2014年11月12日水曜日

続・桜田町にすぎたるもの(絵図に描かれた桜田町の半鐘)

「麻布広尾辺絵図」中央部
以前Blogで「桜田町にすぎたるもの」というタイトルで麻布桜田町にあった町持ちの簡易な「半鐘(高梯子)」と久留米藩有馬家上屋敷(現在の三田国際ビル・都立三田高校・国際福祉大学三田病院などを含む旧赤羽町域)の藩邸内に設置されていた「火の見櫓」とについてお知らせしました。

この「火の見櫓(久留米藩は大名火消し)」は江戸で一番高い櫓でランドマークとして多くの浮世絵などに描かれています。しかし、もしかしたらその有名な火の見櫓よりも、麻布桜田町など高台の尾根に設置されていた町内持ちの簡易的な火の見用の高梯子・半鐘の方がもともと設置されている標高が高いためよく鳴り響いたのでは?という素朴な疑問を調べてみました。
しかし実際桜田町の高梯子がどこに設置されていたのかは不明のままでした。しかし最近その桜田町の半鐘を描き込んだ地図を見つけたので、ご紹介します。

地図は「集約江戸図」という図集の中の「麻布広尾辺絵図」という地図で嘉永二(1849)年に作製された物で、地図上櫻田神社と境内にあった別当寺の観明院が描かれている前あたり、玄碩坂(げんせきざか:現在のけやき坂付近)を登り切ったあたりに「高梯子」と「半鐘」が描かれています。


絵図「半鐘」部分拡大
本当に梯子の上部に半鐘が付いただけの簡単なものですが、この鐘が桜田町の人々に火事を知らせ、命を守ってきたのだと思われます。
また、同様に一本松付近の大黒坂上に設置されていた明治初期のものと思われる半鐘の画像が見つかりました。
桜田町の半鐘も一本松の半鐘も共に標高30mほどの尾根にたてられており、5mの梯子に半鐘が設置されていたとしても35mの位置から打ち鳴らすこととなり、谷底の麻布十番や日ヶ窪までよく鳴り響いたことが想像されます。

この地図は麻布の中央部がかなり詳細に描かれており、よく鳴り響きそうな半鐘は他にも多くありそうですが、実際に「半鐘」が描かれているのはこの桜田町のものだけです。この桜田町の半鐘については麻布区史桜田町の項に、

「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」
 

と記載されていることからも、当時から有名な半鐘であったことが伺えます。





現在の同所付近
一本松脇の高梯子と半鐘(明治初期)























★この絵図に描かれたその他の特記事項は下記。









  1. 玄碩坂
  2.  櫻田神社・別当:天台宗観明院
  3.  大横町坂(富士見坂)
  4.  湯長谷藩内藤稲葉守上屋敷(超高速参勤交代の舞台)
  5.  阿部播磨守(沖田総司の父がこの屋敷に仕官していた)
  6.  専称寺(沖田総司墓所)
  7.  ごみ坂(紺屋坂)
  8.  長府(長門府中)藩毛利家上屋敷(赤穂浪士切腹・・・乃木希典誕生地・・・ニッカ東京工場跡・・・ニッカ池・・・六本木ヒルズ)
  9.  小見川藩内田豊後守上屋敷(通称:内田山・現南山小学校・六本木高校・井上馨邸)
  10. 増上寺隠居所(歴代増上寺監寺の隠居所・麻布氷川神社元地)
  11. 暗闇坂(明治期の地図には「幽霊坂」とある)
  12. 宗英屋敷・貞喜屋敷(宗英は将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。貞喜屋敷は西の丸表坊主早野貞喜の拝領屋敷)
  13. 鳥居坂
  14. 麻布十番商店街
  15. 朝日稲荷神社(現・六本木朝日神社:別当は麻布氷川神社境内の徳乗院だが専称寺とも関
  16. 芋洗坂






有馬家火の見櫓を模した中ノ橋欄干
解体中の有馬家火の見櫓(実物)












桜田町高梯子から見た東方面の風景
(場所:けやき坂上 標高:地面標高31m+梯子7m=38m)
※標高は1.5倍増に設定











2014年8月21日木曜日

村岡花子の通勤路

大正14年市電路線図
今回は今週から放送されている「花子とアン」において愛宕山のJOAK(NHK東京放送局)で村岡花子が「コドモの新聞」アナウンサーになってゆく姿が描かれていますが、芝区愛宕山までどのような交通手段で通勤していたのだろうという素朴な疑問がわきました。

少し調べてみると、村岡花子の自宅は大田区春日橋(環七・池上通り交差点)付近(現大田区中央三丁目)でしたので、愛宕山のNHK東京放送局へ行くには、下記の方法が考えられます。

★JOAK(NHK東京放送局)がある芝区愛宕山への出勤
  1. 大森駅→(JR)→浜松町駅→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  2. 大森駅→(JR)→品川駅→(市電系3統)→神谷町or西久保巴町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  3. 学校裏駅(現平和島駅)→(京浜線:現京浜急行)→北品川駅→(市電系3統)→神谷町or西久保巴町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
  4. 大森駅→(JR)→田町→(徒歩)→三田→(市電系37統)御成門or愛宕町→(徒歩)→愛宕山NHK東京放送局
昭和30年代の都電路線図
この中で可能性が高い通勤路は2or3or4となり、やや徒歩距離が長い①は除外しても良いと思われます。
しかし放送は毎週日曜日でしかもアナウンサーは村岡花子と東京中央放送局児童課の職員であった関屋五十二が各週で交代したため花子の通勤は打ち合わせなどを入れてもさほど多い出勤ではなかったと思われます。
私自身が若い頃この春日橋付近に住んだ経験があり、そのとき私自身も通勤には京浜急行平和島駅ではなく、少し距離は遠くなりますがJR大森駅を使用していましたので、花子も同様に②の経路を使用していたのではないかと私見ながら想像しています。
また花子が働いていた出版社「聡文堂」はドラマ上の名称で「日本基督教興文協会」が本当の名称です。そして震災後「教文館」と合併し現在に至ります。ドラマ上では花子と?三が結婚したのは1919(大正8)年ですが、結婚後も花子が教文館での勤務を続けたのならば、やはり大田区春日橋から銀座への出勤となり、下記の通勤路で通勤したものと思われますが、
最短距離で、運賃も安い1がもっともあり得る通勤方法だったと思われます。

  ●教文館オフィシャルサイト
     http://www.kyobunkwan.co.jp/



★日本基督教興文協会(後の教文館)がある銀座への出勤(毎日?)
  1. 大森駅→(JR)→有楽町駅→(徒歩)→日本基督教興文協会(後の教文館) 
  2. 大森駅→(JR)→品川駅→(市電系1統)→銀座四or銀座二→(徒歩)→日本基督教興文協会(後の教文館)


以上、村岡花子の通勤をシミュレーションしてみましたが、この権に関しては私DEEP AZABUの想像と勝手な解釈であることをお断りしておきます。





村岡花子宅周辺









2014年8月15日金曜日

超高速参勤交代の麻布

文化江戸図
この夏に公開された映画「超高速参勤交代」は、八代将軍吉宗の時代に磐城国の小藩湯長谷藩が所持する金山を奪おうと、藩の取りつぶしを図る老中・松平信祝(大河内松平家で知恵伊豆と呼ばれた松平信綱の末裔)の計略により、江戸在勤を終え国元に帰ったばかりの湯長谷藩主内藤政醇に再び江戸参府の命が下り、なんと5日以内に 参勤交代を命じられる。という筋のフィクションです。  
実際の映画では終盤江戸入りをした藩主一行がたどり着いたのが政醇の妹「琴姫」が留守を預かる江戸藩邸でした。残念ながら屋敷の描写はほんのわずかですが、おそらく一行がたどり着いたのは麻布桜田町の上屋敷かと思われます。
また下屋敷であったとしても、その場所は曹渓寺隣りなので同じ麻布内ということになります。
史実ではこの小藩は立藩以来内磐城の地(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町)を拝領したまま、幕末を迎えるまで一度も領地替えがありませんでした。





この藩の立藩当時の様子は以前、「増上寺刃傷事件」でもお伝えしましたが、初代湯長谷藩主の父である磐城平藩7万石の2代藩主内藤忠興が新田分地により
東都麻布之繪圖(上屋敷付近)
新たに生まれた領地を二男の内藤政亮に分地することを願い出て、寛文十年(1670)年2月、忠興が隠居するにあたって幕府から許可が下りて磐城湯長谷藩
一万石が成立します。この時内藤政亮は本家の内藤家に憚って遠山姓を名乗り(第3代藩主・政貞の代になって内藤姓に復帰します)遠山政亮となります。  




この遠山政亮は、延宝八(1680)年芝増上寺で執り行われた四代将軍徳川家綱の法要式典で、内藤和泉守忠勝が永井信濃守尚長を刺殺する。  
という事件が起こった時に、刀を持ったままの内藤和泉守忠勝を後ろから取り押さえました。政亮はこの功績により幕府により二千石を加増され、さらに大阪定番職となり三千石を加増されて湯長谷藩は 一万五千石となります。この取り押さえは後の元禄十四(1701)年3月14日に起こった浅野内匠頭による刃傷事件の際に浅野内匠頭を後ろから取り押さえた 梶川頼照(通称:惣兵衛)とほぼ同じ役割となります。この事件で幕府により五百石の加増を受けた梶川頼照は以前の所領と合わせて 合計千二百石となりました。  
東都麻布之繪圖(下屋敷付近)




積年の恨みとも、上屋敷が隣接していたための争いともいわれるこの増上寺刃傷事件ですが、湯長谷藩にとっては幸運であったのかもしれません。  
この湯長谷藩の江戸における藩邸として上屋敷は桜田町(現在の港区西麻布3丁目辺)に、下屋敷は古川町(現在の南麻布2丁目辺)にあったようですが、立藩以来同じ場所にあったと思われる両屋敷のうち
下屋敷については安政四(1857)年作成された「東都麻布之図」などには記載がなく、同じ場所には別の家名が書かれています。 
しかし、「東都麻布之図」からわずか3年後の万延江戸図「万延元(1860)年」には曹渓寺に隣接するあたりにこの長谷藩下屋敷が描かれています。
また、これらより古い地図にも湯長谷藩の下屋敷が同所に散見されることから何故一時期のみ地図に記載がないのかは謎のままです。  
いづれにせよ映画の中の終着点はおそらく麻布桜田町の上屋敷であると思われ、参勤交代の行列は福島県いわき市から江戸府内麻布桜田町までの行程となりその距離は
萬延江戸図
短期間で二度も行うには労力も費用も頭痛のタネであったことがフィクションながら想像されます。


余談となりますが、この湯長谷藩邸が書き込まれている万延江戸図が描かれた万延元(1860)年は、麻布においても一般的な歴史事項についても興味深い事件などが頻発している年でもあります。


















































現在の麻布中央部












現在の上屋敷付近














現在の下屋敷付近


























1860年(安政7年・万延元年)
西 暦 元 号 月 日
事   象
1860年 安政七年 01/07 米国船ポーハタン号が品川港に入る。
01/19 木村摂津守、勝麟太郎、福沢諭吉などが乗船する咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出港。
01/22 遣米使節新見正興一行が浦賀を出帆(鎖国以来初めて公然の外交使節)
01/29 イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺






03/03 桜田門外の変により大老井伊直弼が暗殺される。
万延元年 03/18 安政から万延と改元。
09/28 明治天皇立太子の御儀行われる。
12/05 「米国書記官ヒュースケンが麻布中の橋にて攘夷派浪士に襲われ、夜半過ぎに死亡。-ヒュースケン事件
12/08 ヒュースケンの葬列がプロセイン海兵隊が厳重警備する中、
麻布山善福寺から光林寺まで進み葬儀が執り行われた。
12/16 英仏両公使、ヒュースケン殺害事件に憤慨し公使館を横浜に移転するも
アメリカ公使館ハリスのみは横浜に引き上げず麻布山善福寺にそのまま滞在。

























★関連事項
Blog DEEP AZABU-増上寺刃傷事件

Blog DEEP AZABU-麻布桜田町

超高速参勤交代オフィシャルサイト

Wikipwdia-超高速参勤交代

Wikipwdia-湯長谷藩




























2014年4月9日水曜日

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布


前回 「花子とアン」の麻布をお伝えしましたが、今回はその話の原作とされている「アンのゆりかご」に描かれた麻布をご紹介します。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」のシナリオの元となる原作「アンのゆりかご」は村岡花子の孫である村岡恵理が表した祖母の伝記です。
これにより、ドラマよりも細かく村岡花子の生涯が描かれています。

まず目に付くのは、ドラマでは花子が10歳の時に甲府から上京して、いきなり東洋英和女学校(ドラマでは修和女学校)に編入学することになっています。しかし、「アンのゆりかご」では、5歳で一家そろって上京し、現在の南品川(京浜急行青物横丁付近)に居を構え、葉茶屋(茶葉の販売店)をはじめたとしています。
そしてその上京はドラマよりも厳しいものであったようで、「親戚とのしがらみに決別して」の上京と記していますが、残念ながらドラマのシナリオでは、品川在住の部分がすべて欠落しています。

さらに、ドラマでは花子が甲府在住時に大病により生死を彷徨ったことになっていますが、実際には花子が南品川に住んでいた7歳の年に起こったことのようです。
その際辞世の句を詠んだのはドラマと同じで、



          まだまだとおもいすごしおるうちに


               はや死のみちへむかうものなり



と詠んでいました。
そして病気が回復した後には、



      まなびやにかえりみればさくら花 

               今をさかりにさきほこるなり







と詠んだそうです。ここでいう「まなびや」とは上京の翌年に入学した城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)のことで、この小学校には花子が10歳(4年生)まで在籍することとなります。

やや話は前後しますが、この「アンのゆりかご」第一章では冒頭、

~明治36年(1903)春-、10歳になる花子は父に手を引かれ、麻布、鳥居坂の桜並木を歩いていた。~中略~花子たちの脇を、友禅の和装姿の貴婦人を乗せた人力車が通り過ぎて行く。長く連なる赤レンガの壁に囲まれるのは、華族や貴族と呼ばれる特権階級の屋敷である。久邇宮家、三条公美邸、実吉安純邸、明治維新の立役者である大鳥圭介邸、韓国皇太子が暮らす李王家など、貧しい平民の花子にとっては雲の上の人々が暮らす一帯は、近寄りがたい威厳をたたえていた。~(アンのゆりかごP32)

っと、当時の麻布の様子を描いています。この花子が父に手を引かれて歩いた桜並木の先には、もしかしたら当時麻布でも江戸期からの有数の銘木として知られ、太田蜀山人にも、

      永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦

と詠まれた「岡の桜」(現在の麻布総合あたりにあった)も含まれていたのかもしれません。

1903(明治36)年、10歳の花子は東洋英和女学校へ給費生として編入学することとなり、東洋英和女学校寄宿舎での生活が始まります。つまり、この年から20歳で高等科を卒業する1913(大正2)年までの10年間、花子は麻布に居住していたこととなります。

また、この東洋英和への編入学には父の強い希望により実現したのもドラマと同じですが、その背景に品川に暮らしていた家族の犠牲という悲しい側面も持ち合わせていたようです。家族の生活は上京後にさらに困窮を深め、8人兄弟のうち、長女の花子以外の子供は次女と三女の外は全員養子などより親元を離れることとなります。

さらに、東洋英和での生活は苦労の連続であったことが記されていますが、ドラマでブラックバーン校長として登場するの第三代東洋英和女学校校長のブラックモアは校長を4度も務めた方のようで、その写真が「アンのゆりかご」に掲載されています。特に67ページに掲載された、

「明治中期、カナダ・メソジスト協会本部から東洋英和女学校に派遣されてきた婦人宣教師団」

というタイトルのつけられた写真の中で、ブラックモア校長が最後列に写されています。そしてこの写真の中央部には第2代校長のMrs.ラージが写されています。このMrs.ラージは、以前お伝えした東洋英和女学校寄宿舎で起こった強盗殺人事件で夫を殺害され、自身も指を2本失うという重傷を負うこととなる女性です。この事件により重傷を負ったMrs.ラージが帰国するにあたって校長職を継いだのがブラックモアでした。

また同頁に掲載された写真は1900(明治33)年に女学校創立地の潮見坂坂下から現在の校地に移転したばかりの綺麗な校舎・寄宿舎がうつされており、さらに30年後にはヴォーリス設計による校舎へと変貌することとなります。

そして、「アンのゆりかご」は、給費生として寄宿生活をおくる花子たちの様子と、十番商店街の接点も描いています。

~入学して半年ほどたったある日、同室の上級生が放課後、花子を誘った。
「ご一緒にデザートを買いに行きましょう」寄宿舎に「デザート」を持ち込むことは許されており、それは寄宿生の大きな楽しみであった。~中略~鳥居坂を下り、麻布十番の商店街にある松源堂という和菓子屋に入ると、そこにはすこぶる大きな金つばが売られていた。~(アンのゆりかごP48)


「十番わかふるさと」大正期の地図
などどあり、当時の彼女たちの最大の楽しみが「甘味」であったことが記されています。
ちなみに、この「松源堂という和菓子屋」ですが、稲垣利吉氏の著書「十番わがふるさと」巻頭の「大震災前の(1923)麻布十番商店街」というタイトルの地図に「和菓子松玄堂」と記されているのが同店で、現在は麻布薬局(麻布十番1-8-9)となっている辺りだと思われます。



さらに「アンのゆりかご」第三章では1908(明治41)年~1913(大正2)年の動きとして「孤児院での奉仕活動」を取り上げています。

前回お伝えしたとおり、給費生として東洋英和女学校に編入学した花子には「孤児院での奉仕活動」が義務づけられていました。
そこで、時代的にも合致している永坂孤女院での奉仕活動と、開院時の集合写真に花子が写り込んでいる可能性を東洋英和女学院史料室に調査に訪問したのですが、この書籍では花子がその永坂孤女院で奉仕活動をした可能性を完全に肯定しています。
当時の寄宿生は隣接する麻布教会(現在の鳥居坂教会)での日曜学校と聖日礼拝に出席することが義務づけられ、さらに書籍はこのように記しています。

~午前中、麻布教会の礼拝に出席する前に、花子たち数名の給費生は給費生の必修として、東洋英和女学校が運営している孤児院「永坂孤女院」の日曜学校に教師として出向いた。~」(アンのゆりかごP71)


そして岩崎きみちゃん(文中では佐野きみ)が同時期に孤女院にいたことも記されており、書籍には、

当時日曜学校の教師として孤女院に赴いていた花子が、自分の読書経験を生かし、身寄りのない孤児たちに、物語を語り聞かせていた。(アンのゆりかごP72)


と記してきみちゃんと、その孤児院で行われていた日曜学校の先生である花子の面識をほのめかしています。ちなみに当時この日曜学校は麻布中学を創立した江原素六が校長を務めていました。よってこの書籍にはありませんが、おそらく江原素六と花子に面識があったと考えるのが妥当かではないかと思われます。

これまで「花子とアン」と麻布の関係、そしてその原作となる「アンのゆりかご」における麻布との関係をご紹介してきましたが、ドラマの方は麻布での寄宿生活が始まったばかり。今後の展開も楽しみですが、ドラマのシナリオと原作との違いなども確認しつつ、ドラマをより一層楽しむために是非「アンのゆりかご」のご一読をお勧め致します。









 




                    


アンのゆりかご 村岡理恵 著










★関連項目

「花子とアン」の麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん
















2014年3月31日月曜日

「花子とアン」の麻布


今日から始まるNHK連続テレビ小説「花子とアン」予告を見ていて、主人公村岡花子・旧姓:安中 はな(吉高由里子)が通うことになる女学校の名前と、友人となる「葉山蓮子(仲間幸恵)」の名前からおやぁ?という思いを抱いてしまいました。それはこの主人公の友人である葉山蓮子とは、柳原白蓮、そして通っていた女学校は東洋英和ではないかと思いました。
安中はなが上京後入学した
東京府荏原郡品川町立城南小学校。
ここから1903(明治36)年、東洋英和
女学校に編入学することとなります。
早速実在する赤毛のアンの翻訳者「村岡花子」を調べてみると、やはりドラマの主人公が通う女学校は東洋英和であり実際に柳原白蓮(ドラマでは葉山蓮子)と交友があったことがわかりました。

村岡花子(安中 はな)は1893(明治26)年甲府生まれで、やがてカナダメソジスト派の甲府教会で幼児洗礼をうけます。そしてドラマとは少し違いますがはなが5歳の年に家族で甲府から上京し、南品川に居住(現在の京浜急行青物横丁辺)して父親はそこで葉茶屋を開業します。そして7歳の時に大病をしたはなは、辞世の句を詠んだといわれています。(ドラマでは甲府で大病をしたことになっていますが、実際には南品川に住んでいた頃のことです。)
その時の辞世の句は、

まだまだとすごしおもいおるうちに、はや死のみちへむかうものなり

というものでした。

そして1903(明治36)年、10歳の時に東京府荏原郡品川町城南尋常小学校から麻布区東鳥居坂町東洋英和女学校へ編入することとなり、ここで出会ったのが柳原白蓮でした。

柳原白蓮(燁子あきこ)は柳原前光伯爵の妾腹の令嬢で1885(明治18)年10月15日生れということなので村岡花子より8歳年上となりますが、柳原白蓮が一度結婚し、離婚した後に東洋英和に入学した関係で村岡花子が柳原白蓮の上級生となっていたようです。

 10歳(16歳との説は誤りとのこと[東洋英和女学院資料室談])で東洋英和女学校に編入した村岡花子には孤児院での奉仕活動が義務付けられ、成績が悪いと即退学という給費生の待遇でしたが当時の東洋英和女学校は、予科(2年)本科(5年)高等科(3年)で、予科と本科の学生は学年で20名ほど。うち高等科まで進むのは6、7名だったそうです。8歳年上の下級生柳原白蓮は24歳でしたが、二人は親交を結び「花ちゃん」、「燁さま」と呼び合う仲であったそうです。また、二人が学んだ校舎は創立地である鳥居坂14番地から1900年に移転したばかりの校舎(現在地)であり、その校舎は後の1933(昭和8)年、西町インターナショナルスクール松方ハウス、明治学院礼拝堂、フレンズセンター、南部坂教会なども設計した建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計する校舎となります。余談ですが、ヴォーリスが東洋英和女学校の設計を依頼されていた校舎の工事中、麻布区役所(現在の麻布総合支所の場所ではなく、当時は麻布仲ノ町角にありました。)の移築を依頼されます。といってもその麻布区役所の建物は元々ヴォーリスの設計ではなかった(東京市営繕課設計とのこと)のですが、移築計画立案と移築後の再設計を依頼されたようです。ちなみにこの建築物は「日本獣医学校(現・日本獣医生命科学大学)」の校舎として現在も使用されています。

話を明治に戻すと、
1933(昭和8)年建築。ヴォーリス設計の雰囲気を残して
近年改築された現在の東洋英和女学院。校舎がこの地に
移転した4年後の1903(明治36)年に「安中はな」が編入
してきます。
「孤児院での奉仕活動義務」に関してもしかしたら?という根拠はありませんが、あくまでも想像としてのお話を紹介します。
それはこの東洋英和女学校が経営母体となっていた「永坂孤女院」についてのお話です。

ご承知の通りこの施設、永坂教会孤児院は、

1894(明治27)年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1904(明治37)年、麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。

とされていますので、安中はな(村岡花子)が学校からもほど近い一本松~本村町~長坂町(現在の十番稲荷神社の場所)と変遷を重ね、永坂孤女院となる施設で奉仕義務を果たしていたと考えるのは無理ではないと思われます。
もしそうだとすると、赤い靴のきみちゃんのモデルとなった「岩崎きみちゃん」とも会っている可能性があります。







同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
4年前芝新銭座から三田に移転した慶応義塾構内に演説館が開館。
赤坂溜池の埋め立て始まる。
三田四国町で清水誠がマッチ製造を開始する。
麻布区市兵衛町2丁目63番地で麻布小学校開校。
1876年明治 9年
麻布宮村町暗闇坂下で南山小学校が開校
芝内山(現・飯倉交差点付近)に海軍軍人の社交機関が設置され、のちに「水交社」となる。
1877年明治10年麻布市兵衛町に屋敷を構える静寛院宮(皇女和宮)が静養先の箱根で逝去。
品川~新橋間に無軌道馬車開通。
内務省が三田育種場を設置
西南戦争で西郷隆盛敗死。
10月学習院開校。
E.モ-スが大森貝塚を発見。
1878年明治11年飯倉小学校開校
1879年明治12年三田育種場興農競馬場が薩摩藩邸跡に設置される
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
芝公園で紅葉館が開業
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
麻布区による公共水道の「麻布水道」が完成する。
清原玉は夫となるラグ-サの故郷イタリア、シシリ-島パレルモのカトリック寺院でスカレニア公爵婦人の仲介で挙式をあげ、エレオノラ・ラグ-サと改名した。
江戸期の駒込栴檀林が麻布区日ヶ窪(現在の六本木ヒルズ)に校地を得て移転し、校名を曹洞宗大学林専門本校と改めた。これをもって駒沢大学の開校の記念日となる。
このころ麻布我善坊、三田綱町、白金今里町などで乳牛の飼育が行われる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
青山練兵場設置
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
高輪の伊藤博文邸で憲法の草案を討議
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立。
東京天文台が麻布飯倉町に設立される。
トーマス・グラバーが長崎から上京して「芝公園地53号」に屋敷を構える
1889年明治22年芝西応寺に樋口一葉が寄宿。2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
このころ 森元三座が盛況する。
1893年明治26年トーマス・グラバーの芝公園邸が火事により焼失。
6月山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。(0歳)
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
安中はな(村岡花子)が2歳で幼児洗礼を受けクリスチャンとなる。
Mrs.ラージがカナダに帰国。
南山小学校が暗闇坂下から現六本木高校の地に移転、後年藤棚校舎と呼ばれる
新橋~八ッ山間に馬車鉄道開通
1896年明治29年芝給水場完成
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1898年明治31年安中はな(村岡花子)の家族(夫婦と子供8人)が一家で上京し南品川に居住する。(5歳)
1899年明治32年4月安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校(現在の品川区立城南小学校)に入学する。(6歳)
4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
7月居留地制度が撤廃される。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
志賀直哉が父と共に麻布三河台町に転居。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる。
府立第3高等女学校(現都立駒場高校)が現六本木中学の地で創立。
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
本村小学校が創立
旧紀州藩主徳川頼倫邸(現港区立麻布小学校)内に「南葵文庫」が設立される。
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が城南尋常小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
新橋~八ッ山間に電車開通
三田の慶応グランドで第1回早慶戦野球。
1904年明治37年トーマス・グラバーが芝公園から麻布富士見町に移転する。
麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
2月日露戦争が勃発。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1905年明治38年日露戦争が米国仲裁によるポーツマス条約により講和
麻布日ヶ窪の曹洞宗大学林専門本校(後の駒沢大学)が曹洞宗大学と改称する。
古川の埋め立てが始まる。
芝丸山で古墳群が発見される。
1906年明治39年3月市電7系統広尾線(天現寺-青山1丁目)が開通
1907年明治40年笄小学校が創立
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
11月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 天現寺橋 - 四ノ橋間が開業
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 四ノ橋 - 一ノ橋間が開業
白金で聖心女学院開校
1909年明治42年6月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)一ノ橋 - 赤羽橋間開業
1911年明治44年8月市電六本木線御成門 - 麻布台町(六本木?)間開業
9月岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
12月市電古川線 (4・5・7・8・34系統) 赤羽橋 - 芝園橋間が開業
1912年明治45年6月市電六本木線 (3・8・33系統) 青山一丁目 - 六本木間開業
市電札の辻線(3・8系統) 飯倉一丁目 - 赤羽橋 - 札ノ辻が開業
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。(20歳)
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
曹洞宗大学(後の駒沢大学)が麻布日ヶ窪(現六本木ヒルズ)がら荏原郡駒沢村(世田谷区駒沢)の現在地に移転。
4月市電恵比寿線 (豊沢線、天現寺線とも) 天現寺橋 - 恵比寿(伊達跡)間開業
9月市電目黒線 (4・5系統)(古川橋) - 白金志田町 - 白金郡市境界(白金火薬庫前(上大崎))間開業
9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 古川橋 - 白金志田町(魚籃坂下)間開業
11月東町小学校が開校
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
2月市電目黒線 (4・5系統) 白金郡市境界(元白金火薬庫前) - 目黒駅前間開業
3月市電古川線 (4・5・7・8・34系統)芝園橋 - 金杉橋間開業
9月市電霞町線 (6系統)(麻布三河台) - 六本木 - 青山六丁目(南青山五丁目)間開業
北原白秋が十番に転居
1915年大正 4年5月市電六本木線 (3・8・33系統) 宇田川町(浜松町一丁目) - 御成門間開業
1917年大正 6年大倉集古館設立
田町の柳沢邸で坂田三吉、関根金次郎が対局。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
板垣退助の妻板垣絹子が広尾に順心女学校を創立
徳川頼貞侯爵邸(現港区立麻布小学校)内にヴォーリズ設計による「南葵楽堂」が設立。
1919年大正 8年9月市電伊皿子線 (4・5・7系統) 白金志田町(魚籃坂下) - 車町(泉岳寺前)間開業
麻布十番に末広座が開業
1920年大正 9年永井荷風が麻布市兵衛町に偏奇館を建てる。
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
6月市電天現寺橋線 (8・34系統系統) 渋谷 - 渋谷橋間開業
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
9月関東大震災
震災直後エノケンが十番商店街で炊き出し
1924年大正13年5月市電天現寺橋線 (8・34系統系統)渋谷橋 - 天現寺橋間開業
1925年大正14年6月市電霞町線 (6系統) 溜池 - 六本木間開業
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。

麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。



さらにこの時代、永坂孤女院に併設されていた「日曜学校」の校長は江原素六でした。
あくまでも想像ですが、安中はな(村岡花子)、岩崎きみちゃん、江原素六には面識があったのではないでしょうか?


詳細はこちらでご確認下さい。

Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908







話を本筋に戻すと....

柳原白蓮は後に大正昭和期の歌人となりますが一方では奔放な性格、そして大正三美人の1人でもありました。この柳原家の屋敷は現在の元麻布にある中国大使館の場所(約3300坪ほど。1922年に箱根土地に売却分譲。)にあったので、ドラマで主人公の村岡花子が下宿することになる屋敷はこの柳原邸がモデルとなっているようです。ちなみに柳原白蓮は南山小学校の卒業生でもあり、1892(明治25)年に南山小学校入学とありますから卒業は18期(明治30年)~20期(明治32年)頃と思われますが、残念ながら卒業名簿には「柳原白蓮」、「宮崎樺子」、「柳原燁子」名での記載はありませんでした。

(※白蓮は南山小学校入学後の1894(明治27)年、9歳で遠縁にあたる子爵・北小路随光の養女となり小学校も転校となったようですので当然南山を卒業はしていないことが解りました。)


少し時代はさかのぼりますが、村岡花子が東洋英和女学校に編入する二年前の1902(明治35)年
ある事件が14年ぶりに解決します。その事件とは.....。

明治23年(1890年)4月4日、東洋英和女学校に強盗が押し入り、校長であるラージ婦人が傷を負い、さらにその夫であるラージ氏が殺害されるという「ラージ殺人事件」が起きます。当時の東洋英和は、現在の場所とやや離れた潮見坂と於多福坂が合流する地点にあり、潮見坂上に男子校で後に麻布中学として独立することになる「東洋英和学校」がありました。

そして、この男子校には当時江原素六がいました。江原はその年の7月に行われる第一回衆議院選挙に立候補するために静岡から上京し、東洋英和学校幹事(教頭と事務長を兼ねたような役職)となっていました。ちなみに江原は静岡時代にカナダメソジスト派の宣教師として布教活動を行っていましたが、宣教師のままでは立候補できなかったので職業としてとしての「肩書き」を得るために東洋英和学校幹事就任を引き受けたようです。

一方校長夫ラージ氏殺害事件がなかなか解決しない影響から、寄宿生活をしていた学生を心配した親が引き取ることが増えて行きます。
そんな一人に「中野ワカ」という学生がおりました。中野ワカの父(イギリス人)は娘の東洋英和女学校での寄宿生活に危険を感じ、当時東洋英和からもほど近い芝公園に息子名義の屋敷(当時外国人の土地取得・借地は出来なかったため和名を持つ息子の倉場三郎名義で借地する)を持ち(現在の芝妙定院脇にある芝公園テニスコート辺)交友があったトーマス・グラバーに依頼してその屋敷に寄宿することとなります。そして後、グラバーの長男倉場富三郎の妻となります。

一方、村岡花子は1914(大正3)年に東洋英和女学校を卒業すると教師として山梨英和女学校に赴任し、その後東京銀座のクリスチャン系の出版社に勤務することになります。

この村岡花子が東洋英和女学校、柳原伯爵邸で過ごした(ドラマの設定上ですが)頃より少し前(明治中期~後期)のこのあたりは、著名外国人や元勲の屋敷が多くありました。

井上馨邸(国際文化会館→宮村町内田山)
・井上馨転居後同地に屋敷を構えた久邇宮家で生まれた昭和天皇后(香淳皇后)
・同志社設立資金を得るため井上馨鳥居坂邸を訪れた新島襄
北里柴三郎(麻布仲ノ町元麻布区役所前辺)
福沢捨次郎(福沢諭吉子息)(麻布仲ノ町、元の麻布区役所前辺)
高木兼寛(鳥居坂上脇)
柳原前光(現・中国大使館)

松方正義(三田[現・イタリア大使館の本邸]、仙台坂邸[現・韓国大使館]、
西町邸[現・西町インターナショナルスクール松方ハウス])
芳川顕正(宮村町内田山[現・南山小学校上部])
渡辺国武子爵邸(がま池)
ジョサイア・コンドル(麻布三河台町)
トーマス・グラバー(芝公園→麻布富士見町)



周辺地図
そして1889(明治22)年から亡くなる1903(明治36)年までの最晩年を過ごした楠本いね(シーボルトの娘)が東洋英和女学校からもほど近い飯倉片町辺を中心に数度の転居を繰り返し、亡くなったのは東洋英和女学校の母体であるカナダメソジスト教会(現在は東洋英和の一部となっている)のすぐ脇のあたりでした。
(このことから私は個人的に、最晩年の「楠本いね」はクリスチャンであった可能性が棄てきれないとの思いを持っています。)

さらに1908(明治41)年、東洋英和女学校とカナダメソジスト教会が永坂脇(現在の十番稲荷神社の地)に「永坂永坂孤女院」と日曜学校が設立します。
そしてこの日曜学校の校長は江原素六でした。江原は東洋英和学校(男子)から麻布中学を分離する際に東洋英和との関係を絶ったとの記述も多く見られますが、実際にはカナダメソジスト教会を通して東洋英和とのつながりを維持していたものと思われます。

この江原素六が校長をしていた日曜学校の写真が「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」というタイトルで東洋英和女学院の周年誌に載せられています。おそらく開設当時の記念写真だと思われますが、数人の大人と共にたくさんの少年少女が写されています。この中には当時この孤女院で生活をしていた「岩崎きみちゃん」(童謡赤い靴のモデルとなった女の子)が写されている可能性があり、また当時この日曜学校の校長であった江原素六が写っている可能性も(というか、当時は大変に貴重だったと思われる写真撮影に中心となる校長が写っていない方が不自然)

この写真を麻布高校、沼津の江原素六記念館に鑑定をお願いしましたが、残念ながら双方共に「江原素六が写っている確認は出来なかった」というものでした。私の目から見ると。
写真中央部一階奥に首だけ写っている彫りの深い外国人のような顔立ちの男性が江原素六に見えるのですが.....。

詳細はこちらでご確認下さい。

Blog DEEP AZABU-永坂孤女院1908



また、

「カナダメソジストミッションの教育活動-女子教育を中心として-」
という論文には、ラージ事件の様子を、

2 代目校長の Eliza Spencer
は男子校で教えていた Thomas A. Large 夫人となったがトロント市立高等中学をおえ
教員生活を送った気丈な女性で学校経営に手腕を示し任期中に大変な発展をみせた。しか
しその反面不幸な事件に見舞われた。 1890 年 4 月夫妻は夜間侵入してきたふたりの強盗に
深傷をおわされ夫君は即死,夫人もまた重傷を負った。ラージ殺害事件として喧伝され,
警視庁は犯人捜査のため 300 円の賞金をかけるなど異例の措置をとったが迷宮入りとなっ
た。多くの容疑者のなかには自称硯友社員柵山入こと堀本貞一もいた。真犯人は別件逮
捕で服役中のものの自白から 13 年後になってようやく判明したが Large 夫人はその間一
言の愚痴もこぼさなかった。一旦帰国後 1897 年万国婦人キリスト教矯風会から派遣されて
来日した。


赤毛のアン記念館・村岡花子文庫


と記しており、さらに村岡花子・について、
甲府市出身の村岡花子は山梨英和には入らず
東洋英和をえらび高等科を卒業した。童話作家, 翻訳家であると共にラジオの子供の時
間を担当して親しまれ, 戦後は居住地である大田区の教育委員として活躍した。翻訳も
Montgomery の一連のアン物語や Mark Twain のものばかりでなく,シカゴに米国最
初のセツルメント Hull House をたて婦人参政権運動や平和運動の指導者となりノーベ
ル平和賞を受けた Jane Addams の伝記なども手がけている。歌人として知られている
宮崎樺子(白蓮)が不幸な結婚に破れ,のち東洋英和に入学したのは大江スミのすすめに
よるものであった。ここで白蓮は上級生の村岡花子からあたたかく迎えられた(神崎清編
「現代婦人伝」)。白蓮は封建的家族制度の因襲を自から破った女性解放の実践者といえよ
う。戦後は夫君竜介と共に中国を訪問して国交回復の露払いの役を買って出たり,戦争で
長男を失ったことから発心し国際悲母の会を結成して,なくなるまで地域を中心に平和運
動をつづけたりした。
村岡花子が通った大森めぐみ教会

とあります。
いづれにせよ明治期の麻布中央部は居住者の豪華さからいろいろなネタが転がっています。
ここでお伝えした「ラージ殺人事件」については当所思っていた局所的な強盗事件という
見方でお伝えしましたが、当事者末裔の方による情報などを勘案すると、事件は国際情勢も
含めた当時の日本外交の姿勢を根本から揺るがすような事件としての広がりを見せ始めています。
具体的には迷宮入りしていた事件が13年後に解決するという不自然な展開と、その解決には
悲願である不平等条約改正をねらった日英同盟の締結という一見なんの関わりもないことが
もしかしかしたら関与していた可能性をも感じ取りました。そしてそれを推進していた人物は?
....井上馨が浮かび上がってきます。

詳細はいずれお知らせすることが出来ると思いますので、それまでしばらくお待ち下さい。
















★関連項目

続・「花子とアン」の麻布~「アンのゆりかご」に描かれた麻布

東洋英和ラージ殺人事件

東洋英和女学院オフィシャルサイト

赤毛のアン記念館・村岡花子文庫

大森めぐみ教会

永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん