2015年9月26日土曜日

十番馬場

十番馬場の前身
芝新馬場
江戸時代、竹長稲荷裏手(現在の新一の橋交差点あたり)に「馬場」がありました。
この馬場は「十番馬場」とよばれ周辺の町人地は「十番馬場町」と命名されていました。
この馬場については、


◇十番馬場-麻布区史
~享保十四(1729)年九月には麻布十番馬場が開設された。この馬場は承応三(1654)年馬口労共より馬場地拝借方を願い出て芝新馬場に於いて長百五拾八間、横幅三拾間余並居屋敷共に拝領して、銘々に住居していたが、享保十四(1729)年八月十一日、その地御守殿用地に召し上げられ、代地を当地に賜ったのである。この地は延宝三(1675)年の金杉新堀開墾以来麻布十番と呼んだので、十番馬場と称した。~

~今の新網町一丁目の辺にあたる。この馬場は江戸初期から明治に近い頃まであった。承応三(1654)年、芝新馬場からこの所へ移してより世に響くに至った。
十番馬場
(※承応三(1654)年は馬場が芝に成立した年でこの記述は誤りと思われます。)

この所は、仙台駒の市場で十一月より十二月にかけて三回馬市がたてられた。~

◇十番馬場-御府内備考
十番は新堀の傍なり。この所に馬場あり。世に十番の馬場といふ。江戸志云、この地は元西応寺町のわきなり、むかしは馬市の立ちし所を浅草芝両所とさだむ。浅草は藪の内といふ所なり。南部駒の市場なり。芝はその所に御守殿たちしかば、かはりとしてこの地をたまへり。
是を仙台駒の市場といふ。十一月より十二月のうち三度の市あり、初見世、二日め三日めと唱ふとそ。
御馬工郎(馬喰)の家とて福田、河合、吉成、矢部などいふ七人ありとなり。又一説にこの地は長岡郡小沼興次兵、後藤半平、金子七十郎、川井次郎兵衛、川口彌太郎といふものうけ給り、永坂の名主次郎次郎左衛門支配せり。里人七人衆と唱ふ。そのむかしは十三人ありしと。かれら
現在の十番馬場跡
が先組は信濃の者にて、天正十八(1590)年関東御討入のころ江戸に来たりその頃より府中六所明神(大國魂神社)の、馬場にて諸国の馬仙台より来りて、毎年これをのり公に奉り、その後芝にて地をかし給いひ、馬場をも下されしが、後年竹姫君(綱吉・吉宗養女:浄岸院)松平(島津)薩摩守継豊の許へ御入輿あり。
御守殿も建史しかばかの屋敷のそへ地として下されしにより、馬場も今の地(十番馬場)にうつさるといふ。
毎年仙台馬をここにてえらべり。
この拝借地の中に享保十四(1729)年三月官許を得て町屋を開いたのが十番馬場町であって、その所には長岡久治郎、小沼正助、後藤甚四郎、金子篤太郎、河合栄三郎、河合次郎兵衛、川口喜重郎の七人の浪人が馬口労(馬喰)として九十一坪の至百六十三坪の宅地を拝借地として所持していた。この者共は元地(芝)新馬場に居た時は十五人であったが、追々武家方に召出され、十番に移った時は七人に減じたのである。

そしてこの十番馬場で乗馬用の「十番袴」が考案されることになります。
この十番袴とは、


★じゅうばん‐じたて〔ジフバン‐〕【十番仕立て】
乗馬に向くように、襠(まち)を高く、裾(すそ)を広く作った袴。
今日の男袴の源流。十番馬乗袴。十番。
[補説]江戸の麻布(あざぶ)十番に住んでいた
馬乗りが考案したからという。

出典:デジタル大辞泉

★十番馬乗り袴
【読み:じゅうばんうまのりばかま】

ふつう、「十番仕立て」という袴の仕立て方、また、それで仕立てた袴のことをいいます。
その語源は、江戸麻布十番に住んでいた馬乗りが用いたことから始まります。裃といわれる
肩衣袴は、袴の襠が下のほうにあって馬乗りには不便なところから、これを改良して襠高袴
につくって用い、しだいに普及していったといわれています。江戸時代中期末からの流行で、
これが今日の男袴の源流でもあります。

などとあり、今日の男性用袴の原型となっていることがわかります。

また、十番に移転する前の芝新馬場の場所は時代が下って明治になると、再び馬に関係する場所がすぐ近所に建設される事となります。
この芝新馬場の地で江戸期には薩摩藩邸であった場所に1879(明治12)年には、元薩摩藩邸敷地内に正式な競馬場である「三田育種場興農競馬場」が設置されることになり、この競馬場が皇室・貴族・外国人などしか入場が認められていなかったため、鹿鳴館外交の一端を担う場所となります。






 


三田育種場興農競馬場










★関連事項

三田育種場興農競馬場