2015年12月17日木曜日

続・徳川さんのクリスマス~徳川義親の麻布

麻布本村町生まれの荒潤三氏の著書「麻布本村町」の一項目である「徳川さんのクリスマス」を以前ご紹介しましたが、今回はその続編になります。

荒潤三氏は著書のなかで徳川義親邸(現フランス大使館)でのクリスマスパーティに呼ばれたのは1931(昭和6)年としています。もしこの年のパーティに出席していたのが事実ならば、徳川邸は翌年1932(昭和7)年の11月、目白に移転していますので、この潤三少年が参加した徳川邸のパーティは麻布屋敷での最後のパーティであったと思われます。

徳川義親は尾張徳川家第19代当主で、実父は越前松平家の松平春嶽の五男から尾張家に養子となりました。この殿様はトラ退治などで有名ですが、1931(昭和6)年に尾張徳川家の宝物を管理する団体「徳川黎明会(のちの徳川美術館)」を開設したため、戦後GHQの指令により財閥解体が行われた際にも尾張徳川家の宝物は散逸を免れたといわれています。

この義親公が麻布氷川神社の入り口石華表(鳥居)脇にある社名と社格が書かれた円柱(社号標といいます)を揮毫していることを知る人は少ないと思われます。残念ながらこの社号標に書かれた社格(郷社)はコンクリートで埋められてしまっていますが、これは全国的なもので1946(昭和21)年GHQにより社格制度が廃止されたため、麻布氷川神社と同様に社格の文字部分をセメントで埋めたり、さらにその部分だけ切断したものもあるそうです。






この社号標は表面に、

   郷社 氷川神社

裏面には、

麻布氷川神社
社号標(表)
侯爵 徳川義親 謹書

   昭和四年 七月

   奉建造 麻布区本村町会

とあります。




この社号標は偶然荒潤三少年がクリスマスパーティに参加する三年ほど前に建立ということになります。またこの社号標には不思議な部分もあり、実は徳川義親邸は本村町ではなく現在は麻布富士見町の町域です。これについて麻布氷川神社社家に問い合わせてみましたが、

「もしかしたら当時の富士見町・本村町の町域は現在とは違っていた可能性もあるのかもしれません。」

というお見解を頂きました。

この徳川義親公には「トラ退治の殿様」という風評意外にも事実として、昭和期にはどこの家にもあった北海道土産の「鮭をくわえた熊の木彫り人形」の原型をヨーロッパで購入し、北海道アイヌ人たちの収入源として販売を始めた先駆者でもあるといわれています。

麻布氷川神社
社号標(裏)
また義親公自身は音楽への造詣が深く、同じ徳川御三家である紀州徳川家屋敷(飯倉片町)の当主である徳川頼貞公が学習院中等科時代に友人たちと管弦楽団を編成した際に、自身はバイオリンを担当し、徳川義親公はコルネットを担当したと徳川宗秀が著書「徳川某重大事件」で語っています。徳川頼貞公は後にヴォーリズに設計を依頼した南葵楽堂とその地下に南葵文庫などを邸内敷地に設置することとなります。

また徳川義親公の麻布邸(現フランス大使館)のすぐ傍の旧トーマス・グラバー邸は徳川義親公の実の兄で松平春嶽の三男である松平慶民の所有となっており、兄弟が行き来したものと想像されます。

このように麻布での生活を楽しんだ徳川義親公ですが、当時屋敷の周辺にだんだんと宅地や工場が建ち並ぶようになり、その煙突の増えた景観を嫌った米子婦人の要望により1932(昭和7)年11月、それまで子爵の戸田康保が所有していた敷地を買い取り、目白への移転が完了します。
その際、麻布で使用していた屋敷も目白に移設され「日本館」として使用されることになります。
この日本館(麻布邸を移築日本家屋)の他に、徳川義親公の学友であり、上野東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)、日比谷第一生命館、銀座和光なども設計した建築家渡辺仁の設計によりイギリス中世のチューダー様式の本邸(西洋館)が建築されます。


その後、徳川義親公の居館として年月を重ねた西洋館ですが、1968(昭和43)年八ヶ岳高原に移築されることとなります。そして、八ヶ岳高原ヒュッテ(現八ヶ岳高原ロッジ)という名前の高原ホテルとして使用されその後、田宮二郎主演のテレビドラマ「高原へいらっしゃい」の舞台として使用されることになります。ちなみに2度目のドラマ化でもやはりこの建物が使用されていました。



目白で徳川義親が所有した敷地は現在も徳川ビレッジとして活用されており、そのサイトには多くの徳川義親邸の画像が紹介されており、わずかですが日本館かもしれないと想像される麻布邸移築家屋の画像も写り込んでいます。








八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
正面
八ヶ岳高原ロッジ(旧徳川義親邸)
裏側


































今年の10月読売新聞中部版2015.10/24付けの記事にあの徳川家康が武田信玄と戦った「三方原の戦い」敗戦後に自身の困惑した顔を描かせたとして有名な「しかみ像」は御三家筆頭の尾張家が所持しており、当主の徳川義親公が徳川美術館を設立した際にこの絵について述べたことが定説となり、現在も伝承されています。ところが事実は家康が書かせたものではないという学芸員の見解が述べられており「家康自身が戒めのために書かせた」という通説は徳川義親公のリップサービスであった可能性が高い...と報じています。



読売新聞-家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>


エキサイトニュース-徳川家康のあの有名な肖像画にハッタリ疑惑






徳川義親公が揮毫した社号標のある麻布氷川神社の隣に住んでいた田宮二郎が義親公の屋敷を使ってドラマ撮影に望んでいたのはまったくの偶然の一致ですが、何か不思議な縁を感じてしまいます。























1922(大正11)年の徳川義親麻布邸















2015年11月8日日曜日

麻布の三井家~広岡浅子の麻布

NHK連続テレビ小説「あさが来た」の主人公白岡あさ(実名:広岡浅子)の実家は京都の今井家となっていますが、実際は後に財閥となる三井家で、江戸期には「出水三井家」と呼ばれていました。そしてこの出水三井家は、明治になると京都から東京小石川に移ったことから小石川三井家と呼ばれるようになります。

この小石川三井家は「三井十一家」と呼ばれる中でも「本家」と呼ばれる六家のひとつで他に、「連家」とよばれる家系もありました。



・-明治以降の三井家-・

麻布今井町三井邸

★北家(惣領家:高利の長男高平の子孫。高平は初代八郎右衛門。以降代々八郎右衛門を襲名し当代は十二代永乗)


◆本家(高利の男系子孫)

・伊皿子家
・新町家
・室町家
・南家
・小石川家



◇連家

・松坂家(長女みねとその夫孝賢の子孫)
・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)
・五丁目家(北家8代目高福次男高尚の子孫)
・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)
・本村町家(小石川家7代目高喜次男高明の子孫)








伊皿子三井家跡地
 







本村町三井家跡地
 







一本松と一本松三井家跡(左手正面マンション)





永坂三井家跡地(フィリピン大使館)







三田綱町三井倶楽部
(元北家(惣領家)十代八郎右衛門・高棟の別邸)











麻布周辺の三井関連邸
家 格名 称所有者家 系所在地(地番)坪 数備    考
北 家
(惣領家)
今井町邸三井 高棟十代当主。十五代八郎右衛門。三井高福の八男。麻布区今井町42約13,500十代八郎右衛門本邸。庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」などを完備。1906(明治39)年完成。昭和20年空襲により焼失。
笄町邸三井 高公十一代当主。十六代八郎右衛門。高棟の次男麻布区笄町146,147・牛坂辺の港区西麻布4-13あたり。1952(昭和27)年建築。1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存。
宗 家
伊皿子家三井 元之助高利(※1)の次男高富の子孫芝区伊皿子町48~512,214.31三田台公園辺
連 家
本村町家三井 養之助小石川家7代目高喜次男高明の子孫麻布区本村町163~1712,281.22薬園坂辺
一本松家三井 高信伊皿子家6代目高生次男高信の子孫麻布一本松町17~19元麻布1-1-15辺(栄久山大法寺隣接地)
永坂町家三井 守之助高利の5男・安長の長女みちとその夫、高古の家系東鳥居坂町6,7-1945.34現フィリピン大使館敷地
その他
三田綱町別邸三井 高棟十代八郎右衛門高棟の別邸港区三田2-3-79,916.46高棟の別邸。ジョサイア・コンドル設計。現三井倶楽部。
材木町広岡邸広岡 恵三広岡(旧姓:一柳)恵三は広岡信五郎・浅子夫妻の長女「亀」の婿養子。ヴォーリズの妻となる一柳満喜子の実兄。麻布区材木町63広岡浅子終焉の地。享年71歳。1916(大正5)年ヴォーリズ設計。


※屋敷の所有者は創設時のものです。

※1三井 高利(みつい たかとし、元和8年(1622年) - 元禄7年5月6日(1694年5月29日))は、江戸時代の商人である。通称は八郎兵衛。三井家(のちの三井財閥)の基礎を築いた。三井中興の祖といわれる。(wikipediaより)





北家(惣領家)十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。
この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
そして戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂に麻布笄町邸を建設します。
この邸宅は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。

また広岡浅子の実家である小石川家七代当主となる養子の三井高喜は広岡浅子からみると26歳という歳の離れた義兄で、浅子に商売を伝授したといわれています。この高喜の次男である三井高明が三井の連家となる「本村町三井家」を興します。余談ですがこの広岡浅子の血筋に繋がる小石川三井家の末裔として日本テレビのプロデューサー井原高忠(ザ・ピーナッツ、とんねるずの名付け親で11PMのプロデューサー)がいます。

また、麻布周辺にあった三井家関連のお屋敷は本村町三井家の他に、北家(惣領家)、十代八郎右衛門(高棟)は1906(明治39)年、麻布今井町に大邸宅「麻布今井町邸」を建設し、この広大屋敷地を持つ屋敷では諸外国の要人や皇太子なども訪れ晩餐会などが行われていたそうです。
この麻布今井町邸は現在の赤坂氷川神社の正面にあるアメリカ大使館宿舎の位置とほぼ重なります。この屋敷は約1万3,500坪という広大な敷地に庭園・能舞台さらにテニスコートや後に国宝となる茶室「如庵」まで完備していました。しかし、残念ながら1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいます。

この高棟の三田綱町別邸は「三井倶楽部」として現存しています。
また、戦後に総領家当主となった高棟の息子十一代八郎右衛門(高公)は1952(昭和27)年麻布笄町牛坂(現在の若葉会幼稚園辺)に麻布笄町邸を建設し、後に現在の麻布税務署裏手に屋敷を移転ます。
この笄町邸は1996(平成8)年、東京小金井の江戸東京たてもの園に移築され現存しています。
また本村町三井家と同じ「連家」として、

・永坂町家(五男安長の長女みちとその夫高古の子孫)

・一本松家(伊皿子家6代目高生次男高信の子孫)

 そして伊皿子にも本家筋となる、

・伊皿子三井家

などが存在しました。







広岡浅子の実家三井家と麻布のつながりを紹介してきましたが、浅子の夫(ドラマの設定:白岡新次郎:主人の本名は広岡信五郎)婚家である加島屋(ドラマでは加野屋)は後に大同生命を創業し、浅子も創業者の一人となります。

そして1919(大正8)年1/14、腎臓炎のため臨終の浅子は麻布材木町の広岡邸で息を引き取りますが、この屋敷は現在の六本木西公園の裏手にあたり、明治期までは、三井家が所有していた敷地にありました。(麻布区材木町三五番地:港区六本木 7辺)

上記取消線部分は、調べ始めた当所浅子臨終の屋敷が「麻布材木町」とだけしかわからず、これを明治45(1912)年の地籍台帳で探すと三井合名会社所有の土地が材木町35番地にあったため、この土地で浅子が亡くなったものと勘違いしていました。しかし、さらに調べてみると浅子終焉の地は同じ材木町に中で63番地であったことがわかりました。これによりこのサイト記述も材木町63番地が広岡浅子終焉の地と書き直しましたが、一部分の文章が訂正されていませんでした。謹んでお詫び致します。
ちなみに明治45(1912)年当時の麻布材木町63番地の所有者は政治家・外交官であった鈴木充美ですが、広岡家との関係は不明です。

あまり女性が表に出ることの少なかった時代に経営者として銀行、生命保険などの起業に関係し、さらに女子大を作ったことでも知られている活発な女性の代名詞となりました。
浅子は「普段云っていることがすべて遺言」と遺言を残さなかったそうですが、東京・大阪の二度の葬儀に加え、創立に関与した日本女子大では1919(大正8)年6/28に盛大な追悼会が開催されたようです。

最後に、晩年まで女子教育に関係していた浅子は避暑のために建設した静岡県御殿場二岡の別荘に若い女性を集めて勉強会を開催しますが、その参加者の中には後の国会議員・市川房枝などと共に「花子とアン」の主人公、村岡花子も参加しており、この勉強会への参加が後の自分を決めたといっていたそうです。


◇余話として
麻布界隈でも東洋英和学院西町インターナショナルスクール明治学院大学チャペルなどを設計したウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子は、広岡浅子の女婿・広岡恵三の妹にあたります。華族の子女である満喜子と外国人であるヴォーリズとの結婚に際しては、華族と外国人の結婚に反対されますが、浅子は強力に二人の結婚の後押しをしたとされています。 
この二人が結婚したのは1919(大正8)年6月3日ですが、その半年前の1月14日麻布材木町六十三番地にあった夫となるヴォーリズが設計した広岡恵三別邸で、広岡浅子は息を引き取っています。おそらく二人の将来を安心した上での臨終だったと思われます。 



◆追記:浅子終焉屋敷の謎。

広岡浅子終焉の屋敷はヴォーリズ設計であったようです。そしてヴォーリズの建築作品リストによると、「K.廣岡邸」を依頼者とする設計が、二つあります。

  1. 1916(大正5)年 東京 K.廣岡邸
  2. 1929(昭和4)年 東京 K.廣岡邸

上記二つの屋敷の設計がありますが、浅子の臨終は1919(大正8)年1/14でしたので①の屋敷で亡くなったものと想像されます。

しかし、リストに掲載されている依頼主の「K.廣岡」とは誰なのでしょうか?

もしかしたら子供かと思い調べると、
広岡信五郎・浅子の間には、「亀子(カメ)」と名付けられた女の子がいました。
しかし.....実はこの他にも広岡信五郎と妾の間には四人の子供がいました。
この妾は女の子一人しか産めなかった浅子も願って迎えた妾のようでドラマ上では、浅子の姉はつのおつき女中で後に加島屋の女中となる「ふゆ」だとおもわれます。
実際の名前はムメ(小藤)と、ドラマ上の浅子のおつき女中ウメに近いのですが、事実は上記の通りだったようです。


◎広岡信五郎と妾ムメ(小藤)の子供

  • 長女:蔦子(ツタ)
  • 次女:極子(キワ)
  • 三女:秋子(アキ)
  • 長男:松三郎(まつざぶろう)
 
これら四人の中で「K」がつくのは浅子と信五郎の娘「亀子(カメ)」です。
しかし、もう少し調べると.....、
広岡信五郎は加島屋本家の次男で、分家の身分となります。
そこで浅子と結婚し、本家を補佐して行くことになるのですが、本家の兄が若死にしてしまい、信五郎の弟の正秋が加島屋本家を相続することとなり、信五郎と浅子はその正秋をもり立てて家業を補佐してゆくことになります。これ以降正秋は「九代目・加島屋(広岡)久右衛門・正秋」を名乗ります。
これらから、想像の域を超えませんが、おそらくヴォーリズが設計したこの材木町屋敷の持ち主は広岡信五郎の弟で本家を相続した「広岡久右衛門正秋」かとおもわれます。


◆追記2:浅子終焉屋敷の謎訂正

twitterで@ka9_asa_10さんという方から情報を頂きました。
@ka9_asa_10さんのプロフィールを拝見すると、

加久と広岡浅子
加久(かきゅう)とは大坂の豪商・加島屋久右衛門家。10年くらい前から興味を持ってちょこちょこ調べていたのが、加島屋や広岡浅子でした。 「あさが来た」を観ながら何かと呟きますが、研究者でもなければ物書きでもないので、大目にみてやってください ※個人アカウントです

とあり広岡久右衛門と広岡浅子について専門にお調べになっている方のようです。

この方からの情報をそのまま掲載させて頂きます。

 


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前

@DEEPAZABU ブログ大変興味深く拝見しました。後記の「K.廣岡」ですが「廣岡恵三(けいぞう)」、つまり浅子の娘婿で一柳満喜子の兄にあたる人です。大正当時は浅子の事業を引き継いで加島銀行頭取、大同生命社長に就いていました。
21:35 - 2015年11月9日 · 詳細


加久と広岡浅子 ‏@ka9_asa_10  7時間7時間前
加久と広岡浅子さんがリツイートしました deepazabu
それと余話にさらりと触れている西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。


と、私には知り得なかった貴重な情報をツイートして頂きました。これでおぼろげであった広岡浅子と終焉屋敷の持ち主「K.廣岡」の謎と一柳満喜子の関係が氷解しました。


よって下記のように訂正させて頂きます。

広岡浅子終焉屋敷の所有者「K.廣岡」が私の推測「広岡久右衛門正秋」ではなく、広岡信五郎・浅子夫妻の唯一の子供である長女「亀」の夫である「廣岡恵三」であり、さらにこの廣岡恵三は婿養子として広岡家に入っているようで養父は当然ですが広岡信五郎でした。

また廣岡恵三の養子入前の名は「一柳恵三」であり、子爵一柳末徳の次男でした。この一柳恵三の実妹が「余話として」でお伝えしたウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻となる一柳満喜子でした。
そしてヴォーリズは日本に帰化し、日本名は「一柳米来留(イチヤナギ・メレル)」とします。
後年ヴォーリズが設計した西町インターナショナルスクールの副教頭となるのが広岡浅子のお孫さんであるという流れが歴史と現在をぐっと引きつけてくれたような気がします。

@ka9_asa_10 さん、貴重な情報を誠にありがとうございました。








◆追記3(2016.01.14):西町インターナショナルスクールの副教頭と浅子の関係

前回@ka9_asa_10 さんから教えて頂いた、

西町インターナショナル(松方ハウスはヴォーリズ建築)、長らく副教頭を務めてらしたのは広岡浅子のお孫さんです。麻布つながり意外とあるなあ。

との情報が気になり、調べてみましたが情報がなかなか見つかりませんでした。そこで再び@ka9_asa_10 さんにご教授をお願いするとまもなくお返事を頂きました。
そして、これにより謎が一気に氷解しました。

西町インターナショナルスクールの広岡八重子さん(以下敬称略)は、1年生の教師、副教頭を25年間西町勤めていました。そしてスクールに「広岡八重子 基金」を創設し、これは現在も教師の研修制度の拡充をはかるために利用されています。
この広岡八重子は広岡浅子と広岡信五郎の唯一の娘「亀子」の二女で、浅子直系の孫になります。

これを家系図にまとめてみました。すると亀子と婿養子の広岡恵三夫婦は1902(明治35)年に長女を出産すると次々と年子を生むこととなり、その二番目の女の子が八重子となります。

また逸話として一柳恵三を婿養子に迎えた後、恵三の妹で後にヴォーリズ婦人となる一柳満喜子が実家を飛び出してしまった時にも、長い間兄恵三邸に滞在していたといわれています。

この亀子の義理の兄弟で母の浅子に等しく育てられた子供たちの一人に、ムメと信五郎の長男「広岡松三郎」がいます。
この松三郎の妻・貞子の弟の妻は、後年エリザベスサンダースホームを創立することとなる三菱財閥・岩崎弥太郎の長女・岩崎(澤田)美喜です。








文字が見にくいのでダウンロードしてご覧下さい。













また、正確な時代は不明ですが明治期と思われる広岡家が集合した写真(タイトル:家族写真)が残されており、乳児と幼児の女の子が写されています。女女の手を取っているのは広岡亀子、その前で乳児を膝に乗せているのは広岡恵三です。これらのうちどちらかが八重子である可能性(おそらく乳児)があり、興味をそそらせる写真となっています。

※この写真に写されたムメの子供・松三郎(後列右端)が中学生ほどの年齢に見えます。松三郎は1888(明治21)年生まれで、亀子の長女・多恵子が1902(明治35)年生まれで松三郎とは十四歳違い、二女の八重子(後の西町インターナショナルスクール副教頭)は多恵子の一歳下となり写真に写された乳児は二女の八重子の可能性が非常に高いと思われます。この写真の年齢は上記から推測すると、多恵子二歳ほど、八重子一歳未満、松三郎は十六歳位となります。これらから、この写真が撮られたのは1903(明治36)年or1904(明治37)年頃だと想像されます。

この写真が撮られたのが明治36年だと仮定すると、浅子は54歳で、二年前に開校した日本女子大学へ広岡信五郎名義で金五千五百円を寄付します。
そして翌年の明治37年、日清洗戦争が勃発する年に、8歳年上の夫・信五郎が64歳で亡くなります。そして浅子も経済界から引退し、後を実子亀子の婿養子である恵三に任せることになります。
もしかしたらこの写真は広岡信五郎・亀子ファミリーがそろって写された最後の写真となったのかもしれません。




家族写真






前列右から 亀子の婿養子・恵三と乳児(八重子?)、
広岡信五郎、浅子、信五郎とムメの娘で三女の極子(キワ)。
 
後列右から、信五郎とムメの長男・松三郎、
信五郎と浅子の娘で長女の亀子と幼女(多恵子?)、
信五郎とムメの娘で四女の秋子(アキ)、信五郎とムメの娘で
二女の蔦子(ツタ)、浅子の三井家からの腰元(お付き女中)で
後に信五郎の妾となったムメ(別名:小藤、信五郎との間に一男三女)。








上記画像から広岡恵三・亀子家族拡大。
















★20160125追記-広岡浅子の「死亡広告」


大正8(1919)年1/17付けの新聞に掲載された広岡浅子の「死亡広告」。








母浅子儀当地麻布区材木町別邸に於いて病気療養中の所養生相叶わず去十四日午後八時永眠致候間乍(ながら)略儀紙上を以て辱知の御方に御知せ申上候追て来る二十一日午後四時神田美土代(みとしろ)町青年会館に於て告別式を行ひ同夜東京駅発二十三日午後?時大阪市土佐堀青年会館に於て葬儀執行仕候猶(なお)御供花供物等は御辞退申上候

男 広岡 恵三

 広岡浅子と主人広岡信五郎の間に出来た
 唯一の実子「亀子」の婿養子。
 実家は男爵の一柳家。実の妹・満喜子は、
 西町インターナショナルスクール、
 飯倉片町・南葵楽堂、
 東洋英和女学院、伊皿子フレンズセンター、
 明治学院大学チャペル、広岡浅子が逝去した
 広岡家麻布材木町別邸などを設計した建築家
 ウィリアム・メレル・ボーリズの妻。

親戚総代

広岡久右衛門
 十代・加島屋久右衛門(正直?)。九代久右衛門正秋の
 実子郁子の婿養子。
 実父は旧鳥取藩士・三澤立身。正直は立身の六男。
      
三井高修
 浅子の実家、小石川三井家九代目当主。
 浅子の義兄三井高喜の孫。高喜は三井南家からの養子
であるため、浅子との血縁はやや薄い。

三井養之助
 浅子の実家、小石川三井家七代目
 高喜の次男で本村町三井家初代当主。

男爵 三井八郎右衛門(高公?)
 三井十一家の総帥。三井北家(総領家)十一代。
 戦前は麻布今井町、戦後は麻布笄町~麻布桜田町
 の邸宅に住んだ。明治以降終戦まで男爵。

子爵 一柳末徳
 広岡(一柳)恵三の実父。元・播磨小野藩十一代藩主。
 明治以降は子爵。芝区会議長、帝国博物館員、貴族院議員などを歴任。

























2015年9月26日土曜日

十番馬場

十番馬場の前身
芝新馬場
江戸時代、竹長稲荷裏手(現在の新一の橋交差点あたり)に「馬場」がありました。
この馬場は「十番馬場」とよばれ周辺の町人地は「十番馬場町」と命名されていました。
この馬場については、


◇十番馬場-麻布区史
~享保十四(1729)年九月には麻布十番馬場が開設された。この馬場は承応三(1654)年馬口労共より馬場地拝借方を願い出て芝新馬場に於いて長百五拾八間、横幅三拾間余並居屋敷共に拝領して、銘々に住居していたが、享保十四(1729)年八月十一日、その地御守殿用地に召し上げられ、代地を当地に賜ったのである。この地は延宝三(1675)年の金杉新堀開墾以来麻布十番と呼んだので、十番馬場と称した。~

~今の新網町一丁目の辺にあたる。この馬場は江戸初期から明治に近い頃まであった。承応三(1654)年、芝新馬場からこの所へ移してより世に響くに至った。
十番馬場
(※承応三(1654)年は馬場が芝に成立した年でこの記述は誤りと思われます。)

この所は、仙台駒の市場で十一月より十二月にかけて三回馬市がたてられた。~

◇十番馬場-御府内備考
十番は新堀の傍なり。この所に馬場あり。世に十番の馬場といふ。江戸志云、この地は元西応寺町のわきなり、むかしは馬市の立ちし所を浅草芝両所とさだむ。浅草は藪の内といふ所なり。南部駒の市場なり。芝はその所に御守殿たちしかば、かはりとしてこの地をたまへり。
是を仙台駒の市場といふ。十一月より十二月のうち三度の市あり、初見世、二日め三日めと唱ふとそ。
御馬工郎(馬喰)の家とて福田、河合、吉成、矢部などいふ七人ありとなり。又一説にこの地は長岡郡小沼興次兵、後藤半平、金子七十郎、川井次郎兵衛、川口彌太郎といふものうけ給り、永坂の名主次郎次郎左衛門支配せり。里人七人衆と唱ふ。そのむかしは十三人ありしと。かれら
現在の十番馬場跡
が先組は信濃の者にて、天正十八(1590)年関東御討入のころ江戸に来たりその頃より府中六所明神(大國魂神社)の、馬場にて諸国の馬仙台より来りて、毎年これをのり公に奉り、その後芝にて地をかし給いひ、馬場をも下されしが、後年竹姫君(綱吉・吉宗養女:浄岸院)松平(島津)薩摩守継豊の許へ御入輿あり。
御守殿も建史しかばかの屋敷のそへ地として下されしにより、馬場も今の地(十番馬場)にうつさるといふ。
毎年仙台馬をここにてえらべり。
この拝借地の中に享保十四(1729)年三月官許を得て町屋を開いたのが十番馬場町であって、その所には長岡久治郎、小沼正助、後藤甚四郎、金子篤太郎、河合栄三郎、河合次郎兵衛、川口喜重郎の七人の浪人が馬口労(馬喰)として九十一坪の至百六十三坪の宅地を拝借地として所持していた。この者共は元地(芝)新馬場に居た時は十五人であったが、追々武家方に召出され、十番に移った時は七人に減じたのである。

そしてこの十番馬場で乗馬用の「十番袴」が考案されることになります。
この十番袴とは、


★じゅうばん‐じたて〔ジフバン‐〕【十番仕立て】
乗馬に向くように、襠(まち)を高く、裾(すそ)を広く作った袴。
今日の男袴の源流。十番馬乗袴。十番。
[補説]江戸の麻布(あざぶ)十番に住んでいた
馬乗りが考案したからという。

出典:デジタル大辞泉

★十番馬乗り袴
【読み:じゅうばんうまのりばかま】

ふつう、「十番仕立て」という袴の仕立て方、また、それで仕立てた袴のことをいいます。
その語源は、江戸麻布十番に住んでいた馬乗りが用いたことから始まります。裃といわれる
肩衣袴は、袴の襠が下のほうにあって馬乗りには不便なところから、これを改良して襠高袴
につくって用い、しだいに普及していったといわれています。江戸時代中期末からの流行で、
これが今日の男袴の源流でもあります。

などとあり、今日の男性用袴の原型となっていることがわかります。

また、十番に移転する前の芝新馬場の場所は時代が下って明治になると、再び馬に関係する場所がすぐ近所に建設される事となります。
この芝新馬場の地で江戸期には薩摩藩邸であった場所に1879(明治12)年には、元薩摩藩邸敷地内に正式な競馬場である「三田育種場興農競馬場」が設置されることになり、この競馬場が皇室・貴族・外国人などしか入場が認められていなかったため、鹿鳴館外交の一端を担う場所となります。






 


三田育種場興農競馬場










★関連事項

三田育種場興農競馬場









2015年9月6日日曜日

麻布大番町奇談

度々お伝えしてきた「兎園小説」は滝沢(曲亭)馬琴の呼びかけにより、当時の文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談・都市伝説などを披露し合った「兎園会」で語られた話をあつめた随筆集で、1825年成立の本集一二巻のほかに外集・別集・拾遺・余録計九巻があります。
今回はこの兎園小説拾遺から「麻布大番町奇談」をお届けします。



大岡雲峯屋敷

文政十一年の三月中ごろ、大岡雲峯(画家・旗本)の屋敷に永く勤める老女がいました。その老女は名を「やち」といい、年齢は七十歳あまりですが誰も名を呼ぶ者はなく、ただ「婆々」と呼んでいました。婆々は親族も皆絶えて、引き取り養う者もなかったので、主人も哀れみずっと家にいることを許しました。

そして三月中ごろに、婆々は何の病気もないのに気絶し、呼吸も止まってしまいます。

そして...一時(2時間)ほどで息を吹き返しますが、その後体が不自由となります。しかし、食欲だけは増大し以前の十倍も食べるようになります。三度の食事以外にも食べていない時が無いほどで、死に近い年齢の婆々がここまで健啖(食欲旺盛、大食い)なのを怪しいと思わないものはいませんでした。

婆々は手足こそ不自由ですが、毎夜面白げな歌を唄い、そして友達が来たといっては大声で独り言などをいいました。あるいはまた、はやしたて、拍子をとる音なども聞こえる事もありました。あるいは、深酒で酔った後のように熟睡し、日が登るまで起きないこともありました。

このような状況に家の主人(大岡雲峯)も不審がり松本良輔という医者に診てもらうと、すでに脈がなかったそうです。少しあるのですが、脈ではないとの診察で、医者も「奇妙な病です。」と不思議がり、薬もも出しようがなく、老衰からの所行で脈が通じておらず、

「養生する以外に方法がなく時々様子を見に往診に来ます。」

と言うしかありませんでした。

そして月日が流れると、婆々の姿は肉がそげ落ちて、後には骨が露出して穴が開き、その穴の中から毛の生えたモノが見えるということで、介護の者が驚いて騒ぎだす事になりました。

文政十二(1829)年の春を迎える頃には、まだ婆々に息があるので湯あみをさせ、敷物を毎日交換するなど看病させると、婆々は喜んで感謝を繰りかえしました。
また、滋養の高い食事の世話をするため、主人は少女の介護人を婆々につけてやりました。
やがて再び冬になり婆々の着物を脱がせてみると、着物に狸のような毛が多数付いていることに気がつき、その臭気は鼻を覆わなければいられないほどで、人々はさらに怪しみます。


その後、狸が婆々の枕元を徘徊し、婆々の布団から尻尾を出すこともありました。このようなことが続いたので介護の少女はいたく恐れていましたが、主人の説得により次第に慣れて怖がらなくなってゆきました。そして毎夜婆々が唄う歌を聞き覚え、

「今夜は何を唄うのかしら?」

っと、笑顔で婆々の唄を待つようになります。

そして後には、婆々の寝ている部屋には多くの狸が集まり、鼓・笛太鼓・三味線などで囃子たてる音が聞こえ、婆々が声高に唄う声も聞こえてきました。また囃子に合わせて踊る足音が聞こえることもありました。

そしてある朝、婆々の枕元に柿が多く積み上げられていることもあり、その訳を婆々に尋ねると、

「これは昨夜の客が、私を大事にしてくれるお礼にこの家に持ってきたものなので、どうぞ召し上がって下さい。」

といわれます。しかし皆は怪しんで、誰も食べようとしませんでしたが、中を割ってみると普通の柿のようだったので、介護の少女にすべて与えました。

またある日には、切り餅がたくさん婆々の枕元に置いてあることもあり、これも狸からの贈り物に違いなく、獣(けもの)でも主人の情にに感謝しているに違いないと人々は噂しました。

ある夕べには火の玉が「手まり」のように婆々の枕元を跳びまわり、介護の少女が恐れながら見たところ、赤い光を発するまりで、手に取ることは出来ずにたちまち消え失せたということでした。翌朝婆々にそれを問うてみると、

「昨夜は女の客があり、まりをついた」

といいました。

別の夜には火の玉がはねるように上下していたので、婆々に問うと、羽根突きをしたとのことでした。またある日、歌を詠んだからと、紙筆を所望して書きつけました。

朝顔の 朝は色よく 咲きぬれど
          夕べは尽くる ものとこそしれ

婆々は読み書きが出来ませんし、唄など詠むような人ではないので、これも狸の仕業にちがいないと噂しました。さらに別の日、絵を描いてかいごの少女に与えたのを見てみると、蝙蝠に旭日を描いて、賛が添えられていました。

日にも身を
      ひそめつつしむ 蝙蝠(かわほり)の
                          よをつつがなく とびかよふなり

これもまた、いままで婆々は絵を描くことはなかったので、古狸の仕業に違いないと人々は言い合いました。

このように怪異を起こす婆々はさらにますますの大食いをして、毎食、飯を八九碗、その間には芳野団子五六本、その後まもなく金つば焼餅二三十個など、本当に日々大食いでしたが、それにより病気になる気配はまるでありませんでした。


ある晩、婆々の寝間で光明が照り輝き、紫の雲が起こります。三尊の阿弥陀仏が現れて、婆々の手を引きながら行くと見え、介護の小女は驚き怖れ、慌てて主人のところへかけます。

しかし、主人の雲峯と妻が駆けつけて見れば、婆々は熟睡しており、ほかに何者の姿もありませんでした。そして、文政十二年十一月二日の朝、雲峯の妻は夫に告げます。

「昨夜、年老いた狸が婆々の寝間から出て、座敷をあちこち歩き回り、戸の隙間から外へ出て行きました」




そこで婆々のところへ行ってみると、すでに婆々は息が絶えていました。これは、頓死した婆々の遺骸に、老狸がずっと憑いていたのでしょう。これは雲峯自身が話したのを、そのまま書き記したものです。




....ここでこの話は終わりますが、このあとに後記のような文が続いているので、こちらは原文のまま、お伝え致します。

    原文この下に、彼小女(介護の少女)の夢に古狸の見えて、金牌を与へし抔(杯)いふことあれど、そはうけられぬ事なれば、ここには省きたり。ここにしるすごとくにはあらねど、此狸の怪ありし事は、そら事ならずとある人いひけり。原文のくだくだしきを謄写の折、筆に任して文を易たる所あり。さればその事は一つももらさで、元のままにものせしなり。奇を好む者に為には、是も話柄の一つなるべし。



庚寅秋九月燈下借謄了。

※[庚寅とは文政13(1830)年の事]




◆追記


大番組屋敷が集っていた表大番町・裏大番町をあわせた「四谷大番町」が制定されます。

さらに、明治11(1878)年には千駄ヶ谷大番町を四谷区に編入し、同24年(1891年)四谷大番町に吸収され、そして昭和18(1943)年、四谷大番町と四谷右京町を併せ、一文字づつとって「大京町」が成立することになります。

この「兎園小説」を編集した滝沢馬琴は広義においてこの大番町を麻布と捉えていたのかもしれませんが、一方では兎園会で発表の際に、その発言者が地名を間違えていたのかもしれません。いづれにせよ、この兎園小説が書かれた文政期に、この地域が麻布であったという確証はとれませんでした。

















★関連項目


五嶋家門前の要石




寒山拾得の石像




東町の鷹石









2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2015年1月31日土曜日

赤穂浪士預け入れ大名邸考

いままで赤穂浪士関係の話をいくつかご紹介してきましたが、それらを調べる中でいつも疑問に思っていた事があります。
それは、江戸市中は広大な広さを持っているにもかかわらず、なぜ赤穂浪士が預けられた大名家は麻布、芝、三田、高輪などいわゆる港区域内の一部に集中していたのかという疑問です。
当所は漠然とした疑問で、お預け大名家の屋敷がたまたま集中していたからではないかと思っていました。

しかし、ある大名家を中心に考えてみるとその疑問が氷解します。
その大名家とは.....上杉家です。

広く知られているように赤穂事件当時の上杉家当主は綱憲で吉良上野介義央の実子の長男でした。またこの綱憲の次男は跡継ぎのいなくなった吉良家に入り、上野介の養子(血縁上は孫)となります。
これにより吉良邸討ち入りの報が入った上杉家では当主綱憲が激怒の上、追っ手を差し向けることが決まります。そして上屋敷には上杉家臣が集結したとされています。【上杉家上屋敷は現在の法務省庁舎あたり(千代田区霞が関1-1-1)】

しかし、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧による諫止、幕閣による命令により上杉家軍勢は動くことが出来ませんでした。
そして討ち入りを果たした赤穂浪士は十二月十五日(討ち入りは十四日深夜)早朝、泉岳寺へと引き上げます。
もし上杉家が事件を知らせる一報で動いていたのなら、この引き上げ時に江戸市中での戦闘となっていたと思われます。
泉岳寺への引き上げ途中の汐留あたりで吉田兼亮・富森正因の2名は本隊と分離して大目付仙石伯耆守邸(現在の虎ノ門ニッショーホール)に出頭して討ち入りを報告します。
本隊は泉岳寺に到着しますが、昼近くには幕府により赤穂浪士の引き取りを命ぜられた各大名家の家臣が、深夜の雪から気温が上がって豪雨に変わった泉岳寺に集結しはじめます。
その引き取り部隊の人数は、
















赤穂浪士お預け四家
家 名 藩 主 領 地 藩 邸 現 在 石 高 護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士 備 考
細 川 越中守綱利 肥後熊本 高輪下屋敷 高松中学 54万石 847人 17名 大石内蔵助 最厚遇
水 野 監物忠之 三河岡崎 芝中屋敷 慶應仲通り 5万石 153人 9名 間重次郎光興 細川家に続いて厚遇
毛 利 甲斐守綱元 長門長府 日ヶ窪上屋敷 六本木ヒルズ 6万石 200余人 10名 岡島八十右衛門 冷遇後改善
松 平 隠岐守定直 伊予松山 愛宕上屋敷 慈恵医大 15万石 304人 10名 堀部安兵衛 1泊のみ滞在
三田中屋敷 イタリア大使館








やや冷遇





となっており、引き取る人数に比べ異常とも思われる護衛人数となっています。これらはひとえに上杉家の襲撃を恐れたためと考えられ、もし赤穂浪士の自邸への輸送中に上杉家に奪われるか殺傷されてしまうと自家が取りつぶされてしまう可能性もあったためと推測できます。

そして十二月十五日夕刻、手違いにより泉岳寺に集結してしまった預け入れ大名家家臣と赤穂浪士は虎ノ門にある大目付仙石伯耆守邸(現虎ノ門ニッショーホール)へと向かうこととなります。この行程では沿道の大名各家は幕命により門を開いて護衛がかがり火を火を焚くことを命ぜられ明るくなった三田通りから飯倉四つ辻を通過してそのまま現在の櫻田通りを直進して仙石伯耆守邸へと向かいましたが、上杉家中屋敷があった(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)とは200mあまりしか離れておらず、まるで上杉家を挑発するような行程となっていました。

そして仙石邸で預け入れの沙汰を正式に聞いた赤穂浪士は深夜過ぎに分散して各家に向かいます。
この預けられた各大名家と上杉家中屋敷(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)、下屋敷(白金三光坂上現在の服部ハウス辺)は非常に近く、まるで上杉家を事件後も挑発し続けたような配置となっています。

引き取り部隊に最も多くの人数をあてた熊本藩細川家は下屋敷が泉岳寺のすぐ近くであるにもかかわらずたった17名を引き取るのに850名もの人数を出しています。これは熊本藩細川家下屋敷(現在の高輪総合支所、区立高松中学辺)と、上杉家下屋敷(現在の三光坂上服部ハウス辺)の直線距離は400mほどであったことが原因であると考えられます。また同様に上杉家中屋敷(現麻布郵便局、外務省資料館)と長府藩毛利家上屋敷(現六本木ヒルズ)間も680mほどの近距離であり、ともに上杉家の鼻先に獲物をぶら下げたような状態であったと考えられます。
個人的な見解ですが、これらは将軍綱吉とそのブレインの幕閣(主に柳沢吉保)による策略では無いかと思われ、まるで上杉家の目の前に赤穂浪士という生き餌をぶら下げるよう
な状態は預けられた十二月十五日から赤穂浪士が預け入れ大名邸で切腹する翌元禄16(1703)年二月四日までの二ヶ月弱続くこととなります。

この将軍とそのブレインによる計略は吉良上野介を隠居させて江戸城から遠い当時は僻地であった川向こうの本所に屋敷を与え、それにより赤穂浪士の討ち入りを許すこととなったという事例からすでに一度成功を収めているとも思われます。
そして、綱吉が将軍の間に取りつぶされた大名家は、以降幕末までの各将軍が取りつぶした大名家の合計より多とされています。

残念ながら上杉家は綱吉の計略?どうりに取りつぶすことは出来ませんでしたが、吉良家の血が入った吉良系上杉家は末期養子によるペナルティと、高家出身という地位から莫大な浪費に苦しむこととなり、しまいには商家も掛け売りをしなくなり、藩籍返上も考えていたとされています。そしてその瀕死の上杉家は後に九代当主となる上杉鷹山を高鍋藩(上屋敷は現麻布高校敷地)から迎え入れることとなります。

その他にも麻布周辺には赤穂浪士関係のポイントが多数あり、時代は一致しないものもありますが、

  • 先日まで使用されていた麻布図書館仮庁舎の場所には事件解決を先導したと思われる「出羽藩柳沢家」の屋敷。
  • 東麻布いーすと商店街付近にはて浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめた多門伝八郎屋敷。
  • 大黒天栄久山大法寺対面付近にあった吉良上野介義央麻布屋敷。
  • 有栖川公園にあった赤穂(常陸笠間)藩下屋敷(後に赤坂盛岡藩南部氏邸と相対替え)
  • 柳沢家家臣から綱吉顧問となり赤穂浪士切腹論首謀者となる荻生徂徠の墓(魚籃坂下長松寺)
  • 討ち入り後離脱したとされる寺坂吉右衛門本墓(泉岳寺は明治期に造られた供養墓)がある日東山曹渓寺(南麻布)

などがあります。

元禄赤穂事件ネタを時季外れと思われる1/31に書いているのは、討ち入りが行われた旧暦12/14は、現在の暦に直すと2/3(正確には2/4早朝)で季節的には今頃のことで、雪が降っていてもちっともおかしくない季節でした。(元禄15年十二月十四日は1703年1月30日でしたので訂正させて頂きます)

また元禄16(1703)年二月四日は預け入れ各藩邸において赤穂浪士が切腹を果たした日でもあり、二月と赤穂浪士は深い関係がある月となっています。








より大きな地図で 赤穂浪士関連史跡 を表示






◎関連事項

★赤穂浪士の麻布通過
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_14.html

★ニッカ池(赤穂浪士)
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_9.html

★南麻布の寺坂吉右衛門
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_11.html

★麻布の吉良上野介
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_13.html

★日ヶ窪生まれの乃木希典
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_10.html

★増上寺刃傷事件
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/06/blog-post_14.html