2015年1月31日土曜日

赤穂浪士預け入れ大名邸考

いままで赤穂浪士関係の話をいくつかご紹介してきましたが、それらを調べる中でいつも疑問に思っていた事があります。
それは、江戸市中は広大な広さを持っているにもかかわらず、なぜ赤穂浪士が預けられた大名家は麻布、芝、三田、高輪などいわゆる港区域内の一部に集中していたのかという疑問です。
当所は漠然とした疑問で、お預け大名家の屋敷がたまたま集中していたからではないかと思っていました。

しかし、ある大名家を中心に考えてみるとその疑問が氷解します。
その大名家とは.....上杉家です。

広く知られているように赤穂事件当時の上杉家当主は綱憲で吉良上野介義央の実子の長男でした。またこの綱憲の次男は跡継ぎのいなくなった吉良家に入り、上野介の養子(血縁上は孫)となります。
これにより吉良邸討ち入りの報が入った上杉家では当主綱憲が激怒の上、追っ手を差し向けることが決まります。そして上屋敷には上杉家臣が集結したとされています。【上杉家上屋敷は現在の法務省庁舎あたり(千代田区霞が関1-1-1)】

しかし、上杉家の縁戚である高家・畠山義寧による諫止、幕閣による命令により上杉家軍勢は動くことが出来ませんでした。
そして討ち入りを果たした赤穂浪士は十二月十五日(討ち入りは十四日深夜)早朝、泉岳寺へと引き上げます。
もし上杉家が事件を知らせる一報で動いていたのなら、この引き上げ時に江戸市中での戦闘となっていたと思われます。
泉岳寺への引き上げ途中の汐留あたりで吉田兼亮・富森正因の2名は本隊と分離して大目付仙石伯耆守邸(現在の虎ノ門ニッショーホール)に出頭して討ち入りを報告します。
本隊は泉岳寺に到着しますが、昼近くには幕府により赤穂浪士の引き取りを命ぜられた各大名家の家臣が、深夜の雪から気温が上がって豪雨に変わった泉岳寺に集結しはじめます。
その引き取り部隊の人数は、
















赤穂浪士お預け四家
家 名 藩 主 領 地 藩 邸 現 在 石 高 護 送
藩 士
お 預
浪 士
主な浪士 備 考
細 川 越中守綱利 肥後熊本 高輪下屋敷 高松中学 54万石 847人 17名 大石内蔵助 最厚遇
水 野 監物忠之 三河岡崎 芝中屋敷 慶應仲通り 5万石 153人 9名 間重次郎光興 細川家に続いて厚遇
毛 利 甲斐守綱元 長門長府 日ヶ窪上屋敷 六本木ヒルズ 6万石 200余人 10名 岡島八十右衛門 冷遇後改善
松 平 隠岐守定直 伊予松山 愛宕上屋敷 慈恵医大 15万石 304人 10名 堀部安兵衛 1泊のみ滞在
三田中屋敷 イタリア大使館








やや冷遇





となっており、引き取る人数に比べ異常とも思われる護衛人数となっています。これらはひとえに上杉家の襲撃を恐れたためと考えられ、もし赤穂浪士の自邸への輸送中に上杉家に奪われるか殺傷されてしまうと自家が取りつぶされてしまう可能性もあったためと推測できます。

そして十二月十五日夕刻、手違いにより泉岳寺に集結してしまった預け入れ大名家家臣と赤穂浪士は虎ノ門にある大目付仙石伯耆守邸(現虎ノ門ニッショーホール)へと向かうこととなります。この行程では沿道の大名各家は幕命により門を開いて護衛がかがり火を火を焚くことを命ぜられ明るくなった三田通りから飯倉四つ辻を通過してそのまま現在の櫻田通りを直進して仙石伯耆守邸へと向かいましたが、上杉家中屋敷があった(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)とは200mあまりしか離れておらず、まるで上杉家を挑発するような行程となっていました。

そして仙石邸で預け入れの沙汰を正式に聞いた赤穂浪士は深夜過ぎに分散して各家に向かいます。
この預けられた各大名家と上杉家中屋敷(現在の麻布郵便局~外務省史料館辺)、下屋敷(白金三光坂上現在の服部ハウス辺)は非常に近く、まるで上杉家を事件後も挑発し続けたような配置となっています。

引き取り部隊に最も多くの人数をあてた熊本藩細川家は下屋敷が泉岳寺のすぐ近くであるにもかかわらずたった17名を引き取るのに850名もの人数を出しています。これは熊本藩細川家下屋敷(現在の高輪総合支所、区立高松中学辺)と、上杉家下屋敷(現在の三光坂上服部ハウス辺)の直線距離は400mほどであったことが原因であると考えられます。また同様に上杉家中屋敷(現麻布郵便局、外務省資料館)と長府藩毛利家上屋敷(現六本木ヒルズ)間も680mほどの近距離であり、ともに上杉家の鼻先に獲物をぶら下げたような状態であったと考えられます。
個人的な見解ですが、これらは将軍綱吉とそのブレインの幕閣(主に柳沢吉保)による策略では無いかと思われ、まるで上杉家の目の前に赤穂浪士という生き餌をぶら下げるよう
な状態は預けられた十二月十五日から赤穂浪士が預け入れ大名邸で切腹する翌元禄16(1703)年二月四日までの二ヶ月弱続くこととなります。

この将軍とそのブレインによる計略は吉良上野介を隠居させて江戸城から遠い当時は僻地であった川向こうの本所に屋敷を与え、それにより赤穂浪士の討ち入りを許すこととなったという事例からすでに一度成功を収めているとも思われます。
そして、綱吉が将軍の間に取りつぶされた大名家は、以降幕末までの各将軍が取りつぶした大名家の合計より多とされています。

残念ながら上杉家は綱吉の計略?どうりに取りつぶすことは出来ませんでしたが、吉良家の血が入った吉良系上杉家は末期養子によるペナルティと、高家出身という地位から莫大な浪費に苦しむこととなり、しまいには商家も掛け売りをしなくなり、藩籍返上も考えていたとされています。そしてその瀕死の上杉家は後に九代当主となる上杉鷹山を高鍋藩(上屋敷は現麻布高校敷地)から迎え入れることとなります。

その他にも麻布周辺には赤穂浪士関係のポイントが多数あり、時代は一致しないものもありますが、

  • 先日まで使用されていた麻布図書館仮庁舎の場所には事件解決を先導したと思われる「出羽藩柳沢家」の屋敷。
  • 東麻布いーすと商店街付近にはて浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめた多門伝八郎屋敷。
  • 大黒天栄久山大法寺対面付近にあった吉良上野介義央麻布屋敷。
  • 有栖川公園にあった赤穂(常陸笠間)藩下屋敷(後に赤坂盛岡藩南部氏邸と相対替え)
  • 柳沢家家臣から綱吉顧問となり赤穂浪士切腹論首謀者となる荻生徂徠の墓(魚籃坂下長松寺)
  • 討ち入り後離脱したとされる寺坂吉右衛門本墓(泉岳寺は明治期に造られた供養墓)がある日東山曹渓寺(南麻布)

などがあります。

元禄赤穂事件ネタを時季外れと思われる1/31に書いているのは、討ち入りが行われた旧暦12/14は、現在の暦に直すと2/3(正確には2/4早朝)で季節的には今頃のことで、雪が降っていてもちっともおかしくない季節でした。(元禄15年十二月十四日は1703年1月30日でしたので訂正させて頂きます)

また元禄16(1703)年二月四日は預け入れ各藩邸において赤穂浪士が切腹を果たした日でもあり、二月と赤穂浪士は深い関係がある月となっています。








より大きな地図で 赤穂浪士関連史跡 を表示






◎関連事項

★赤穂浪士の麻布通過
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_14.html

★ニッカ池(赤穂浪士)
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_9.html

★南麻布の寺坂吉右衛門
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_11.html

★麻布の吉良上野介
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_13.html

★日ヶ窪生まれの乃木希典
http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_10.html

★増上寺刃傷事件
http://deepazabu.blogspot.jp/2013/06/blog-post_14.html