併し、同5年には付近の武家地と寺社地を合併した。麻布の冠称は1911(明治44)年までだが港区成立時の1947(昭和22)年、旧区名の冠称により再び麻布桜田町と改称。1966(昭和41)年、東南部が新住居表示により元麻布三丁目となり翌42年東北部が六本木六丁目、西部が西麻布三丁目のそれぞれ一部となる。


★櫻田神社とは

櫻田神社
桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。 治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。 重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、
田に印の桜を植えたので「桜田」と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を 別名百姓町とも言った。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれたが現在は「テレビ朝日通り」と言うらしい。

江戸期には太田道灌の甲冑が寄進され御神宝とされていたが 弘化二(1845)年1月24日におこった青山火事により惜しいことに焼失した。 幕末には沖田総司、乃木希典将軍の参詣し、乃木将軍の着用した産着は櫻田社に寄進された。(現在は乃木神社に譲渡され社宝となっているという)、また 硫黄島で玉砕したロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一陸軍中佐も櫻田神社の氏子であった。そして、 遷座前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が櫻田神社の氏子となっており、日本中央競馬会正門にも神社の由緒書が掲示されている。 桜田町そして明治期からは霞町の町名は櫻田神社の別称:霞山稲荷を由緒としている。

JRAビルに展示される櫻田神社神輿

○JRAビル展示神輿に添えられた由緒書
桜田神社 縁起より

古えは、この付近一帯を桜田郷と呼ばれ、桜木八千余本を数えたという。治承五年「一,一八一年」渋谷庄司重国が、 霞山「現在の霞ヶ関」に霞山稲荷「桜田神社」を建立、後に太田道灌が、文明年間「一,四七〇年頃」これを新しく造営した。
江戸時代にい至り、幕府は霞山稲荷を慶長七年「一,六〇二年」赤坂溜池に移し、更に寛永元年「一,六二四年」麻布桜田町「現在の西麻布」 に移された。このような歴史背景から、江戸時代には、桜田八ヶ町としてこの一帯の町名に、芝桜田備前町、芝桜田太左エ門町、芝桜田久保町 などと桜田を冠せられた。当町会の前身であった芝新桜田町の昭和三二年まで残った。

日本中央競馬会本部の前の通りは、江戸城の濠端で、柳の並木を配し、河岸通りと呼ばれ、当時日本橋にあった魚河岸への道として往還の賑わい をみせたという。明治になり文明開化が進むにつれ、お濠が埋められ河岸通りの面影も消えて、次第に芝桜田の界隈は、東京の中心地と変化していった。
戦前の新桜田町は、三二〇世帯、人口約二,〇〇〇人であった。
町名が、昭和三二年に田村町一丁目、昭和四〇年に西新橋一丁目と改められても、桜田郷の鎮守である桜田神社を氏神様として、崇めている所以である。
競馬会玄関前の広場は、戦前戦後とも町の中心で、色々と町会行事が行われたものである。
秋祭りには御神酒所を設け、麻布のお宮からの神輿巡行は、千貫を超す大神輿を牛車によって行う一大イベントであったという。今日では当時の面影はないが、 芝桜田の地に往年の想いをはせ、史実としてこれを後世に伝えることは意義深いものであり、戦後再建された神輿や太鼓を飾ることができたことは、 日本中央競馬会のご尽力によるものと深く謝意を表す次第である。

平成六年九月吉日

西新橋一丁目第一町会

町会長 森野平太郎

氏子総代 本田健次

(JRAビル 港区西新橋1-1-19 )地図








次回は二つめの「箕輪の重兵衛」をお伝えします.......。














より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示
















2013年6月18日火曜日

麻布の祐天上人


増上寺三十六世法主であった祐天上人は江戸期最大の呪術師ともいわれています。
曲亭馬琴の新累解脱物語、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などに語り継がれている怨霊「累」を成仏させた祐天上人の呪術は密教僧ではないにもかかわらず江戸期最強といわれています。

明顕山 祐天寺
この祐天上人が飯沼弘経寺住職、小石川伝通院住職を経て将軍家宣の台命により増上寺三十六世法主に栄進、即席大僧正に任ぜらるのは正徳元(1711)年十二月のことでした。
しかし増上寺住職を拝命したとき祐天はすでに七十五才となっており、その就任は名誉職的な要素が強かったものと思われます。
そして、増上寺法主を二年間つとめた正徳三(1713)年十二月、祐天上人は将軍家継に隠居を願い出ますが却下されてしまいます。しかし翌正徳四(1714)年六月、やっと将軍から隠居が認められました。しかし、隠居所である麻布一本松の増上寺隠居所が改修工事中であったため祐天上人は、やむなく増上寺塔頭真常院に仮移転し仮の隠居所としました。

そして正徳四(1714)年八月二九日、祐天上人は改修工事が終った一本松増上寺隠居所に移り隠棲することとなります。ここを隠棲の地と決め静かに余生を過ごしていた祐天上人ですが、一本松隠棲から三年後の享保二(1717)年二月十二日、祐天上人の次の第三十七代法主となった詮察上人が病気により引退し、一本松隠居所で隠棲することとなりました。これに遠慮した祐天上人は、同二月十四日、自分の弟子であった寂天が住職を務める芝西応寺に移転します。
祐天寺解説板
そして同年六月十八日、新たに隠棲の地を求め麻布龍土町に禅室をつくり弟子と共に移ります。この禅室は土地千二百五十四坪、建坪二百六十坪という大きな物であったそうです。

この禅室で平穏に暮らした祐天上人も移転の翌年、享保三(1718)年六月に病を発し寝込むことが多くなりました。そして同享保三(1718)年七月十五日、弟子に看取られながら臨終を迎えます。
そして翌享保四(1718)年二月二十七日、弟子の祐海が師の祐天上人の意に沿って建立した善久院(後の祐天寺)に埋葬するための葬列が龍土町禅室を出発し、竜土町から四の橋をへて目黒の善久院へと向かいます。
この葬列について「祐天寺の開創(一)祐天上人真像晋山」には、

早朝五時(八時)、龍土町を発った行列百余名は、御薬園橋より白金台町行人坂へ出て、さらに目黒の紅葉の茶屋を経て大島明神の前通り、ここからさらに下村正覚寺にかかり、やがて善久院へ着到、表門より行列は境内に入った。
道中、行列は祐海を初めとする僧衆が、おごそかに衣に身をつつみ、ゆるやかに行道した。先乗りは、宝松院、その左右に足軽が二人、次に提香炉を持つ弁瑞と雄弁、あとにそれぞれ所化五人、次に右に檀的、利億、官隆、祐意、南嶺、観冏、祐億、左に随音、天歴、祐吟、林碩、秀音、在胤、春貞、中央に、祐天上人の真像、舎利、舌根、すぐうしろに、香誉祐海、その左右に、伴僧おのおの二人、次に祐益、祐達、侍四人と小者一人、左右に足軽がそれぞれ一人、次に、増上寺役者円龍和尚、同じく安養院、学頭の利天和尚、了槃和尚、春林寺、新光明寺、大信寺、正源寺、本願寺、清巖寺、法音寺、さらにあとに、寺社方大八木玄隆、手嶋真西、桜井金右衛門、川井七兵ヱ、加藤善次郎、大仏師竹崎石見、世話人永井三右衛門、次に、押馬上に小笠原喜之丞、しんがりは、胴勢、若党、挟箱、小者、合羽箱、堤灯待ちとつづいた。
祐天寺境内の累塚
この他には、浄土宗の僧ばかりか、他宗の僧そして江戸市中の人人までも、その行列につき従い、供のものその数おびただしく、あまつさえ、道に出て行列を拝む老若男女が限りないほどである。
途次、その慶固には、高松中将より小笠原喜之丞同組の足軽二十余人の供養があり、また、芝西応寺、月界院、大奥との連絡係りおか祢姥は先に善久院にて行列を待ち、昼九時、百余人の行列は当山に入った。


としています。
この葬列の道中についてあくまでも私の想像ですが、龍土町禅室から四の橋を経て目黒までの道中、龍土町禅室から四の橋に至る行程では暗闇坂を上り、一本松増上寺隠居所前を通過または一端停止の上隠居所僧たちの読経を受けたのではと考えています。またこの道は古奥州道ともいわれ古来よりの往還でもあり、また龍土町から四の橋までの最短距離はこの道であるとのことからも、一本松隠居所前の葬列通過は考えられ得る行程かと思われます。そして享保八(1723)年1月13日、祐天上人が埋葬された善久院は晴れて祐天寺の寺号が正式に許可されます。


累塚
またこの祐天上人も短期間隠棲した一本松増上寺隠居所ですが、 そもそもこの場所は麻布氷川神社の社地でした。しかし萬治二(1659)年幕命により増上寺隠居所となり麻布氷川神社は現在の社地に移転を余儀なくされます。この増上寺隠居所設置の直接的な原因は明暦の大火による江戸再配置ということになるのでしょうが、実はこのあたりと増上寺には因縁があります。慶長五(1600)年に行われた関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めの際に落とされた守城側の首が続々と江戸に運び込まれ、首実検の後に首塚が建立され麻布が原に埋葬されたといわれています。その場所は一本松とも西町付近ともいわれていますが、首塚の建立にあたっての仏事を取り仕切ったのは増上寺十二世法主で徳川家との縁を開いた貞蓮社源誉存応だといわれています。

もしこの首塚と増上寺隠居所設置が関係しているのであれば、善福寺麻布氷川神社などと共に首塚を取り囲み、結界を作成したのでしょうか?そしてそれはおそらく鎮魂または怨霊の調伏ではないかと想像します。
いづれにせよ、祐天上人も過ごしたこの麻布一本松増上寺隠居所は時の最も高名な僧が隠棲していたことに間違いはありません。



累解説板


























2013年6月17日月曜日

宮村町の千蔵寺

篤姫行列の麻布通過」を調べるため渋谷区郷土博物館を訪れた折、文献を探していると全く別件で興味をそそられる記述に遭遇しました。それは、笄川にかかっていた広尾橋の欄干広広尾稲荷神社に保存してあるという記述で、篤姫調査は「そこそこ」にして早速広尾稲荷神社へと向かうことにしました。
宮村町千蔵寺跡(フェンス部分)正面は狸坂
広尾稲荷に着き、境内を探したがそれらしき欄干が見当たらなかったので社務所を訪ね、社家の方にお聞きしました。すると広尾橋の欄干は数年前に渋谷区に寄贈されたとの事でもはや境内にはない事がわかり、残念な思いでお話を伺っていると広尾稲荷神社の別当でもある「千蔵寺」の所在がわからず困っているとお聞きし、さらに千蔵寺が宮村町にあったと伺ったので、それでは少し調べてみますっ!と安受け合いしてしまいました。

広尾稲荷神社を辞したその足で宮村町の寺ならこの方に!っと思い、さっそく普段からお世話になっている十番商店街のきみちゃん像管理人で、「十番未知案内」サイト管理人の仁さんを訪問すると、文久元年の復刻古地図で調べてもらい、ものの5分でこの寺の所在が判明します。文久年間、寺は今改装中の麻布保育園・麻布福祉事務所の地にあったことが分った。仁さんありがとうございました(^_^)v

これならば楽勝と家に戻り早速、近代沿革図集で探すと江戸期までは確かに千蔵寺があるのですが、明治になると地図から消えている事が分りました。また麻布区史・文政江戸町方書上等を見ましたが、千蔵寺の情報を見つける事は出来ませんでした。 
これはおそらく「廃寺」か「移転」しかないと、区外も含めた広範囲でネット検索しました
廣尾稲荷神社
が、出てきたのは横浜、千葉、川崎の千蔵寺ばかりで宮村町の千蔵寺情報は皆無でした。仕方なしに電話で1件ずつ宮村町の千蔵寺との関連を確認したのですが、残念ながら該当する寺を見つけることは出来ませんでした。ここで自力探索の限界を感じ、港区郷土資料館・都立中央図書館などにレファレンス依頼のメールを送り、結果を待つ事にしました。
数日後、まず港区郷土資料館から連絡があり、港区刊行の「港区神社寺院一覧」に宮村町の千蔵寺は明治30年川崎に移転したと記載があるとの情報を頂きました。早速先日電話をした川崎市中瀬町の千蔵寺(教覚院厄神堂と改称)に再び電話を入れると今度はご住職が出られ、確かに宮村町から移転した寺であるとのお言葉を頂戴しました。しかしお話を伺うと、残念ながら寺には古い資料が何も残されておらず、広尾稲荷との関連を示すものはなにも残されていないとのことでした。さらに、もし何か分ったら教えてほしいと依頼され、再び振り出しに戻ってしまいました。そこで気持ちを新たにネット上で検索すると東京都公文書館サイトで「江戸・東京寺院探訪~東京のお寺を調べる~旦那寺への道」と題した古いお寺の資料の見つけ方をレクチャーしてくれる文面を目にしました。それによると、


  • 御府内備考続編(御府内寺社備考)
  • 明治五年寺院明細帳
  • 明治十年寺院明細簿





の3つの書籍から調べたい寺院についての歴史的情報はほぼ得ることができるはずといいます。

千蔵寺見取図 1829年(文政12年)
千蔵寺見取図

さっそく翌日図書館で御府内備考続編(御府内寺社備考)を手に取ると....あ・り・ま・し・た!
1829年(文政12年)に調べられた寺の様子が、沿革が、敷地絵図が...。
「御府内寺社備考」第二冊天台宗によると
山王城琳寺末 麻布宮村町 法隆山五光院千蔵寺
「起立の年代は分らないが、元は狸穴にあり天和3年甲府宰相「甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)」様の屋敷用地となり当地(宮村町)に替地となり移転、その際公儀から300両の支度金が支給され諸堂を建立する。しかしその後たびたび火災に合い詳しい事は分らない。」とありさらに、
・開山の祐海法印は1665年(寛文5年)入寂
・本尊は、阿弥陀如来木像・毘沙門天木像(聖徳太子作)・観世音銅立像
・延命地蔵堂があった
・社地は21坪で門前家屋が総間口13間半
などの記述もあり、敷地の見取り図もあるので大変に参考となりました。
さらに都立中央図書館からレファレンス結果のメールを頂き、多くの情報を得る事ができました。そのメールでは、

・「御府内寺社備考」
・「東京都社寺備考」
・「大日本寺院総覧」
・「天台宗寺院大観」
・「全国寺院名鑑」
・「全国寺院名鑑」
・「川崎市史 別編 民俗」
などをご紹介頂き、その中では宮村町の千蔵寺は川崎に移転したのではなく、もともと川崎のその地にあった「清宝院」と合併している事が分かりました。
他にも「東京市史稿」という書籍にも数多くの情報が書かれ、また東京都公文書館にレファレンスを依頼すると明治30年の移転に関する詳細な資料が数多く見つかり、マイクロフィルムに収められていることもわかりました。
それらを整理すると、


西暦 元号 記載内容 出典
1665年 寛文5年 5月16日開祖祐海入寂 御府内備考続編
1678年 延宝6年 10月、麻布狸穴の寺地が甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地となるため、363坪の代地を武州豊島郡麻布宮村に拝領し引き移る 東京市史稿
1724年 享保9年 千蔵寺 麻布宮村町稲荷社別当となることを寺社帳に登録する 東京市史稿
1820年 文政3年 5月、千蔵寺門前町屋1軒の撤去を願い出る 東京市史稿
1883年 明治16年 4月、宮村町47番地天台宗千蔵寺、同町75番地天台宗円福寺は、いずれも南豊島郡渋谷村の宝泉寺(渋谷区東2丁目)住職が兼務 東京都公文書館資料
1884年 明治17年 「厄神鬼王」を神奈川県藤沢市本町1丁目 入町厄神社に分神し明治24年に神殿を建立 インターネット情報
1897年 明治30年 麻布宮村町四十七より川崎市中瀬町三に移転 港区神社寺院一覧


※別当

神社の役職の一つに「別当(べっとう)」と呼ばれる役職がありました。「別当」とは神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶のことで、神僧や社僧とも言われました。江戸時代以前には伊勢神宮以外の多くの神社に別当が置かれ、僧侶による神社祭祀・神前読経などが一般化します。神社における別当の権威はときに本職の神主をもしのぎ、神社の仏教的色彩はますます強くなっていったそうです(神仏習合:しんぶつしゅうごう)。(資料参考:築土神社別当成就院楞厳寺サイト)
江戸初期、幕府により麻布狸穴町から麻布宮村町に転された千蔵寺は、移転時幕府との約束により元地狸穴町にあった時の二割増で寺地を拝領するはずでしたが、実際宮村町に移転してみると敷地は二割減となってしまったそうです。これについて同時期に同じ狸穴町辺から集団移転してきた広隆寺、広称寺、本光寺などが連署で移転による寺地の縮小を幕府に恐れながら問い合わせている文章が残されています。 
その後宮村町の千蔵寺は、宮村町稲荷(これが広尾稲荷の事と思われます)の別当となり、いく度かの火事災害を乗り越えその都度再興されています。しかし、寺の経済状態はあまりよくなかったと思われ、文政三(1820)年、門前町屋一軒の撤去を願い出た文章には、 
「寺が貧乏で建て替え費用が工面できない。荒れ果てた空き家のまま放置するのも物騒なので壊したい」 
などと書かれ当時の寺の経済状況をうかがう事ができます。
そして、明治になるとさらに廃仏毀釈が追い打ちとなり無住職の荒れ寺となってしまった千蔵寺を渋谷宝泉寺の住職が兼務で支え、川崎への移転にいたります。東京都公文書館のマイクロフィルム資料によると、少なくとも1883(明治16)年から移転する1897(明治30)年までの14年間は宝泉寺の同じ住職が兼務し続けたようで、移転関連書類(墓地改葬届、寺移転届、売買契約等)にも同一の名前が見えます。これについて面白い記述を見つけました。寺の敷地は麻布区と売買に関する契約を結んだようですが、その際、東京市が、何故同じ名前の住職が二ヶ寺もみているのかという質問状を麻布区に送っており、麻布区はその理由となる事項を東京市に返書しています。

これまでに分かった事を広尾稲荷神社にお伝えすると大変に喜ばれ、先代の宮司さまも千蔵寺を探して川崎まで行ったが手がかりを見つけることが出来なかった事をお聞きしたので、今回、多少ではあるがお役に立てた事と思います。

さらに広尾稲荷神社さんにはあまり関係のない「移転関連書類」が手元に残っていたので廃棄するよりはと、先日千蔵寺さんを訪れて資料をお渡ししましたが、こちらも大変に喜ばれました。寺の移転に関与したのは現住職のお父様とのことをお聞きしましたが、口伝だけで資料が何も残されていなかったようですので、寺にとっても貴重な資料となったと思われます。またその際にご住職から色々とお話をうかがう事ができましたが、最大の成果は寺の江戸期の過去帳から、広尾稲荷にまつわる文書を発見した事です。その文章は1812年(文化9年)に行われた町内安全を願った祈祷の際の記録で、広尾稲荷神社の名前もはっきりと読み取る事が出来ます。
ですが、その内容を品川歴史館学芸員の方に解読していただくと、広尾稲荷神社うんぬんの前後の文章に広尾稲荷神社との関連性は無く、本寺への奉納金の控えや、切支丹詮議を受けたと思われる檀家の身元保証(確かに天台宗の宗徒で千蔵寺の檀家である証明)などが書かれていることが解りました。また文章後半に書かれている広尾稲荷神社記述の事もこれは恐らく文章ではなく、寺の本堂正面などにかけてある「棟札」の文言ではないかとのご教授を頂きました。 
残念ながら千蔵寺と広尾稲荷の関係を示す文章は多くはなかったので広尾稲荷神社が必要としている情報が十分に得られたとはいいがたいとおもわれます。しかし、これでまぎれもなく千蔵寺が明治期の宮村町から忽然と姿を消した寺である事が確定され、また広尾稲荷神社の「別当」であった事も確実となったので、今回の調査は終了とさせて頂きました。












千蔵寺過去帳の広尾稲荷記述
 1812年(文化9年)










 

参考文献

・「御府内寺社備考」第二冊 天台宗
・「東京都社寺備考」 寺院部 第1冊 天台宗之部
・「大日本寺院総覧」上
・ 港区神社寺院一覧
・ 藤沢市郷土誌「わが住む里第38号」
・ 東京都公文書館マイクロフィルム資料
・ 東京市史稿
・ 新修港区史
・ 麻布区史
・ 近代沿革図集
・ 他。
レファレンス協力

・広尾稲荷神社
・千蔵寺
・東京都公文書館
・都立中央図書館
・港区郷土資料館
・品川区立品川図書館
・品川歴史館
・神奈川県藤沢市立総合市民図書館
・神奈川県立川崎図書館








より大きな地図で 麻布の寺社 を表示







2013年6月16日日曜日

麻布十番の林田小右衛門

昭和の始め頃まで十番に住まいのあった林田家は、徳川家康の六代前から松平家に仕え、家康の江戸入国に付き添って江戸に来た古い家柄だそうです。 
麻布十番商店街
家康の江戸入りした直後の江戸では、目障りになったり差し障りがある箇所を修繕取り除けする役でした。ある所で道がぬかるんで目障りであるとの命を受けて散々考えた挙句、道端に稗(ひえ)を蒔く事を思いつき、道端を青々と彩らせたそうです。また江戸城の堀端の松の木も林田小右衛門が植えたものだといわれ、幕末まで林田家が代々無料で植栽管理を受け継いでいました。また大奥の「御能」で使う松飾も林田家の仕事で、松飾の為に保土ヶ谷にそのためだけの松の植林を持っていたそうです。しかし、、幕府からの禄は微禄で三人扶持でしかありませんでした。でもこれは表向きの収入で、その他諸家からの扶持が四百人扶持を下らなかったといい、その生活は豪勢を極めたそうです。

林田家には小右衛門の本家の他に、麻布新門の林田弥右衛門、南日ヶ窪の林田彦兵衛、北日ヶ窪の林田正兵衛の3つの分家がありましたが、いずれも百人扶持ほどの収入があり生活は豊かであったといわれています。

しかし何と言っても本家の勢いが一番で、林田本家は他に手代を六十人も使って大名相手の「高利貸し」を行っていました。これは大名が急場の資金を凌ぐ「時借り」などから莫大な利益をあげ、また返済出来ない大名からは「禄」を貰う事で相殺し、借金を払いに各地の領内から江戸に来た村長(むらおさ)が店を訪ねた時にはご馳走で歓待したともいわれています。

この様に世渡り上手な林田家は幕府が倒れる時も、ある縁故で官軍の御用を勤め、山県、大隈公をはじめ知己があったそうです。また江戸城開城の時は、林田が食事から夜具まで一切の世話をしたといいます。明治になり北畠男爵とも姻戚となり、十番も一町四方百両で下げ渡されたといいます。
この林田家が麻布十番に現存しているかは未確認ですが、もしあれば十番でも有数の旧家と言う事が出来ると思います。

2013年6月15日土曜日

黒田家老女の惨劇

以前「黒田清隆の妻殺し疑惑」というおはなしをご紹介しましたが今回はやはり、明治時代の黒田家でおきた悲劇をご紹介します。

 、陸軍中将を兼務した参議開拓長官でのちの第二代総理大臣となる黒田清隆の麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)屋敷で馬丁として勤めていた岡田国蔵は、元は打網の漁師でした。そのいきさつは、元々魚が好きで自ら投網を打つのを趣味としていた黒田清隆がある日、漁師、家人を大勢連れて網を打った時に、どうしたはずみか金の煙管が海の中に落ちてしまいました。

たちまち顔色の曇った黒田公を見た家人達は、また彼の癇癪癖が起こるのではと恐れ、気を揉んでいると、大勢の漁師の中の一人であった岡田国蔵が突然海に飛び込み、沈んでしまいました。それを見ていた仲間の漁師達は飛び込んだ国蔵を、追従もここまでするかと軽蔑し、どうせ煙管は見つからないでかえって黒田公の怒りを買うだろうと言い合ったそうです。しかし、しばらくして浮かんできた国蔵の手にはしっかりと金の煙管が握られており、それを見た黒田公は途端に満面の笑顔になると国蔵に名前を聞いて、家人として取り立てる事を告げます。それ以来、黒田公は、如才の無い国蔵をたいそう気に入って馬丁として傍に置きました。しかし、実際にお蔵番として奉公させてみると、屋敷内で紛失物が相次ぎ、まもなくそれが国蔵の仕業だと判ったが黒田公は気に留めず、なおも馬丁として奉公させました。

一方、黒田家には「角田のぶ」というこれまた黒田公お気に入りの老女がいました。彼女は酒癖の悪い黒田公が屋敷内で暴れそうになった時も唯一公を収められる女中として、信認が大変に厚かったそうです。

そんな2人が何かの拍子に恋仲となってしまい、屋敷の評判となってしまいました。昔なら不義密通でお手討ちというところを、黒田公はお気に入りであった二人にしぶしぶ暇を出して放免としたそうです。その後「のぶ」は「国蔵」の妾として麻布龍土町で餅菓子屋をはじめ、麻布三連隊の兵隊などに人気が出て商売は繁盛します。一方の国蔵も妻と芝新道に家賃が七十五円という大きな弓場(矢場)を開いたのですが、こちらはあまり繁盛しなかったようです。しばらくすると国蔵はまだ小金を溜め込んでいた「のぶ」に北海道で一山当てようと言って連れ出し、二人は、一旦本当に北海道に行ってからしばらくすると再び東京に舞い戻って、芝愛宕の対陽館という旅館に逗留しました。

国蔵は旅館の主人に「体を壊した友人の情婦を入院させるために、自分が東京まで付き添って来た」と話しました。そしてその翌日、国蔵はのぶを渋谷に連れ出して行き、それがのぶの最後の姿となります。翌日、府下渋谷の渋谷原で顔の皮を剥がされた女性の惨殺死体が見つかり大騒ぎとなったが、結局身元がわからずに事件は迷宮入りとなります。

そして、旅館に一人で戻った国蔵は、何くわぬ顔で主人に連れが入院した事を告げると、今度は妻を呼び出して二人は故郷の房州鹿骨村に帰っていきました。国蔵は北海道に行った時からのぶの殺害を計画していましたが実行出来ず、わざわざ東京に戻ったのもその犯罪の完結をねらっての事でした。

しかし、故郷に戻った国蔵はしばらくすると村を出て甲州で博徒となったが悪運尽きて傷害事件を起こし、その取り調べの過程で家宅捜索された時に真新しいのぶの位牌が発見され、厳しい取調べの後に、渋谷での「のぶ殺し」を自供しました。











2013年6月14日金曜日

増上寺刃傷事件


幕末まで笄町4番地(現在西麻布3丁目麻布税務署裏手あたり)辺に上屋敷のあった湯長谷(ゆながや)藩は、磐城平藩の藩主内藤政長が隠居にあたって長男の内藤忠興に本藩を相続させ、二男の内藤政亮に新田を分与し支藩としたことから成立した奥羽の小藩(福島県いわき市常磐下湯長谷町)です。そして、内藤政亮が藩主となるに当って浅草寺別当知楽院の進言により遠山氏を名乗り湯長谷藩遠山氏が成立しました。成立当時藩の石高は1万石でしたが、さる事件をきっかけに幕府より2千石を加増されることとなりました。その事件とは........。


湯長谷藩麻布百姓町上屋敷
延宝八(1680)年五月八日、四代将軍家綱が没し芝増上寺で大法会が営まれることとなりました。大老酒井忠清は、この大法会の奉行を鳥羽(志摩)3万5千石の藩主内藤和泉守忠勝、丹後宮津7万3千石藩主永井信濃守尚長、土浦藩4万5千石藩主土屋相模守らに命じます。(松本清張の「増上寺刃傷」では永井は将軍名代、内藤は奉行となっています。)そして事件は六月二十四日、大法会当日の申の刻(午後3時頃)に突然起こり、 内藤和泉守が突然永井信濃守に斬りつけ殺害してしまいました。  
この様子を『徳川実紀』は、
「この日増上寺の法場に於て、内藤和泉守忠勝失心し、佩刀をぬき、永井信濃守尚長をさしころす。」 

と記しており、また御当代記には、
「永井信濃守・内藤和泉守両人義、於増上寺御法事の節喧嘩仕相果候ニ付、跡を御絶し被成候」

とあります。 
この時刀を持ったままの内藤和泉守を後ろより抱きとめ、刀を奪って目付に引渡したのが遠山政亮でした。遠山政亮はこの功により丹波氷上・何鹿に2千石を拝領することとなります。事件後、内藤和泉守はの27日には愛宕青竜寺(神谷町付近の港区虎ノ門3-22-7に現存)にて切腹し、三田功運寺(当時三田4丁目の済海寺近辺にあった)に埋葬されました。

この事件は内藤和泉守の失心による刃傷事件という事になっていますが、内藤家と永井家の江戸上屋敷は隣り合っており、普段から犬猿の仲であったといい、忠勝も尚長も三十歳前後と若く、吉原通いの舟の行き違いのときのにらみ合いや永井家の高く建てた茶室による紛糾なども原因としています。そしてまた、松本清張の「増上寺刃傷」では尚長からの計略により面目を失った忠勝が事件を引き起こしたとあり、同書では永井信濃守について冷血的な秀才と位置付け、その冷血の遠因を3代将軍家光逝去時に大老堀田正盛、老中阿部重次、側衆内田出羽守正信らは早々に追い腹を切ったが、家光より同じ恩顧を受けた永井信濃守尚政(永井信濃守の祖父)は、殉死せず

「永井して 人の誹りやなおまさる 出羽におくれて 信濃わるさよ」


と世間から酷評された末に隠居した事や、その後を継いだ兄の越中守尚房も吉原で遊郭遊びの最中に横死するという永井家の精神的な「引け目」から鷹揚な振舞いを貫き通したためとも書かれています。

この刃傷事件を調べるうちに、同じ刃傷事件である浅野内匠頭長矩の事件との関連が幾つか見つかったのでご紹介します。


  1. 加害者である内藤和泉守忠勝は、後にあの刃傷事件を引き起こす浅野内匠頭長矩の母親の実弟で内匠頭は内藤和泉守の甥にあたり激昂は「血筋」との見方もあります。また、浅野内匠頭長矩は寛文7年(1667年)江戸生まれなので、増上寺事件当時は13歳となっており、当然この事件を認知していたと思われます。

  2. 赤穂浪士の一人である奥田孫太夫重盛は、内藤和泉守忠勝の姉が浅野采女正長友に嫁ぐのに従い赤穂に来た「鳥羽藩士」でしたが忠勝の増上寺刃傷事件により内藤家は改易となったので、孫太夫はそのまま浅野家中になり、後年再び主君が改易となります。つまり、2度も主君の刃傷・改易を経験していることとなります。

  3. 浅野家改易後の赤穂藩に、永井信濃守尚長の縁者である永井直敬が下野烏山より3万3千石で入り、わずか一代で信濃飯山へ転封されることとなります。

  4. 内藤和泉守が埋葬された三田功運寺は大正11年(1922年)に中野区に移転し、昭和23年(1948年)に万昌院と合併し万昌院功運寺となりました。この万昌院は赤穂事件後に取り戻した吉良上野介義央の首と胴体を合わせて埋葬した墓があるそうです。


  5. 大法会のもう一人の奉行である土屋相模守政直はその後の貞亨4年(1687年)に老中となり、増上寺刃傷事件から21年後の元禄14年(1701年)の江戸城松の廊下刃傷事件では浅野と吉良両人の事情聴取行うこととなります。さらに翌年、四十七士の討ち入った本所吉良邸の隣が土屋邸であったそうです。余談ですが土屋相模守の下屋敷は四の橋付近(新坂と薬園坂を挟む一帯)であったため、四の橋は別名「相模殿橋」とも呼ばれていました。






事件の後、加害者といわれる内藤家は廃絶となりました。しかし、被害者である永井家は継嗣がいなかったため所領は一旦は幕府に収公されたのち弟の尚円が大和新庄で1万石を与えられ大名に復帰、永井家は大和櫛羅(くじら)藩主として明治まで存続することとなります。そして仲裁に入った遠山家は政亮の二代あとに旧姓の内藤を唱え、さらに三千石を加増されて1万5千石の大名となって、明治を迎えるまで一度も領地を変わらずに福島県いわき市に存続しました。







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   ★関連項目

      超高速参勤交代の麻布













2013年6月8日土曜日

浅田次郎の「霞町物語」

本屋さんで何度も手に取りながら、何故か買うのをためらっていた浅田次郎の「霞町物語」を読んでみました。

内容は、 夕暮れ隧道、青い火花、グッバイ・Dr.ハリー、雛の花、遺影、すいばれ、卒業写真からなる短編で、主人公は全編を通して麻布十番に戦前からある写真館の息子、「伊納くん」である著者自身との事。写真館がフィクションでないとして、昭和初期~15年頃の十番商店街を「十番わがふるさと」で探したところ、現在たいやきの浪速屋あたりに「清水写真館」、雑色通りに「石井写真館」、セイフ-の前あたりに「ミムラ写真館」、また越ノ湯の隣にも写真館がありこのどれかが小説の上では主人公伊納くんの生家ということになります。

物語は小学生から高校生までの「伊納くん」のまわりで起こるさまざまな日常を、浅田次郎特有の、ほろっとさせてくれるハートウオーミングな世界で表していおりその中に青山、六本木、赤坂界隈のなつかしい遊び場が数多く登場します。(と言っても、私は世代の相違からかムゲンくらいしか知らなかったのですが)だが、残念なことに麻布十番についての描写はあまり出てきません。しかし当DEEP AZABU、GuestBook6月16日川口氏の投稿にある「一昔前の、あの、麻布の山の手の感じ」が存分に楽しめることは間違いありません。 また同年代の麻布近辺を描いた山口瞳氏のご子息、山口正介氏の「麻布新堀竹谷町」と読み比べてみるのもお勧めです。





浅田次郎氏の経歴は以下に。

1951年12月13日、東京杉並区生まれのA型。駒場東邦中学、中央大学杉並高等学校 を経て、1971年自衛隊第32普通科連隊に入隊。1973年に満期除隊後、さま ざまな職業を転々とするが、1992年に「きんぴか」で小説家としてデビュー。1 995年「地下鉄(メトロ)に乗って」で第16回吉川英治文学新人賞受賞。199 6年「蒼穹の昂」で直木賞候補になり、翌97年「鉄道員(ぽっぽや)」で、第1 17回直木賞受賞。

最後に私が一番面白かった 「卒業写真」の中の言葉をご紹介します。






「ふるさとは誰かに奪われたのか、それとも僕らが自ら捨てたのか、
いずれにせよあとかたもなく喪われてしまった。
ダムの底に沈んでしまった故郷と、どこも変わりはあるまい。
谷あいの道を、粒子のひとつぶひとつぶがきらめきながら流れて行く霧に目を凝らせば、
まるでおびただしいスチール写真を撒き散らしたように、モノクロームの日々が甦る。
死んでしまったオーティス・レディングのすさんだ歌声とはうらはらに、
僕らは輝かしい青春を、この町で生きた。」














2013年6月7日金曜日

続・耳袋の中の麻布

これまで数度に渡り「耳袋」の中から麻布にまつわる逸話をご紹介してきましたが、前回以降にわかった事をお知らせします。
「耳袋」は現代的な表現で本来は「耳嚢」と書き、「みみぶくろ」と読むのか、あるいは「じのう」なのかわかっていないそうです。しかし嚢(のう)は袋の意味で用いられ、根岸鎮衛が30年間に聞いた話1,000話を溜め込んだ袋と解釈すれば、どちらもほぼ同義といえます。またこの本は本来公表されるつもりで書かれたものでは無く、作者根岸鎮衛も門外不出としていました。しかし、作者生存中にも原本を転写した海賊版が市中に出回り、町奉行であった筆者が摺り本を没収しています。しかし作者死後には再び縁故などを利用して転写する者が出て、再び世に出てしまい色々な形態の写本が登場しました。そのため現存する写本においても話の順序はさまざまなようです。また根岸家に伝わった原本は、門外不出であったためか、現在まで発見されていなく、写本も1,000話すべてが揃ったものは無いとされています(UCLAで発見された写本は全巻・全話揃っているといわれますが、確認できません。)ので、耳袋からの逸話は今回で終了とします。

しかし、いつか完本を目にする事が出来た時は、麻布もその中にたくさん眠っていると思われるので続編として再開しようと考えています。これまでむかしむかしで取り上げなかった話も含めて、目次として以下の表にまとめ、最後とします。




題名 場所 内容
1 禅気狂歌の事 芝辺 禅好きな商人と僧の問答
  山事の手段は人の非に乗ずる事 麻布・六本木 人の弱みにつけこむ詐欺師
  河童の事 仙台河岸(汐留) 河童を捕獲・保存
  旧室風狂の事 麻布あたり 奇人の奇行
2 狂歌にて咎めをまぬがれし事 高輪あたり 一富士二鷹..のいわれ
  忠死帰するが如き事 高輪細川邸 大石内蔵助の最後
3 精心にて出世をなせし事 赤羽橋・久留米藩邸 不器用な男の出世
  鈴森八幡烏石の事 麻布・古川町 烏(鷹)石の由来と松下君岳
  町家の者その利を求むる工夫の事 日本橋 松下君岳のその後
4 蝦蟇の怪の事 芝・西久保 老蝦蟇の妖術
  陰徳陽報疑いなき事 青山・権田原 親切が加増につながる
  実情忠臣危難をまぬがるる事 麻布・市兵衛町 忠臣の恩返し
  怪妊の事 麻布辺 武家子女の怪妊
  増上寺僧正和歌の事 芝・増上寺 増上寺僧正の詠んだ和歌
5 蘇生の人の事 芝あたり 一度死んで蘇生した町人
6 奇石鳴動の事 芝・愛宕 浅野内匠頭切腹の目印石が鳴動
  至誠神のごとしといえる事 赤羽橋・久留米藩邸 槍術精進の結果
  幻僧奇薬を教うる事 くらやみ坂 中気を治した小児薬・くらやみ坂が麻布かは、不明
  好む所によってその芸も成就する事 麻布・宮村町 将棋の妙手大橋宗英逸話
7 唐人医大原五雲子の事 三田大乗寺・広尾祥雲寺 大原五雲子の墓
  その素性自然に玉光ある事 芝・切通し 正直者の娼婦
  仁にして禍を遁れし事 芝辺 火事の機転
8 奇なる癖ある人の事 広尾祥雲寺 他人の墓磨きが趣味の旗本
9 上杉家あき長屋怪異の事 麻布台 上杉家長屋に異変がおこる
  悪気を追う事 芝・芝口 不動参りの者についた悪気
  蘇生せし老人の事 赤坂・裏伝馬町 生き返った老人
10 幽魂奇談の事 麻布・永坂町 扇箱の秘密
  非情といえども松樹不思議の事 芝・増上寺 芝大火後の不思議
  神明の利益人をもってそのしるしある事 芝・神明 芝明神境内の鶏を奪った者の話





2013年6月6日木曜日

山事の手段は人の非に乗ずる事

今回もまた「耳袋」からのお話ですが、前回と違い「世智辛い」内容のお話です。現題の「山事の手段は人の非に乗ずる事」とは、「詐欺は人の弱みに付け込むもの」とでもいうんでしょうか?その話とは........。


最近あった事で、上総あたりのお寺の住職が寺の用事で江戸に出ました。しかしその住職は破戒僧で、新吉原に入り込み遊女遊びで持ってきた寺の公金を使い果たしてしまったそうです。仕方なく一旦上総に戻り、金策のために偽り事を言って檀家から金を集め、寺の什器なども質に入れてなんとか300両をつくり、再び江戸に出ました。しかし江戸に入ると、この悪僧は懲りずに再び遊女遊びでその金を使い果たしてしまいます。さすがの悪僧も今度ばかりは上総に戻る事も出来ず、仕方なく残った金で馬道辺に借家を借り、散々入れ揚げた遊女を身請けして妻にしました。

そうして1ヶ月ほど暮した僧ですが、ある日、町内の若者連中の伊勢講仲間から伊勢参りの誘いをうけます。すると、僧は色々と理由を造ってこの話を断りました。しかし、若者連中の執拗な誘いから最後には路銀も受け取り、とうとう伊勢参りを引き受けてしまいました。そして家に帰ると僧は妻に、断りきれずに伊勢参りを引き受けたことを語りました。すると妻は、

「それならば、仕方ないのであとの事は私に任せて、行ってらっしゃい」

と答えた。そして数日後、僧は留守中のことをくれぐれも頼み込んで、伊勢へと旅立った...........。

しばらくして、伊勢参りを終えた僧が久しぶりにわが家に戻ってみると、なんと、住んでいた家には空家の札が貼られ、妻も行方知れずになっていました。驚いた僧は、

「どうした事か!」

と家主に尋ねましたが、家主も驚きこう語りました。

「奥さんから、あなたが行方不明になったと聞いたので、奉行所にも届け、保証人に家財と奥さんを引き取ってもらった。」

これを聞いた僧は、はじめから妻には男がいたのだと悟り、その自分の知らなかった保証人を怒って訪ねました。しかし、そこもすでに引き払われていたそうです。

途方にくれた僧は、はじめて自分が空腹である事に気づき、田町(北馬道町)の正直蕎麦に入り蕎麦をすすりながら、もともと脛に傷を持つ身であり、こうなったら川に飛び込むしかないなどと、考えていました。すると、先ほどからそんな僧の様子を見ながら蕎麦をすすっていた医者の姿をした男が、蕎麦屋の下女を呼んで「あの男は死相が現れている」と言いました。すると下女はこんな所で死なれては商売のじゃまと、僧に向かって

「お客さん、顔色が悪いよ。あちらの方が、あなたに死相が出ているって言ってるし、早く帰って養生した方が良いよ。」

と言うとズボシをさされた僧は大変に驚き、医者の姿をした男に自分は確かに死のうと思っていたと告げました。すると医者の姿をした男は

「一度捨てた命を、拾って生きるつもりはあるか」

と言うので、僧は「捨てたつもりの命です。生きて何でもします。」と答えた。すると医者風の男は

「それならば、私について来なさい」

と言い、並木通り(雷門)にある自分の家に僧を連れ帰り、下男のように使ったそうです。そしてしばらくしたある日、医者風の男は僧に、まだ奥さんを探したいかと訊ね、僧がうなずくと、それならば良い考えがあると、「飴売り」になって念仏を唱えながら江戸市中を歩けば、きっと見つかると言った。それから僧は言われたとおり、浅黄頭巾に伊達羽織を着て念仏を唱えながら飴を売り歩いいました。しばらくたったある日、麻布六本木で飴を売りに歩いていると、なんと元の妻が向かいの酒屋から出てきて、他の家に入り、また酒屋へ戻るところを見つけました。喜んだ僧はそのまま大急ぎで医者風の男の家に帰り、そのことを話します。すると医者風の男は

「それでは、女房殿を取り返そう」

と言いました。10日ほどすると医者風の男は、「今日、取り返そう」と言い、僧を伴って麹町辺を取り仕切る地元の親分を訪ね、ひそひそと相談を始めました。そしてしばらくすると「大方の相談は終わった。あんたは今から女房を見た酒屋へ乗り込みなさい」と親分は僧に言いました。

医者風の男は親分に丁寧に礼を述べると、その足で麻布六本木に行きの例の酒屋の近くの家の軒先に僧を残して、少しここで待つよう、そして呼んだらすぐに来るように伝えると、酒屋に入っていきました。そして店に入ると

「酒の小売りはしているか。少し飲ませてはくれないか」

と言うと

「うちじゃ小売りはしてないません」

と言われた。しかし医者風の男はそっと店の者に銀一枚を与えたところ、酒が出され、女房らしき女が現れて酌をはじめた。そこで医者風の男はその女房に

「奥さんに会わせたい男がいます」

と言うと僧を呼びまし。すると、僧の顔を見た女房は驚いてその場を立とうとしたが、すかさず袖を押さえた。医者風の男は

「この女に間違いないか?」

と問うと、僧は

「間違いございません」

と言ったので女房は顔を真っ赤にして奥へ引っ込んだそうです。そして医者風の男は酒屋の主人を呼ぶと、今までの女房との話を悟られないようにと、酒の礼を丁寧に述べて店を辞しました。それから二、三日が過ぎた頃、麹町の親分が子分を数人連れて医者風の男の家に現れ、

六本木の酒屋を脅して、100両ほど都合させた」

と言い医者風の男にその100両を渡した。すると医者風の男は親分に

「これは仕事料だ」

と、二十両を差し出した。それから医者風の男は旦那寺の僧を呼んで終日、ご馳走を振る舞いました。そして僧がこの上何をするのだろうと考えていると、酒も済んだ頃、僧はその旦那寺の僧に引き合わされました。そして医者風の男は旦那寺の僧に

「この男は一度はこういう理由で死のうとしていたところを私が助けた。そしてこのたび、貴僧の弟子として再度出家させたいので、今日剃髪なさってください」

と言い、あれよあれよと言う間に湯や剃刀を用意した。するとそれを聞いた僧はたいそう驚き、「ちょっと待ってください。私は一度還俗した身です。また出家できるはずがありません。女房も取り返していないのに、なぜまた出家しろなどと仰るのですか」と言うと、医者風の男は、

「だからこそ、あなたが勝手に還俗し、在家を欺いた罪は免れようがない。本来死ぬはずだったところを生きているのだ。これを幸運だと思いなさい。そしてまた出家すれば、少しは罪が軽くなるはずだ」

と、無理矢理出家させてしまったそうです。さらに医者風の男は僧に、

「今度の事で、あなたの女房を奪った男から迷惑料として金を出させたが、これは、色々骨折りを頂いたの方々への御礼にした。そしてあなたの出家や、今までの罪滅ぼしの供養料でお寺にも20両差出た。また、あなたにも10両を渡すので、出家の費用としなさい。残りは、これまでかかった経費だ。」

と言って自分の懐に入れてしまいました。


作者は、この医者は恐ろしく悪知恵が働く男で、ふたたび出家した僧は、今は花川戸あたりで托鉢をしている。と書き残して終わっています。 泣きっ面に何とか。...というお話でした。











2013年6月5日水曜日

その素自然に玉光ある事

今回も引き続き「耳袋」からご紹介。

明和の頃(1764~72年) 、芝口2丁目(日比谷)にあった伊勢屋久兵衛の使用人勘七は日頃から商いに精を出し、主人からも大変に信頼されていました。しかし彼の唯一の欠点は酒が過ぎてしまう事だったそうです。

ある日、勘七は出入りの屋敷で集金を終えて70両ほどを財布にいれ、その日はその屋敷に祝い事があったので、家の者から酒を薦められるうちに元々酒好きがこうじてをつい過ごしてしまいます。すっかり酩酊して屋敷を辞した勘七は、小唄などを唄いながらふらふらと歩いていると、芝切通し(増上寺裏手、芝高校あたり)で夜鷹(街娼)が袖を引いてきました。真面目な勘七は、普段ならそのまま行過ぎてしまうところだが、酒の力も手伝ってその日はつい夜鷹の求めに応じてしまったそうです。

その後、酩酊したままやっとの事で家に戻った勘七は、そこではじめて財布が無くなっている事に気がつき青くなりました。落としたのでは?っと、今来た道を再び戻り懸命に探したが見つかりません。ついに芝切通しあたりまで戻りましたが、すでに夜も更けていたので先ほどの夜鷹もいませんでした。途方にくれた勘七は再び道を探しながら戻りますが、やはり財布は見つからなかりませんでした。

勘七はその足で店に戻ると、主人久兵衛に財布を落として売上金を無くしてしまった事を正直に話しました。それからの勘七は食事も喉を通らなくなり、日頃の忠勤を知っている主人久兵衛の静止も上の空で、死ぬ事ばかりを考えていました。そしてやっと次の夜になったので勘七は再び芝切通しに向かったそうです。すると前日の夜鷹勘七をみつけるとそばによって来て、

「あなたは昨日私を買ってくれた人ですか?」

と聞いたので、すかさず勘七は、

「そうだ。私だ。」

と答えた。すると夜鷹は、

「昨日は、何か落しませんでしたか?」

というので勘七は、昨日からの事をすべて話し、食事も出来ない状態だと告げた。すると夜鷹は、財布の特徴や中身を詳しく聞いて、

「来てくれて、本当に良かった!」

と言って土中に生めて保管してあった財布を喜んで返してくれました。

まさかの思いで、命の恩人だと喜んだ勘七夜鷹の住まいを訊ねると鮫ヶ橋(新宿区若葉辺の超低級岡場所でボッタクリが横行していた場所)の九兵衛という親方の下にいると答えたので、また来ると言い残して主人のもとに急いで帰ったそうです。店についた勘七は財布を差し出して事の仔細を主人久兵衛に話しました。すると主人は、

「そのような正直者にそんな勤めをさせてはいけない」

と言い、勘七を供なって20両を懐に鮫ヶ橋の九兵衛のもとに行くと昨夜の夜鷹も居合わせたので、早速その夜鷹を20両で身請けしたいと親方の九兵衛に申し出たそうです。すると九兵衛は、

「あの娘は訳があって夜鷹などしているが、本来はこのような勤めをするべき者ではなく、生活のために致し方なくやっているのだ。」

と言い6両もあれば借金は消えるので20両では多すぎます。っと、6両しか受け取りません。そして、何度も押し問答をしたがどうしても九兵衛は6両しか受け取らなかったので、終いには根負けした伊勢屋久兵衛も6両で夜鷹を店に連れ帰り、勘七の長年の忠勤にも以前から感じ入っていたので、二人を早速夫婦にして元手を渡し店を持たせたそうです。そしてその後、勘七夫婦の店は永く繁盛したといいます。 
この正直な夜鷹は麻布辺の荒井何某という家の娘でしたが、親の死後に兄弟の身持ちが悪く、悪人に売られて九兵衛のもとに来たということでした。

最後に作者の根岸鎮衛は、

「さすがに素性ある女なれば、かかる事もありなん。親方の九兵衛もいかなる者の果てや、正義感ずるにたえたりと語りける」

と〆ている。

※ 根岸鎮衛もこの話の冒頭で「この話初めにもありといえど、大同小異あれば又しるしぬ」と書いている通り、この話には同話異伝があり、「耳袋」2巻に「賤妓発明加護ある事」というタイトルで掲載されています。そちらは場所が浜町河岸(日本橋久松町)で舟で商いする街娼と下町辺の若い商人の話ですが、財布を返した理由に、若い商人と夫婦になった娼婦が後に語った事として、大金を持っていると親方に殺されて奪われる恐れがあったと言っており、鮫ヶ橋の九兵衛のような人情味のある親方は登場しません。











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2013年6月4日火曜日

上杉家あき長屋怪異の事

今回も引き続き「耳袋」からの不思議をご紹介します。
作者根岸鎮衛は、 上杉家の上屋敷(霞ヶ関1丁目、現法務省)か中屋敷(麻布台1丁目、現外務省飯倉公館)、下屋敷(高輪)かは忘れたが最近あった話として、

ある藩士が交代により在所より江戸に来て藩邸の屋敷内に長屋を探しましたが、生憎長屋はみなふさがっていたそうです。一軒だけ空いてはいるが、その長屋は異変が多く起こり、住んだ者は皆自滅したり、身分が立ち行かなくなってしまい、誰も住まなくなって主君の耳にも達するほど評判の長屋であったそうです。しかしその話を聞いた藩士は、そんな噂を全く気にすることもなくその長屋に住みたいと願い出て許されました。するとある夜、一人の老人が出て、書見台で本を読んでいた藩士の前に座ります。しかし藩士はその老人をちらっと見ただけで変わらずに読書を続けていると、今度はその老人が飛び掛って来ようとしたので取り押さえて、

「何者だ。何故ここにいる!」

と、問いただすと老人は、

「私は永くここに住む者だが、ここにいるとあなたの為にならない」

と言ったので、藩士は大声で笑いながら

「私は屋敷の主人よりこの長屋を給わって住むことになったが、あなたは誰の許しを得て住んでいるのか」
と問い掛けると、老人は答えに窮して

「まったく申し訳ない」

と答えました。それを聞いた藩士は

「これからは心得違いをしてはいけない」

と、取り押さえていた膝を弛めると、老人は消えてしまったそうです。その日から2、3日が過ぎて屋敷の目付けと名乗るが供を連れて長屋に来訪し、主人の言いつけだとしてその藩士に面会を望んだそうです。藩士は主命と聞き、衣服を改めて面会すると

「その方にに不届きがあって、きついお仕置きがあるかもしれない事を聞いている。しかし、私の一存で仕置きが決まるのだが」

と目付は言いました。すると藩士は

「承知いたしました。しばらくお待ちください。」

と言ってその場を辞して、勝手にいた召使を呼び、近辺に住む同輩を呼んで陰から目付をのぞかせました。しかし誰もその目付を知っている者がいなかったので、藩士は皆に棒等を持たせて待機させると、座敷に戻りました。そして目付に向かい、

「仰っている事はよく解りました。しかし、よく考えてみるとお叱りを受ける心当たりが全くありません。また、在所より出てきたばかりなのであなた様を存じ上げませんが、屋敷内の何処に住んでいて何年お勤めをされているのか伺いたい」

と言うと

「主人の命により詰問に来たので、そんなことには答える必要がない」
と言ったので

「そう仰ると思って、屋敷内の他の者達を呼んであります。しかし誰もあなたを知りません。この侵入者め!」

そう言うと藩士は刀に手をかけました。すると目付は驚いて逃げ出したので抜き打ちに斬りつけると、手傷を負って目付を名乗っていた物は元の姿をあらわし、さらに隠れていた近所の同輩にもしたたか叩かれて逃げ去ったそうです。そして、その後にこの長屋で異変が起こることは、なくなったといいます。












飯倉の上杉家と周辺












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★関連項目

麻布っ子、上杉鷹山

赤穂浪士預け入れ大名邸考 
・ 赤穂浪士の麻布通過
麻布の吉良上野介

・ 耳袋の中の麻布

続・耳袋の中の麻布












2013年6月3日月曜日

耳袋の中の麻布辺

「耳袋」という江戸中期の書物の中に麻布近辺の話を発見したので、要約をご紹介します。

怪妊(巻の四)

麻布に住んでいた松平を名乗る寄り合い(3千石以上、旗本1万石以下で無役の者)の家臣に年頃の娘を持つ者がいた。いつの頃からかこの娘が懐妊してただならぬ様子であったが、その娘の性質からして隠し男などを作るようにも見えない。父母の傍を朝夕離れず、好意を持った男もいないと思われるので、家族がたいへん不審に思ってその娘にあれこれと尋ねたが、全く身に覚えの無い事と神仏に誓った。寛政8年(1796年)四月に娘は産月となったが、このころから娘の腹の中で、赤ん坊が何かものを言う様子であった。言葉の意味は判らないが、間違い無く娘の腹から音が聞こえた。と、ある人も語っていて人々は、何が産まれてくるのかと怪しんで語ったという。
蘇生した人(巻の五)

寛政6年(1794年)ころ、芝で日雇いなどの仕事をして暮らしていた男が、ふいに病気になり急死してしまった。それを生前懇意にしていた仲間達が集まってねんごろに弔って寺に葬った。ところが二日ほど過ぎた時に、墓の中から唸り声が聞こえて、びっくりした寺の僧が掘り起こしてみると、死んだはずの男は蘇生していた。そこで寺から町奉行の小田切土佐守にしらせが届き、番所で養生させてから事の次第を尋ねると、
自分が死んでいたとは知らなかった。京都に旅をして祇園から大阪道頓堀を歩き、江戸に戻る途中、大井川で旅費が底をついてしまい途方にくれていると、川渡しの者が同情して渡してくれて何とか家にたどり着いた。その時に真っ暗で何もわからなかったので声を立てたことを覚えている。と語った。この話しは、鎮衛が小田切土佐守から聞いたもであると書いてある。


耳袋(耳嚢)」とは、江戸中期に御家人から勘定方となりさらに、勘定組頭、安永5(1776)年には勘定吟味役を経て佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行などの奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が同僚や古老の話を書き留めた全10巻からなる随筆集で、猫が人に化けた話、安倍川餅の由来、塩漬にされた河童の事、墓から死人が生返った話等々、天明から文化年間までの30年にわたって書き続けた珍談・奇談を満載した世間話の集大成です。しかしこの耳に袋というタイトルはおそらく、

あちこちから聞き込んだ話を書き溜めた集大成

という事からつけられたものと想像しますが、実は「ミミブクロ」と呼ばれていたのか「ジノウ」であったのかはわからないようです。

この根岸鎮衛はまた、第二十六代南町奉行就任中に芝神明の境内で起きた「め組の喧嘩」を取り扱いその際に、庶民からは、御家人という低い身分のから町奉行にまで出世し、下情に通じた好人物とみなされて、大いにもてはやされました。この為に真偽はともかく、いつしか体に入墨をいれたお奉行という奇妙な伝承も生まれたといい、桜吹雪の遠山の金さんのモデルともいわれています。その後の寛政12年(1815年)7月、鎮衛は 79歳で500石を加増され家禄1000石となり、


御加増をうんといただく500石 八十翁の力見給へ
の句を残し得意の頂点となる。その句が世間に知れ渡ると、


500石いただく力なんのその われは1000石さしあげている
と、悪評のあった肥田豊後守左遷のパロディにも使われました。(豊後守は左遷により1000石を幕府に返上)

そんな鎮衛も同年11月、自宅に祀っていた聖天の燈明により屋敷が焼失して自身も皮肉られ、


御太鼓をどんと打つたる御同役 八十(やそ)の翁のやけを見給へ
と詠まれました。さらに11月4日には18年間勤めた町奉行を辞して、12月上旬、冥界へと旅立った(一説には11月4日現職のまま逝去、同9日に奉行職転免とも)。その墓麻布市兵衛町善学寺にあります。(余談だがこの寺の近辺には、1937年ソビエトで行方不明となった松田照子さんの家があった。)しかし、善学寺住職のお話によると遺骨は神奈川県に移されており、現在は供養墓として残されているとのことです。

「耳袋」は永い間その一部しか発見されていなかったが、その100話1000編からなる完本がアメリカのUCLAバ-クレイ校三井文庫から発見されたそうです。















2013年6月1日土曜日

ベアトの麻布

おもしろい本を発見しました。「写真で見る江戸東京」(新潮社)というタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っています。



その中の多くの写真を撮ったのがベアト、フェリックス(フェリ-チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれの報道写真家です。
クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ-グマンの招きで来日します。

横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス-ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らしました。このベアトが撮った写真の中には麻布の写真も多く残されています。

一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されています。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っています。
これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景の写真で、あらためて麻布の緑の深さに納得しました。

麻布とはかけ離れるが、すごい写真があります。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。

ベアトのアトリエがあった伊皿子長応寺
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜでしょう。
(※のちにこの写真は高輪石榴坂ではなく三田綱坂であることが判明しました)。

じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。この直後、藩邸は焼き討ちされました。

生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩きます。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれていました。

これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだと想像されます。

ベアトのポ-トレ-トは掲載されていませんが、ロバ-ト・キャパのような人だったのだでしょうか。








★追記 2010.05


現在の伊皿子長応寺跡
上記文章を書いてから10年以上が経過した現在、いくつかの変更点が出てきましたので訂正、追記とします。

まず、フェリックス・ベアト(Felix Beato) の出生地はベネチアとしましたが最近の資料ではギリシャの西方、イオニア海に浮かぶイギリス領コルフ島となっています。これによりイタリア人でクリミア戦争後に英国籍を取得とするのは間違いで、生まれながら英国籍を所持していたこととなります。名前も英国籍取得時にフェリックスと改めたという説も、フェリックス(Felix)は通称で、正式には「フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)」が正しいとされています。
また生年も1825年ではなく1834(天保5)年と訂正され、来日は1863(文久3)年3月とされているので29才前後と思われます。当時の日本は攘夷運動の真っ最中でした。






ベアト来日と攘夷・外国人関連の事件
場 所事 象・事 件
安政六(1859)年7月横 浜横浜でロシア士官・水夫刺殺
10月三田済海寺フランス領事館ボーイが切られる
安政七(1860)年1月高輪東禅寺イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺
万延元(1860)年12月麻布中之橋アメリカ公使館通訳官ヒュースケン暗殺
文久元(1861)年5月高輪東禅寺第一次東禅寺事件
文久二(1862)年5月高輪東禅寺第二次東禅寺事件
8月神奈川生麦事件
11月横 浜外国公館焼討未遂
12月品 川御殿山英国公使館番人殺害
12月品 川御殿山英国公使館焼き討ち
文久三(1863)年3月横 浜F.ベアト来日。横浜居留地で開業
麻布一之橋清河八郎暗殺される
麻布善福寺アメリカ公使館が襲撃され焼失、公使館は一時横浜に移転
土 佐山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出す
京 都幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束
5月下 関長州藩、下関で外国商船を砲撃
7月江 戸F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影
薩 摩薩英戦争
9月井土ヶ谷井土ヶ谷でフランス人士官暗殺
元治元(1864)年4月エジプトA.ベアト「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」を撮影
10月鎌 倉鶴岡八幡宮でイギリス軍人ボールドウィン少佐・バード中尉が暗殺される
8月F.ベアト4カ国艦隊の下関砲撃に従軍
11月F.ベアト鎌倉江ノ島を撮影旅行
慶応三(1867)年7月長 崎長崎でイギリス人水夫二名暗殺
8月富士山F.ベアト、オランダ総領事と富士登山撮影
慶応四(1868)年1月神 戸神戸事件で外国兵負傷
2月堺事件でフランス兵殺傷
明治四(1871)年6月韓 国F.ベアトアメリカの朝鮮遠征隊に従軍
明治一七(1884)年11月横浜F.ベアト日本を離れる







③SATUMA’S PLACE-EDO
来日直後の1863(文久三)年7月、ベアトはスイス外交団団長で友人のエメェ・アンベール(Aime Humbert)の助力により外交団の臨時随行員となり、当時は外交使節しか許可されない江戸の町に入っています。スイス外交団は同年5月28日オランダ軍艦「メデューサ」で江戸に上陸し伊皿子長応寺に入りますが、将軍不在の江戸では攘夷の嵐が吹き荒れ、オランダ公使館も襲撃対象となっている事を外国奉行村垣範正から告げられ江戸退去を勧められました。しかし、アンベールは公文書による通達以外は応じられないとして勧告を拒否します。すると幕府側から6/2、6/4の2度にわたり公式の通告文書が発行されたので6/8やむを得ず外交団は幕府軍艦エンペラー(蟠竜丸) で横浜に戻ります。この時には生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランスは横浜に軍隊を上陸させるなど事態は一触即発となりました。この事態が緩和されたのは幕府が英国に44万ドルの賠償金の支払いを決定する6/24であったそうです。

この短い江戸滞在中に写されたのが下に掲載した写真です。これらの中でも③写真の原題は「SATUMA’S PLACE-EDO」であることから現在の品川駅前石榴坂にあった薩摩藩邸(後年勝海舟・西郷隆盛会談が行われた藩邸)を写したものとされてきましたが、港区立港郷土資料館学芸員の松本健氏の調査で、この場所は現在三田2丁目の「綱坂」であることが確かめられました。よって写真右手坂下は現在慶應大学となっている敷地で同じく右手坂上はイタリア大使館、坂の左手は三井倶楽部となっている場所です。同地は江戸期には右手坂下は備前島原藩松平家中屋敷、坂上は松山藩松平家中屋敷、左手は陸奥会津藩松平家下屋敷・日向佐土原藩の島津淡路守の屋敷となっていて、写真の題はこの佐土原藩からとったものと思われます。

現在の同所(綱坂)
この画像の撮影について一行の団長であるエメェ・アンベールは「絵で見る幕末日本」の中で、
~我々は貴族の家がある地域に入っていった。右側には、薩摩公所有の公園が美しい影を落としており、左側は播磨公の屋敷の塀になっていた。その角を曲がると、建物の正面に出た。

ベアトがこれを撮影しようとすると、突然、二名の将校が飛び出して来て、すぐ撮影を中止するよう要求した。メトマン氏が、彼らに、彼らの主人がほんとうにそのようなことを欲しているのかどうか、聞いてみてくれと頼んだ。将校たちはこの要求を入れて、数分後に戻って来て、「自分の屋敷の撮影は、一切許せない」と伝えた。ベアトは、丁寧にお辞儀をして写真機をしまうと、将校たちは、彼の留守中に、すでに二枚撮っていることに気づかず、満足そうに立ち去っていった。

この場の目撃者である警備の役人たちは、メトマン氏の狡猾な成功に親しい賞賛の言葉を送った。 しかし、タイクンの城や墓地を撮影することには、断固反対した。この反対には、われわれも手の下しようがなかった。~


④The Arima Sama....Yedo
と記しており、写真は主人の返答待ちをしている間に隠し撮りされた様子が克明に描かれています。「絵で見る幕末日本」にはその後一行が、中の橋~赤羽橋~増上寺~浜御殿(現在の浜離宮)~愛宕へと進んでゆく様子が記されていますが④はその過程で撮影されたものと思われます。


④は原題「The Arima Sama....Yedo」とされる画像で、現在の三田小山町付近、左手が筑後久留米藩有馬家上屋敷、中央の森が天祖神社(元神明宮)、左が筑前秋月藩黒
田家上屋敷が写されています。画像には道の中央に3人の立ちはだかるような武士と黒田家門にも一人の武士が写されていますが、拡大するとさらに奥の天祖神社の階段で凝視する武士、社の石垣からこちらに向かう武士が二人写されているのがわかります。これらの武士からは殺気とも思える緊張感が伝わってきますが、これはこの写真が撮られた文久三(1863)年前後には攘夷事件が頻発し、同年屋敷付近では清河八

郎暗殺、善福寺襲撃などが行われ、さらに直前には幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束する一方、幕府は各藩の攘夷実行を幕府忠誠の踏み絵として見ており、また諸外国の動向も生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランス
現在の同所(元神明宮)
は横浜に軍隊を上陸させるなどの時期で、翻弄される諸藩は大混乱の渦中にあるという非常に緊張した時期であったためと思われます。

これらの画像の他にもベアトは庶民の生活を写した画像を多く残していますが、情景写真は港区内だけでも増上寺、溜池、浜御殿、愛宕などを撮影し、さらに多くの江戸市中も撮影しています。そしてこれらの写真は商業写真であると共に当時の状況から考えると、江戸市中を正確に写し取った「情報活動的」な要素も多分に含まれると見るべきだと思われます。

余談ですが、フェリックス・ベアトが日本で活躍していた文久四(1864)年、エジプトで一枚の写真が撮られます。この写真は日本の武士がスフィンクスの前で記念撮影をするという奇妙なものでタイトルは「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」、写真には撮影者「A.Beato」のクレジットが記されています。 

エジプトの日本使節団 A.Beato撮影
この写真は当初下関砲撃に従軍した後のフェリックス・ベアトが撮影したものかとも思われましたが、「A.Beato」がフェリックス・ベアトかどうかは不明でした。 しかしこの疑問はフランスの「モニトゥール・ド・ラ・フォトグフィ」1886年6月1日号に掲載された記事により判明したといいます。写真の撮影者はフェリックスの兄で同じく報道写真を手がけていたアントニオ・ベアトで、池田筑後守長発を団長とする第二次使節団(横浜鎖港談判使節団) がエジプトを訪問した祭に撮影されたものであることがわか、ベアトは兄弟で写真家であったことがわかりました。











①古川橋辺から三の橋方面
②麻布山善福寺

















⑤赤羽橋有馬藩邸
⑥光林寺ヒュースケン墓所














⑦高輪東禅寺

④部分拡大























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